荘子(生没年不詳,一説に紀元前369年~紀元前286年)は、名前を荘周(そうしゅう)といい、字(あざな)は子休(しきゅう)であったとされる。荘子は古代中国の戦国時代に活躍した『無為自然・一切斉同』を重んじる超俗的な思想家であり、老子と共に『老荘思想』と呼ばれる一派の原型となる思想を形成した。孔子の説いた『儒教』は、聖人君子の徳治主義を理想とした世俗的な政治思想の側面を持つが、荘子の『老荘思想』は、何ものにも束縛されない絶対的な自由を求める思想である。
『荘子』は世俗的な政治・名誉から遠ざかって隠遁・諧謔するような傾向が濃厚であり、荘子は絶対的に自由無碍な境地に到達した人を『神人(しんじん)・至人(しじん)』と呼んだ。荘子は『権力・財力・名誉』などを求めて、自己の本質を見失ってまで奔走・執着する世俗の人間を、超越的視座から諧謔・哄笑する脱俗の思想家である。荘子が唱えた『無為自然・自由・道』の思想は、その後の『道教・道家』の生成発展にも大きな影響を与え、老子・荘子は道教の始祖とも呼ばれている。荘子は『内篇七篇・外篇十五篇・雑篇十一篇』の合計三十三篇の著述を残したとされる。
金谷治『荘子 全4冊』(岩波文庫),福永光司・興膳宏『荘子 内篇』(ちくま学芸文庫),森三樹三郎『荘子』(中公文庫・中公クラシックス)
[書き下し文]
逍遥遊篇 第一
北の冥(うみ)に魚あり。その名を鯤(こん)と為す。鯤の大きさ、その幾千里(いくせんり)なるを知らず。化して鳥と為る(なる)とき、その名を鵬(ほう)と為す。鵬の背、その幾千里なるを知らず。怒りて飛べば、その翼は天に垂れる雲の若し(ごとし)。是の鳥は、海の運く(うごく)とき、将に南の冥(うみ)に徒らん(うつらん)とす。南の冥とは、天のなす池なり。
斉諧(せいかい)とは怪を志す者なり。諧の言(ことば)に曰う、「鵬の南の冥に徒るとき、水に撃つこと三千里、扶揺(つむじかぜ)に搏きて(はばたきて)上ること九万里、去るに六月の息(かぜ)を以てする者なり」と。
[現代語訳]
北の冥き(くらき)海に怪魚がいた。その名前を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里あるか分からないほどに巨大である。鯤が変化して鳥になる時、その名前を鵬(ほう)という。鵬の背中の大きさは幾千里あるか分からないほどに巨大である。鵬が怒って勢い良く飛び立てば、その翼はまるで天に垂れている雲のようになる。季節風で潮目が変わって海が動く時、鵬は北の海から南の海へと移ろうとする。南の冥き海とは、天が生み出した巨大な池である。
斉諧とは、不思議な事柄を良く知っている者である。諧が言うことには、「鵬が南の冥い海に移る時、羽で水を撃つと三千里もの長さにわたって揺れ、旋風に羽ばたいて飛び立つと九万里も上空に浮かび、鵬は六月の風に乗って北の海を去っていくのだ」と。
[解説]
古代中国に生まれたとされる『鵬鯤(ほうこん)の神話』に関連して述べられた部分で、想像力を刺激される雄大な世界観が滲み出ている。常識人の度肝を抜いて驚かせ、世界の根本原理を不思議な神話で直接に示そうとしている。斉諧という架空の人物を拵えることで、いつも『昔の聖人君子・賢者の権威』に頼ろうとする思想家のワンパターンさを揶揄しているところも小気味良い。二匹の巨大で幻想的な動物が登場しているが、怪魚の『鯤』も怪鳥の『鵬』も、荘子が目指している『ダイナミックな自由無碍』を象徴する幻獣のような役割を果たしている。
[書き下し文]
逍遥遊篇 第一(つづき)
野馬(かげろう)と塵埃(じんあい)と生物の息を以て相吹くと、その遥かなる高みにひろがる天の蒼蒼(そうそう)たるは、その正しき色なるか、その遠くして極みに至ることなきためか。その九万里の上よりして下を視る(みる)も、また是くの若く蒼蒼たらんのみ。
且つ夫れ(かつそれ)、水の積るる(たたえらるる)こと厚からざるときは、大舟を負ぶる(うかぶる)に力なし。杯(さかずき)の水を幼堂(ようどう)の上に覆せば、芥(あくた)これにうかびて船とならんも、杯を置くときは膠かん(こびりつかん)。水の浅きに舟とするものの大きければなり。風もその積る(あつまる)こと厚からざるときは、大いなる翼を負する(のする)に力なし。故に九万里なるときは、風(おおかぜ)斯ち(すなわち)その下に在り(あつまれり)。かくて今(而後乃今)、風の背に培り(のり)、青天を負いて、之を夭閼る(さえぎる)ものなし。かくて今、将に南するを図らんとす。
[現代語訳]
地上では陽炎が揺らめき塵埃が立ち込め、生物たちが呼吸をしているが、その遥かな高みに広がっている天空の美しい蒼さは、天空の本当の色なのか、それとも天空と地上が隔たっていて遥かに遠く離れているからそう見えるのか。逆に九万里の高い上空から下界の地上を見下ろした時には、また地上の世界のほうもこのように美しい空のような蒼に見えるのだが。
そして、水が湛えられている量が十分に多くない時には、その水に大きな舟を浮かべるだけの力はない。杯の水を堂上のくぼんだ部分にこぼせば、小さなゴミのような塵芥が浮かびはするが、杯をそこに置けば底にこびりついてしまうだけだ。浅くて少ない量の水に、大きな舟を無理に浮かべようとするからである。風も十分な強さが蓄えられていない時には、大きな翼を浮かべるだけの力がない。だから、九万里もの高さを飛ぶ時には、非常に強い大風がその翼の下に集まっているのである。そして今、風の背に乗って、青い空に浮かんで、鵬の飛行を妨げるものもない。そして今、鵬は南の海に渡ろうと考えているのである。
[解説]
大海を波立たせながら、巨大な翼で強風に乗って、南の海へと力強く飛翔する大鵬(たいほう)は、『地上=世俗のしがらみ・欲望』を超越して自由な世界へと飛び立とうとする『超越者たる至人・神人』のメタファーにもなっている。大空に飛翔する大鵬は、矮小な俗物の人間、卑小な欲望への執着を嘲笑うかのように巨大な翼をはためかせて上空から見下ろしているが、これは荘子の追い求めた『無為自然の生命力・世俗世界の超越・人間存在の解放(抑圧されない自分であること)』をイメージさせる図式でもある。
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