弱肉強食の論理が優先される戦国時代に、軍事力による覇道政治を戒めて、道徳による王道政治の理想を説いたのが儒学の大家である孟子です。孟子と戦国諸侯の含蓄のある対話や孟子と高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『孟子』の公孫丑章句(こうそんちゅうしょうく)の書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。ここでは『孟子』の公孫丑章句の前半部分(孟子 第三巻)の一部を抜粋して解説しています。冒頭にある1,2,……の番号は、『孟子』の実際の章とは関係なく便宜的につけているものです。
[書き下し文]1.公孫丑問いて曰く、夫子(ふうし)、斉の卿相(けいしょう)に加り(おり)、道を行うことを得れば、これに由りて覇王たらしむと雖も異しまず(あやしまず)。此く(かく)の如くあれば、則ち心を動かすか否か。孟子曰く、否、我四十にして心を動かさず。曰く、是く(かく)の若くんば(ごとくんば)、則ち夫子は孟賁(もうほん)に過ぐること遠し。曰く、是れ難からず。告子(こくし)は我に先立ちて心を動かさず。曰く、心を動かさざるに道ありや。曰く、あり。北宮ユウの勇を養うや、膚(はだ)撓まず(たわまず)、目逃げず。一毫(いちごう)を以て人に挫しめらるるを思うこと、これを市朝(しちょう)に撻たれる(むちうたれる)が若く、褐寛博(かつかんぱく)にも受けず、亦万乗の君にも受けず。万乗の君を刺すを視る(みる)こと、褐夫(かっぷ)を刺すが若し。諸侯をも厳るる(おそるる)ことなく、悪声至らば、必ずこれを反せり(かえせり)。
孟施舎(もうししゃ)が勇を養う所は、曰く、勝たざるを視ること、猶勝つがごとし。敵を量りて後に進み、勝つを慮りて後に会するは、是れ三軍を畏るる者なり。舎(しゃ)豈(あに)能く必ず勝つを為さんか。能く懼るる(おそるる)なきのみと。孟施舎は曾子(そうじ)に似たり。北宮(ほくきゅう)ユウは子夏(しか)に似たり。夫の(かの)二子(にし)の勇は、未だその孰れか(いずれか)賢れる(まされる)を知らず。然り而して(しこうして)孟施舎は守り約なり。昔者(むかし)曾子、子襄(しじょう)に謂いて曰く、子(し)、勇を好むか。吾嘗て大勇のことを夫子に聞けり。自ら反みて縮からずんば(なおからずんば)、褐寛博と雖も吾惴れ(おそれ)ざらんや。自ら反みて縮ければ(なおければ)、千万人と雖も吾往かんと。孟施舎の気を守るは、また曾子の守り約なるに如かず。
曰く、敢えて問う、夫子の心を動かさざると、告子の心を動かさざると、聞くを得べきかと。告子は、言に得ざれば、心に求むること勿かれ。心に得ざれば、気に求むること勿かれと曰えり。心に得ざれば、気に求むること勿かれとは、可なり。言に得ざれば、心に求むること勿かれとは、不可なり。夫れ(それ)志は気の帥(すい)なり。気は体は充たすものなり。夫れ志至れば、気はこれに次まる(とどまる)。故に曰く、その志を持りて(まもりて)、その気を暴なう(そこなう)ことなかれと。既に志至れば、気はこれに次まると曰いて、またその志を持り、その気を暴なうことなかれと曰うは何ぞや。曰く、志壱ら(もっぱら)なれば則ち気を動かし、気壱らなれば則ち志を動かせばなり。今、夫れ蹶く(つまづく)者、趨る(はしる)者は、是れ気なり。而れども反ってその心を動かすことあり。敢えて問う。夫子悪にか(いずくにか)長ぜる。
曰く、我言を知る。我善く吾が浩然の気(こうぜんのき)を養うと。敢えて問う、何をか浩然の気と謂う。曰く、言い難し。その気たるや、至大至剛(しだいしごう)、直(ちょく)を以て養いて害なうことなければ、則ち天地の間に塞ちる(みちる)。その気たるや、義と道とに配す。是なければ餒うるなり。是れ義に集まって生ずる所の者にして、義襲いてこれを取れるに非ざるなり。行い心に慊ざる(こころよからざる)あれば、則ち餒う。我故に、告子は未だ嘗て義を知らずと曰えるは、そのこれを外にせるを以てなり。必ず事をするにありて、正める(さだめる)こと勿かれ。心に忘るること勿かれ。助けて長ぜしむること勿かれ。宋人の若く然する(しかする)こと勿かれ。宋人にその苗の長ぜざるを閔えて(うれえて)、これを堰ける(ぬける)者あり。茫茫然として帰り、その人に謂いて曰く、今日は病れぬ(つかれぬ)、予(われ)苗を助けて長ぜしめたりと。その子趨りて往きてこれを視れば、苗は則ち枯れたり。天下の苗を助けて長ぜしめざる者は寡なし(すくなし)以て益無しと為してこれを舎つる(すつる)者は、苗をくさぎらざる者なり。これを助けて長ぜしむる者は、苗を堰く者なり。徒に益無きのみに非ず、而してまたこれを害なう(そこなう)と。何をか言を知ると謂う。
曰くヒ辞はその蔽わるる(おおわるる)所を知り、淫辞はその陥る所を知り、邪辞はその離るる所を知り、遁辞はその窮まる所を知る。その心に生じれば、その政に害あり。その政に発すれば、その事に害あり。聖人復(また)起こるも、必ず吾が言に従わんと。宰我(さいが)・子貢(しこう)は善く説辞を為し、ゼン牛・閔子・顔淵は善く徳行を言い、孔子はこれを兼ねたまえるも、我辞命に於いては、則ち能わずと曰えり(のたまえり)。然らば則ち夫子は既に聖なるかと。曰く、悪(ああ)、これ何の言ぞや。昔者(むかし)子貢、孔子に問いて、夫子は聖なるかと曰うとき、孔子は、聖は則ち吾能わず、我は学びて厭わず、教えて倦まざると曰えり。子貢、学びて厭わざるは智なり、教えて倦まざるは仁なり、仁にして且つ智ならば、夫子は既に聖なりと曰えり。夫れ聖は孔子も居らざる(おらざる)に、是れ何の言ぞやと。昔者窈かに(ひそかに)これを聞けり。子夏・子游・子張は、皆聖人の一体あり、ゼン牛・閔子・顔淵は、則ち体を具えて而して微なりと。敢えて安る(おる)所を問う。曰く、姑く(しばらく)是を舎け(おけ)。曰く、伯夷・伊尹は何如。曰く、道を同じくせず。その君に非ざれば事えず、その民に非ざれば使わず。治まれば則ち進み、乱るれば則ち退くは、伯夷なり。何れ(いずれ)に事うるとしてか君に非ざらん、何れを使うとしてか民に非ざらん。治まるも亦進み、乱るるも亦進むは、伊尹(いいん)なり。
以て仕うべくんば則ち仕え、以て止むべくんば則ち止み、以て久しかるべくんば則ち久しくし、以て速やかにすべくんば則ち速やかにするは、孔子なり。皆古の聖人なり。吾は未だ行うことある能わざるも、乃ち願う所は、則ち孔子を学ばんと。伯夷・伊尹の孔子に於けるは、是くの若く班しき(ひとしき)か。曰く、否。生民ありてより以来、未だ孔子あらざるなり。曰く、然らば則ち同じくあるか。曰く、あり。百里の地を得て而してこれに君たらば、皆能く以て諸侯を朝せしめて、天下を有さん。一不義を行い、一不辜を殺して、而して天下を得るは、皆為さざるなり。是れ則ち同じ。曰く、敢えてその異なる所以を問う。曰く、宰我・子貢・有若は、智以て聖人を知るに足り、ほむる(ほむる)もその好み(よみ)する所に阿る(おもねる)に至らず。宰我は、予を以て夫子を観れば、尭・舜に賢る(まさる)こと遠しと曰い、子貢は、その礼を観て而してその政を知り、その楽を聞きて而してその徳を知る。百世の後より、百世の王を等る(はかる)に、能く違う莫きなり(なきなり)、生民より以来、未だ夫子あらざるなりと曰い、有若は、豈(あに)惟(ただ)民のみならんや、麒麟の走獣に於ける、鳳凰の飛鳥に於ける、泰山の丘テツに於ける、河海の行ロウに於ける、類なり、聖人の民に於けるも、亦類なり、その類より出でて、その萃(すい)に抜きんでたること、生民より以来、未だ孔子より盛んなるはあらざるなりと曰えり。
[口語訳]公孫丑がお尋ねして言われた。『先生(孟先生)が斉国の大臣の官位を得て徳治の政治を行ったならば、これによって天下を統一する王者(覇者)が誕生することは誰も不思議に思わないでしょう。しかし、実際にそういった立場になられたら、心が動揺することもあるのではないでしょうか?』孟子がお答えして言われた。『いいえ、私は40歳で心が動揺することがなくなった。』『それが本当だとしますと、先生は(勇士として名の知られた)孟賁(もうほん)よりも遥かに優れておられるのですね。』『それはそんなに難しいことではない。告子(告不害君)は、私よりも前から心が動揺することがなかったそうだ。』『心が動揺しないためには方法があるのですか?』
『方法はある。北宮ユウ(ほくきゅうゆう)は勇気を鍛えるために、皮膚に刃物が迫っても身じろぎせず、目の前に針を突きつけられても、瞬き(まばたき)をしないようにした。他人からほんの僅かな侮辱を受けても、町の広場で衆人環視の中で叩かれたように感じるようにする。そのような精神の鍛錬をすると、毛織のほどけた衣服を着た卑賤な人間から侮辱を受けても跳ね返せるし、万乗の大国の君主から恥辱を受けても跳ね返して気にしない。大国の君主を刺殺するのも、卑賤な人間を刺殺するのも同じようなものである。列強の諸侯が、自分に対して遠慮なく暴言を吐いていると聞けば、(恐れることなく)必ず報復することができる。また、孟施舎(もうししゃ)は勇気の鍛錬について、「勝てない場合も勝てる場合と同じような堂々とした態度で対峙するように心がける。敵の力を推測して、味方より劣っている場合に初めて進行し、味方の勝利を予測できるときにだけ敵と会戦するというのでは、敵が三軍の大勢であると必ず逃げ腰になってしまうからである。自分にしても、いつも必ず勝つと確信しているわけではない。ただ、敵の数が多いからといって臆病に怯えないだけだ。」と言っている。孟施舎は学者に喩えると曾子に近く、北宮ユウは子夏に近い。どちらが優れているとは言い難いが、孟施舎の勇気の鍛錬のほうが簡潔であり要領を得ている。かつて曾先生(曾子)が子襄に向かって言われた。「あなたは勇気を愛するか?私は昔、孔先生(孔子)にお尋ねした。[大勇とはどんなものでしょうか?]と。孔先生をおっしゃった。[自分で反省してみて、自分がまっすぐでないと分かったならば(自分が正しくないと確信できたならば)、相手が毛織のだらしない衣服を着た卑しい人間でも恐れないわけにはいかない。自分で反省してみて、自分がまっすぐだと思ったならば(自分が正しいと確信できたならば)、敵が一千万人であっても私は堂々と相手をするだろう。]」と。こう考えると、孟施舎の気の守り方は、曾子の簡潔で的を射た守り方に及ばないのである。』
『敢えてお聞きしますが、孟先生の心が動揺しないのと、告先生の心が動揺しないのとではどう違うのかを教えてもらえませんか?』『告子は「言葉によって分からないことを、心によって分かろうとしてはいけない。心によって分からないことを、気によって分かろうとしてはいけない」と言っている。心によって分からないことを、気によって分かろうとしてはいけないというのはまだ良い。しかし、言葉によって分からないことを、心によって分かろうとしてはいけないというのは間違っている。その理由は、意志というのは気の指揮官であり、気というのは肉体に充満している。意志がそこに赴けば、気もそれに従って行くものである。そのため、意志は乱れないように大切に維持して、気をむやみに浪費して損なってはならないのである。』『先生は、一方では「意志がそこに赴くと、気もそれに従っていく」と言いながら、一方では「意志は乱れないように大切に維持して、気をむやみに浪費して損なってはならない」と言われます。これは、矛盾してはいないでしょうか?』『意志を一方に集中させると、気も自然に動いてしまうものである。しかし、気が一方に集中されると、逆に、意志も動きだすものなのだ。今、人が躓いたり、走ったりするのは、確かに気がそうさせているといえる。しかし、躓いたり、走ったりすることで、心も動かされているのである。』
『失礼ですが、先生は何が得意なのですか?』『私は、人の言葉を残らず理解することができる。私は、更に浩然の気を養っている。』『浩然の気とは何なのですか?』『なんとも説明しにくい。浩然の気とは、何者よりも大きく最高に強いもので、少しも曲がることがなく、まっすぐに養えば天地の間いっぱいに満ちるものである。また、浩然の気は、君子が生きるべき義と道から離れることが出来ない。もし、切り離せば気は飢えて死んでしまうのである。浩然の気は、義を実践したのが積み重なって生まれたものであり、義のほうが浩然の気を突然取り入れたものではない。人間の行動が義にもとり、心を満足させられないと、浩然の気は飢えて消えてしまう。私が、告子が義を理解していないと思うのは、彼が義は心の外に存在するものと考えていたからである。浩然の気を養うことに努力する際には、それだけに熱中してもいけないし、完全に忘れてもならない。外から助けてそれを無理に生長させてもいけない。宋人のようにしてはいけない。宋国のある男が、苗の生育しないのを心配して、これをぐいっと引っ張った。疲れ果てて帰ってきて、家人に「今日は疲れた。苗を助けて伸ばしてやったから。」と言った。息子が走って行ってみると、苗は枯れていた。天下には(この宋人のように)苗をひっぱって無理に生長させようとするようなことをしない人はほんの僅かしかいない。これが作物に害があると知って、苗を捨てておく人は、田んぼの草取りもしない人である。苗を手助けしてこれを伸ばそうとする人は、苗を引き抜いてしまう人である。ただ利益がないばかりでなく、かえって苗に害を与えるだけである。』『先生が、他人の言葉が全て分かると言ったのはどういうことですか?』
『偏った発言は、その盲点が分かる。誇張した発言は、その勇み足が分かる。詭弁の発言は、その道理から離れることが分かる。その場凌ぎの発言は、動きの取れなくなってしまった点が分かる。こういう言葉が心に生まれると、政治に害を及ぼす。政治に害が生じれば、国家の大事に害が及ぶのである。聖人が今の世に復活されれば、きっとこの私の主張に賛同されることだろう。』『(孔子の門下であった)宰我(さいが)と子貢(しこう)は議論が得意であり、ゼン牛・閔子・顔淵は道徳的な振る舞いに言及しています。孔先生は議論と道徳の両方を兼ねていましたが、「私は議論は得意ではない」とおっしゃっていました。そうなると、両方を兼ね備えている孟先生は、既に孔子以上の聖人の境地に達しているのですか?』『ああ、それは何と言う発言だ。昔、子貢が孔子にお尋ねした。「先生は聖人ですか?」と。孔子が言われた。「聖人には私は全く及ばない。私はただ学問をして飽きず、教育をして退屈しないだけだ。」と。子貢が言った。「学問をして飽かないのは智です。教育して退屈しないのは仁です。仁の上に更に智を持っていれば、先生は既に聖人の域に達しています。」と。聖人には孔子ですら自分でその地位に置いていないのだ、あなたの「私(孟子)が聖人であるか?」という今の発言はどうしたことか?』
『私が聞いている話では、子夏・子游・子張はそれぞれ孔子の一面(部分)を継承していて、ゼン牛・閔子・顔淵はそれぞれ孔子の特徴を全面的に継承しているものの、その特徴が薄らいでいるそうです。先生は彼らの中でどの位置におられるのですか?』孟子がおっしゃった。『この問題は、しばらく後の課題として置いておこう。』『古代の聖人の伯夷(はくい)と伊尹(いいん)はどうでしょうか?』『それぞれ違う道を歩いている。理想に完全に合った君主でないと仕えないし、理想に完全に合った人民でないと使わない。天下が治まると世俗に出るが、天下が乱れると世俗を退き隠遁する。それが伯夷である。どこに仕えても君主に変わりはない、どこの人民を使っても人民に変わりはない。天下が治まっていても仕え、天下が乱れていても仕える。それが伊尹である。仕えるべき時は仕え、辞職する時は辞職し、長く続けて在職すべき時は在職し、早急に辞職すべき時には辞職する。それが孔子(孔先生)である。全て昔の聖人であるから、私はまだどの道も実践できていない。しかし、出来るのであれば孔先生の道を学びたいと思う。』『伯夷・伊尹は、孔子と同等なのですか?』『いや、違う。人間が誕生して以来、いまだ孔子のような聖人は出ていない。』『しかし、どこかに似た点があるのでしょうか?』『ある。百里四方の土地を手に入れて君主となれば、三人とも諸侯を服従させて天下を統一できるだろう。しかし、一つの正義に背く行為をし、一人の無実の人間を殺せば天下を統一できるとしても、三人ともそれを決してしないという点で同じである。』『それでは、三人の違う点をお聞かせください。』
『宰我・子貢・有若の知能は、孔子を理解するに十分であり、多少大袈裟に言っていても好きな人を依怙贔屓(えこひいき)しない人たちである。宰我は「私から孔先生を見れば、古代の聖人である尭・舜より遥かに勝っている。」と言った。子貢は「その人が定めた礼制を見れば、政治の状況が分かる。その人の作った音楽を聴けば、道徳の高低が分かる。礼楽さえ残っていれば、百代の後世から百代以前の王を比較しても、少しも誤ることがない。こうして比較すれば、人間が誕生して以来、孔先生のようなことはいない。」と言った。有若は「ただ人民だけではない。四つ足で走る獣の麒麟、飛ぶ鳥における鳳凰、丘と小高い丘における泰山、たまり水における河・海にも同類というものがある。先生のような聖人も一般の人民も同類であるが、麒麟・鳳凰・泰山・河海がその同類に対してずば抜けているように、先生もその同類から飛び出ており、特別に抜きん出ている。人間が誕生して以来、孔先生より素晴らしい者はいないのである。」と言った。』
[解説]孟子が弟子の公孫丑の質問に答えた章であり、前半部分では意志と心との関係の中で「気」の理論について解説している。孟子は、斉の大臣になって国政の大任に当たっても全く心が動じることはないと答え、既に40歳にして不動の境地(動揺しない心)を確立したと語る。公孫丑は、心を動揺させず勇気を保つための方法を孟子に聞くが、孟子は北宮ユウ・孟施舎・孔子の方法を例にとって勇気の保ち方を解説し、その中でも「自ら反みて縮からずんば(なおからずんば)、褐寛博と雖も吾惴れ(おそれ)ざらんや。自ら反みて縮ければ(なおければ)、千万人と雖も吾往かん」と語った孔子の方法が最も簡潔で要領を得ているとした。つまり、勝敗の行方(ゆくえ)や相手の数の大小を予測して自らの行動を決断するのではなく、自分を振り返ってみて、自分がまっすぐに正しいのであれば迷わずに勇気を奮って堂々と戦えば良いというわけである。
孟子は揺るがない心の泉としてまっすぐな「浩然の気」を養っているが、浩然の気とは何者よりも大きくどんな物よりも強いもので、正しいことを実践する義の徳を積み重ねることで養われるものである。孟子は「気」を純粋な自然物や無機的なエネルギーとは考えず、人間の意志や心によってある程度コントロールできるものと考えていたようである。後半部分では、公孫丑から「議論と道徳を兼ね備えた孟先生は、聖人といって良いのでしょうか?」と聞かれた孟子が、「孔先生でさえ自分のことを聖人とは認めたことがなかったのに、何と言う馬鹿げた質問をするのか?」と飽きれた感じでたしなめる。孟子は、人間が誕生して以来、孔子のように優れた人はまだ登場していないと言い、古代の名宰相であった伯夷・伊尹と孔子を比較しても孔子の歩んだ道のほうが優れていたと語る。最後には、孔子が将来を期待した高弟である宰我・子貢・有若の言葉を借りて、孔子が如何に優れた聖人君子であったかを分かりやすく解説しようとしている。
[書き下し文]2.孟子曰く、人皆、人に忍びざるの心あり。先王、人に忍びざるの心ありて、斯ち(すなわち)人に忍びざるの政あり。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行わば、天下を治むること、これを掌上に運らす(めぐらす)べし。人皆、人に忍びざるの心ありと謂う所以の者は、今、人乍(にわか)に孺子(じゅし)の将に井(せい)に入らんとするを見れば、皆ジュッテキ・惻隠(そくいん)の心あり。交わりを孺子の父母に内れん(いれん)とする所以にも非ず、誉れを郷党・朋友に要むる所以にも非ず、その声を悪みて然るにも非ざるなり。是に由りてこれを観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪(しゅうお)の心無きは、人に非ざるなり。辞譲(じじょう)の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は、仁の端(はじめ)なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端(したん)あるは、猶その四体あるがごときなり。是の四端ありて、而して自ら能わずと謂う者は、自ら賊なう者なり。その君を能わずと謂う者は、その君を賊なう(そこなう)者なり。凡そ(およそ)我に四端ある者、皆拡めて(ひろめて)これを充たすことを知らば、火の始めて然え(もえ)、泉の始めて達するが若し。苟しくも能くこれを充たせば、以て四海を保んずるに足らんも、苟しくもこれを充たさざれば、以て父母に事うるにも足らず。
[口語訳]孟子がおっしゃった。『人間はみんな、他人の不幸や悲しみを看過できない忍びざるの心(同情心)を持っている。古代の聖王に、他人の不幸を見過ごせない同情心があり、他人の不幸に同情する政治を為された。他人の不幸に同情する心で、他人の不幸を思いやる政治を行ったならば、天下を治めることは、まるで天下を手の平の上で転がすようなものである。人間がみんな、他人の悲しみに同情する心を持っている理由は、今、子どもが井戸に落ちようとしているのを見たら、人は誰でも驚き慌てて、居ても立ってもいられない気持ち(子どもを思いやり痛ましく感じる気持ち)になる。子どもの父母に取り入ろうとする思惑があるわけではない。郷土や友達に、子どもを助けたという名誉や評価を求めるわけでもない。子どもを見殺しにしたら、無情な人間だという悪評が立つのではないかと思うからでもない。この事から考えると、惻隠の心(いたたまれなくなる同情心)を持たぬ者は、人間ではない。羞恥の感情を持たぬ者も、人間ではない。謙遜の感情を持たぬ者も、人間ではない。善悪を分別する是非の心を持たぬ者も、人間ではない。惻隠の心は、仁の端緒である。羞恥の感情は、義の端緒である。謙遜の感情は、礼の端緒である。是非の感情は智の端緒である。人がこの四つの端緒を持っているのは、人間が四肢を供えているようなものである。この四つの端緒を持ちながら、仁義礼智の実践ができないというのは、自分自身を殺そうとする者である。自分の君主が、徳の実践を出来ないという者は、自分の君主を殺そうとする者である。全て自分の中で四つの端緒を備えた者は、みんなこれを拡大して充実することを知れば、火が初めて燃え出し、泉が初めて湧き出すようなものである。四つの端緒を充実拡大させれば、十分に天下を安らかに統治することができるが、拡充できなければ父母に十分に仕えることさえ出来ないのである。』
[解説]孟子の説く道徳規範の根本が「惻隠の心(惻隠の情)」であり、「ジュッテキの心」である。ジュッテキの心とは、端的に「他人の苦難や危険」を恐れること、慌てることを意味する。惻隠(そくいん)の心とは、「他人の不幸や悲しみ」を我が身に降りかかったもののように感じて同情する心であり、共感的な思いやりの心のことである。惻隠の情を持つ有徳の君子は、他人の不幸や苦痛を和らげようとする「仁の道」を必然的に実践することになる。何故なら、惻隠の心とは、他人の悲しみや痛みに対して共感的に同情するだけの心ではなくて、他人の苦しんでいる状態に対して居ても立ってもいられなくなる心だからである。「惻隠の情」とは「人に忍びざるの心」であって、他人が悲しんだり困っている状態を見過ごさない積極的な行動を伴う同情心なのである。
[書き下し文]3.孟子曰く、矢人(しじん)は豈函人(かんじん)より不仁ならんや。矢人は惟人を傷つけざらんことを恐れ、函人は惟人を傷つけんことを恐る。巫匠(ふしょう)も亦然り。故に術は慎まざるべからざるなり。孔子曰く、仁に里る(おる)を美し(よし)と為す、択びて仁に処らず(おらず)、焉んぞ智たるを得ん。夫れ仁は、天の尊爵なり。人の安宅なり。これを禦むる(とどむる)莫くして不仁なるは、是れ不智なり。不仁・不智、無礼・無義は、人の役(えき)なり。人の役にして人に役せらるることを為すを恥ずるは、由(なお)、弓人(きゅうじん)にして弓を為る(つくる)を恥じ、矢人にして矢を為るを恥ずるがごとし。如し(もし)これを恥じなば、仁を為すに如くは莫し。仁者は射(しゃ)の如し。射る者は己を正しくして後に発つ(はなつ)。発ちて中らざる(あたらざる)も、己に勝てる者を怨みず、諸(これ)を己に反求(はんきゅう)するのみ。
[口語訳]孟子がおっしゃった。『矢を作る職人が、どうして鎧を作る職人よりも不仁だと言えるのだろうか?(いや、そうとは言えない。)矢を作る職人は、作った矢が人間を負傷させられないことを恐れ、鎧を作る職人は、鎧を着た人が負傷することを恐れる。勝利を願う祈祷をする巫女と棺桶を作る大工もまた同じである。その為、仕事をする際には、注意深くしなければならない。孔子がおっしゃった。「仁の徳に住み着いていることは、素晴らしいことである。仁を選び取って、その仁の上にいない人は、どうして智を得ることができるだろうか?」と。仁は天が賜与する最高の爵位である。人が安らかに住める家宅である。誰も仁に住むことを妨げていないのに、不仁であるのは智がないということである。不仁・不智・無礼・無義は、人に使われる下僕にしか過ぎない。仁を実践しないために、人の下僕になっていて下僕であることを恥とするのは、弓師が弓を作るのを恥じ、矢作りの職人が矢を作るのを恥じるのと何ら変わらない。もし、下僕であることを恥じるならば、仁を実践することに及ぶことはない。仁を実践する者は、弓を射る者と同じである。弓を射る人は、自分の姿勢を正しくしてから矢を射る。矢を放って命中しないでも、自分に勝った相手を恨まず、その失敗の原因を反省し己に問い返すのである。』
[解説]「孟子」のこの章は、職業差別につながるという批判もある章だが、「孟子」は仁徳に優れた君子であれば他人に使役されるような下僕にはならないと語った。孟子は、武力を用いない王道政治によって人民を教化することを至上の徳だと考えたので、人を殺傷する戦争に加担する矢作りの職人や鎧作りの職人には批判的であった。仁の徳に住み着くという君子の生き方は、孔子の「論語 里仁篇」で既に示されており、孟子は仁の実践を君子が弓を射る行為に巧みになぞらえている。弓を射る仁者は、他人と勝ち負けを競って弓を射るのではなく、自分の欠点や未熟を反省してより良い人格を練り上げるために粛々と弓を射るのである。
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