『孟子』の公孫丑章句:2の書き下し文と解説

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弱肉強食の論理が優先される戦国時代に、軍事力による覇道政治を戒めて、道徳による王道政治の理想を説いたのが儒学の大家である孟子です。孟子と戦国諸侯の含蓄のある対話や孟子と高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『孟子』の公孫丑章句(こうそんちゅうしょうく)の書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。ここでは『孟子』の公孫丑章句の後半部分(孟子 第四巻)の一部を抜粋して解説しています。冒頭にある1,2,……の番号は、『孟子』の実際の章とは関係なく便宜的につけているものです。

[書き下し文]1.孟子曰く、天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。三里の城、七里の郭(かく)、環りて(めぐりて)これを攻むるも勝たず。夫れ(それ)環りてこれを攻むるは、必ず天の時を得る者あるべし。然り而して勝たざる者は、是れ天の時、地の利に如かざればなり。城高からざるに非ざるなり。地深からざるに非ざるなり。兵革堅利(へいかくけんり)ならざるに非ざるなり。米粟(べいぞく)多からざるに非ざるなり。委してこれを去るは、是れ地の利、人の和に如かざればなり。故に曰く、民を域る(くぎる)に封彊(ほうきょう)の界(さかい)を以てせず、国を固むるに山渓の険を以てせず、天下を威するに兵革の利を以てせざるなり。道を得たる者は助け多く、道を失える者は助け寡なし(すくなし)。助け寡なきの至りは、親戚もこれに畔き(そむき)、助け多きの至りは、天下もこれに順う(したがう)。天下の順う所を以て、親戚の畔く所を攻むる。故に、君子は戦わずして、戦えば必ず勝つのみ。

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[口語訳]孟子がおっしゃった。『(古代の諺に)「天の時は地の利に及ばない、地の利は人の和に及ばない」と言う。三里の本丸、七里の外城、これを包囲して攻撃しながらも勝てない。包囲して城を攻める時には、攻め手の側は吉凶を占って運の良い方角を決め、攻めるに相応しい天の時を得ているはずである。それなのに勝てないというのは、天の時は地の利に及ばないということである。城壁は高くないはずはなく、城の堀は深くないはずがない。武器や甲冑が鋭利・堅固でないはずはなく、米や粟(あわ)などの食糧が乏しいはずはない。(城を守る側の準備は十分にあるはずなのに)城を捨てて退却するのは、地の利が人の和に及ばないということである。そのため、「国民を国境によって出入りを規制することは出来ず、国家を山川の険しさによって守ることは出来ず、天下を軍事力の強さによって威圧することは出来ない」という。正しい道理に叶った者は援助する者が多く、道理を見失った者は援助する者が少ない。究極に援助が少なくなってしまうと、親戚も反抗して離れるが、究極に援助が多くなれば、天下でさえもその人に従うことになる。天下に従われる有徳の君子(王者)が、親戚にさえ裏切られる不徳の君子(覇者)を攻めるのだから、有徳の君子は戦わずして勝てるし、戦えば必ず勝つことは明らかなのである。』

[解説]孟子が列強諸侯に勧めようとした政治形態は、有徳の王者が政治を行う王道政治であり、王道政治の究極の形は「天下の大勢を味方につけて、戦わずして勝つこと」である。孟子は他国と戦争を行う場合に有利なポイントになるものとして、「天の時・地の利・人の和」を上げたが、その中でも最高の価値を持つのが「人の和(他者との調和・他者からの援助)」であった。漢王朝を創建した劉邦には特別な才覚はなかったが「人の和」を重視する王者であったために、圧倒的な軍事力や指導力を持って諸国を威圧する楚国の項羽を「四面楚歌」の状況に追い込み打ち破ることが出来た。結局、戦争をするにしてもしないにしても、「自分(政府)に従ってくれる他者」がいなければ話にならないし、あらゆる人を魅了して帰順させる「仁徳ある王者」は、あらゆる人を威圧して脅迫する「不仁の覇者」よりも最終的に優位な立場に立つのである。どんなに強大な権力や能力を持っている覇者でも、周囲に居る全ての国民からの支持・信頼を失い、それらの国民が敵である有徳の王者に従うようになれば、既に「仁者は、戦わずして勝つ」の状況が成立してしまうということである。

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[書き下し文]2.孟子、将に王に朝(ちょう)せんとす。王、人をして来たらしめて曰く、寡人(かじん)如に(まさに)就きて見んとするも寒疾(かんしつ)あり、以て風すべからず。朝すれば将に朝に視る(みる)べし。識らず(しらず)、寡人をして見ることを得さしむべきか。対えて曰く、不幸にして疾あり、朝に造る(いたる)能わずと。明日、出でて東郭氏(とうかくし)を弔せんとす。公孫丑曰く、昔者(むかし・きのう)は辞するに病を以てし、今日は弔す。或いは不可ならんか。曰く、昔者は疾みしも、今日は癒えたり。これを如何でか(いかでか)弔せざらん、と。王、人をして疾を問い、医をして来たらしむ。孟仲子(もうちゅうし)対えて曰く、昔者は王命ありしも、采薪(さいしん)の憂いありて、朝に造ること能わざりし。今は病小しく(すこしく)癒えたり。趨りて(はしりて)朝に造れり。我識らず、能く至れりや否や。

数人をして道に要せしめて(ようせしめて)曰く、請う必ず帰ることなくして、朝に造れと。已む(やむ)を得ずして景丑(けいちゅう)氏に之きて(ゆきて)宿(しゅく)せり。景子曰く、内には則ち父子、外には則ち君臣は、人の大倫(たいりん)なり。父子は恩を主とし、君臣は敬を主とする。丑(ちゅう)は王の子(し)を敬するを見るも、未だ王を敬する所以(ゆえん)を見ざるなり。曰く、悪(ああ)、是れ何の言ぞや。斉人、仁義を以て王と言う者なきは、豈仁義を以て美ならずと為さんや。その心に是れ何ぞ与に(ともに)仁義を言うに足らんやと曰える(いえる)なり。爾(しか)云えば(いえば)、則ち不敬(ふけい)是より大なるは莫し(なし)。我は尭舜の道に非ざれば、敢えて以て王の前に陳べず(のべず)。故に、斉人は我の王を敬するに如く莫なきなり(しくなきなり)。景子曰く、否、これの謂(いい)に非ざるなり。

礼に曰く、父召せば諾するなく、君命じて召せば駕(が)を俟たず(またず)。固(もと)より将に朝せんとするなり。王の命を聞きて遂に果たさざりしは、宜ど(ほとんど)夫の(その)礼と相似ざるが若し。曰く、豈是を謂わんや。曾子(そうじ)曰く、晋・楚の富は及ぶべからざるなり。彼はその富を以てし、我は吾が仁を以てす。彼はその爵を以てし、我は吾が義を以てす。吾何ぞ慊せんや。夫れ(それ)豈不義にして、曾子これを言わんか。是れ或いは一道なり。天下に達尊(たっそん)三あり。爵一(いつ)、歯一、徳一。朝廷は爵に如くは莫く、郷党は歯に如くは莫く、世を輔け(たすけ)民に長たるは徳に如くは莫し。悪んぞ(いずくんぞ)その一を有して、以てその二を慢る(あなどる)ことを得んや。故に将に大いに為すあらんとする君は、必ず召さざるところの臣あり。謀る(はかる)ことあらんと欲すれば則ちこれに就く。

その徳を尊び道を楽しむこと、是く(かく)の如くならざれば、以て為すあるに足らざるなり。故に湯の伊尹(いいん)に於ける、学んで後にこれを臣とす。故に労せずして王たり。桓公の管仲に於ける、学んで後にこれを臣とす。故に労せずして霸(は)たり。今、天下、地醜う(おなじゅう)なり、徳斉しく(ひとしく)、能く相尚うる(あいくわうる)莫きは他なし。その教える所を臣とするを好みて、その教えを受くる所を臣とするを好まざればなり。湯の伊尹に於ける、桓公の管仲に於けるは、則ち教えて召さず。管仲すら且つ猶(なお)召すべからず。而る(しかる)を況や(いわんや)管仲たらざる者をや。

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[口語訳]孟子が斉の宣王に謁見に行かれているところへ、王が使者を遣わせて言葉を伝えた。『自分で先生の屋敷へ出かけてお会いしたかったが、風邪を引いてしまったので外の空気(風)に当たれなくなり行けなくなった。しかし、もし先生のほうから朝廷に出席して頂ければ、朝廷で先生とお会いすることが出来ます。そこで、私とお会いして下さいませんか?』孟子は答えて申し上げた。『不幸にして私も病気であり、朝廷にお伺いすることが出来ません。』翌日になると、孟子は東郭氏に弔問に出かけようとした。公孫丑が申し上げた。『昨日は病気を理由に朝廷への出席を断っておきながら、今日は弔問へ出かけるというのは良くないのではないですか?』『昨日は病気だったが、今日は回復したのだ。どうして弔問に行っていけないということがあろうか?』

孟子が出かけられた後に、宣王の使者が医者を連れて見舞いにやってきた。門弟の孟仲子(もうちゅうし)がお答えした。『昨日は王の命令を受けましたが、病気で朝廷に参ることが出来ませんでした。今日は病気が少し良くなったので、急いで朝廷へ向かいました。先生が朝廷にもう着いたのか着かないのかは私は存じ上げませんが。』孟仲子はそうお答えして、すぐに数人の弟子を孟子のもとへ遣わした。弔問に行く道の途中で孟子をつかまえさせて、『どうか必ず自宅に帰らずに、そのまま朝廷にお向かい下さい。』と伝えさせた。孟子はやむを得ずに景丑氏の家を訪ね、そこに泊まることにされた。景氏は先生に言った。『家庭内では父子の関係、家庭外では君臣の関係というのは、人間の守るべき大きな倫理規範です。父子の関係は恩を主とし、君臣の関係は尊敬(敬意)を主とするといいます。私は、王が先生を尊敬しているところを見ましたが、先生が王を尊敬しているところを見たことがありません。』

孟子がおっしゃった。『ああ、それは何という言い様でしょうか。(非常に不本意な言葉です。)斉の国民に王と仁義をもって話し合う人物がいないのは、仁義を善しとしないからでしょうか?いや、そうではなく、ただ心の中で「王と仁義を語り合っても意味がない」と思っているからだと私は思います。そうであれば、それは王に対する不敬であり、これ以上の不敬というものはない。私は古代の聖王の尭・舜の仁の道でなければ、王の前で話すことがない。だから、斉の国民の中で私以上に宣王を尊敬している者はいないのだ。』景氏が先生に言った。『いいえ、私の言っているのはそのような事柄ではありません。「礼記」に「父に呼ばれれば、分かりましたと返事をする間もなくすぐに駆けつける。主君から呼ばれれば、馬車に馬をつなぐのも待たずに駆けつける。」という言葉があります。もともと、先生は今にも朝廷にお出かけしようと為されていましたが、王の命令を聞いて朝廷に出かけることをやめられました。これは礼記の言葉とかなり違っているのではないでしょうか?』

『私はそんなことを言っているのではない。曾子がおっしゃっている。「晋国と楚国の富には自分は及ばない。しかし、彼らは富を持っているが、私は仁を持っている。彼らは爵位を持っているが、私は義を持っている。彼らに及ばないと思って、恐れることがあろうか、いや、何も恐れることなどない。」と。もしこれが義に叶わないのであれば、曾子がこんなことを言うだろうか?これは一つの正しい道なのである。天下に最高に尊いものが三つある。爵位が一つ、年齢が一つ、道徳が一つである。朝廷では爵位に及ぶものはなく、郷里では年齢に及ぶものはなく、君主を助けて人民を治めるには道徳に及ぶものはない。どうしてそれらの意味合いが異なる一つをもって、他の二つのものを軽侮することができようか、いや、できない。そこで大いなる志を持つ君主は、自分から一方的に呼びつけにしない食客の臣下を持っていて、謀議しようとすることがあればその臣下の屋敷を自ら訪れる。徳を尊び道を重んじることが、そこまでいかないと大きな事業を成し遂げることは出来ない。(殷の)湯王の宰相・伊尹(いいん)に対する態度も、伊尹を師として彼に学んでから、その後に家臣とした。そこで労せずして天下の王になったのである。斉の桓公の管仲に対する態度も、管仲を師として彼に学んでから、その後に家臣とした。そこで労せずして天下の霸者になったのである。今、天下にある各国の領地は大きさが似ているし、道徳の普及も等しく、お互いに他に抜きん出るものがない。その理由は、君主が自分が教えて上げられるような格下の者を好んで臣下とし、自分が教えを受けるような優れた者を臣下にすることを好まないからである。殷(商)の湯王は伊尹に対し、斉の桓公は管仲に対し、決して自分のほうから一方的に呼びつけることはなかったし、伊尹よりも劣っている管仲でさえ呼びつけられることはなかった。管仲でさえ呼びつけられなかったのに、どうして管仲にもなりたくないといっている者(孟子=私)を呼びつけることが出来るだろうか?(いや、できないに違いない)』

[解説]斉の宣王から朝廷に参加するよう呼びつけられた孟子は、病気であることを理由に辞退するが、その翌日には死者を出した東郭氏の家を弔問しようとした。孟子の病気の容態を心配した宣王は、医者を孟子の元へと遣わすが孟子は既に弔問に出かけていていない。孟子に代わって応対した弟子の孟仲子は、数人の使いを孟子の元へと走らせてすぐに朝廷に出席するように伝言したが、孟子は進退窮まって景丑氏の家に宿泊することにした。景氏は、主君である宣王の呼び出しに応じない孟子に対して、「主君の命令を無視することは、礼記にある忠孝の徳にもとるのではないか?」と詰め寄る。孟子はその批判を全く意に介さず、尭・舜の道を語る自分こそが宣王を最も尊敬しているのだと返す。

そして、優れた家臣に教えを請わない傲慢な君主は、天下を統治する王者にはなれないと語り、最近の諸侯で天下に覇権を確立する者が現れないのは、有能で仁徳のある家臣に教えを受けることを諸侯が好まないからだと説く。この章では、天下を統べる王者を導く師たらんとする孟子の自負心と虚栄心が縦横に漲っており、孟子は自分自身を古代の名宰相として知られる伊尹や管仲になぞらえている(斉の桓公に天下を掌握させた管仲をやや見下してさえおり、管仲よりも自分のほうが優れているといって憚らない豪胆さ、あるいは、自意識の過剰が見られる)。もし、宣王が自分を他の家臣と同様に格下のものとして取り扱うのであれば、孟子は遠からず斉を辞去することになるだろうという予兆が見える章でもある。孟子の自尊心の高さと負けん気の強さが表現されていて、君主に対しても決して下手には出ないという孟子の人間像の一端が伺われる部分である。

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[書き下し文]3.孟子、斉を去る。尹士(いんし)、人に語げて(つげて)曰く、王の以て湯・武たるべからざるを識らざれば、則ち是れ不明なり。その不可なるを識りて、然も(しかも)且つ至りせば、則ち是れ沢(たく)を干むる(もとむる)なり。千里にして王に見え(まみえ)、遇わざる(あわざる)が故に去り、三宿(さんしゅく)して後に昼(ちゅう)を出ずるは、是れ何ぞ濡滞なるや。士は則ち茲を悦ばずと。高子(こうし)以て告ぐ。曰く、夫の(かの)尹士、悪んぞ予(われ)を知らんや。千里にして王に見えしは、是れ予が欲する所なり。遇わざるが故に去るは、豈(あに)予が(わが)欲する所ならんや。予已むことを得ざればなり。予三宿して後に昼を出ずるも、予が心に於いては猶以て速やかなりと為す。

王、庶幾くは(こいねがわくは)これを改めよ。王如し(もし)諸(これ)を改めば、則ち必ず予を反さん(かえさん)。夫れ昼を出でて、而も(しかも)王予を追わざるなり。予然る後に浩然として帰る志あり。予然りと雖も(いえども)、豈王を舎てんや(すてんや)。王由(なお)用て(もって)善を為すに足れり。王如し予を用いば、則ち豈徒(ただ)に斉の民安きのみならんや、天下の民挙(みな)安からん。王、庶幾くはこれを改めよと。予日にこれを望めり。予豈是の(かの)小丈夫(しょうじょうふ)の若く(ごとく)然らんや。その君を諌めて(いさめて)受けられざれば、則ち怒り、幸幸然(こうこうぜん)としてその面(おもて)に見え、去れば則ち日の力を窮めて後に宿せんや。尹士、これを聞きて曰く、士は誠に小人(しょうじん)なり。

[口語訳]孟子が斉を去った。尹士が人に語って言った。『孟子が、宣王が殷の湯王や周の武王のように天下を統一することが出来ないということを知らなかったのであれば、それは彼の見識が浅かったということだ。湯王や武王になれないと分かっていながら、斉国にやってきたのであれば、それは宣王の恩恵(恵沢)を求めるためだったのだ。千里の遠方から来訪して王に拝謁し、気が合わないという理由で辞去し、昼県で三晩泊まってから出発するとは、何とのろのろとした未練がましい行動だろうか?自分はこんな方法は不快である。』と。高士がこの批判的な言葉を孟子に伝えた。孟子はおっしゃった。『あの尹士ごときが、どうして私のことを知っているのだろうか?(いや、何も知りはしない。)千里の遠方から王に拝謁したのは、私が望んだことである。気が合わないために辞去したのは、どうして私が望んだことであろうか?(いや、望んだことではない。)私はどうしようもなかったから辞去したのである。私が三泊してから昼県を出発したのも自分の気持ちからすると、(尹士はのろのろしていたと言うが)まだなお出発するのが早すぎたくらいである。出来るのであらば、王の気持ちが変わらないだろうか。もし、王の気持ちが変われば、私をすぐに引き戻そうとするだろう。しかし、自分が昼県を出発しても、王は私を追いかけて呼び戻さなかった。私は、王が自分を呼び戻さないのを知って後に、この上なく伸びやかな気持ちで故郷の鄒に帰る意志を決めた。そうであっても、私がどうして宣王を見捨てることが出来ようか?王はまだ十分に善行を為す能力を持っておられる。王がもしまた私を用いるのであれば、どうして斉の人民だけを安らかにすることで終わるだろうか。きっと天下の人民全てが安楽太平になるだろう。王よ、願わくはその気持ちを改めてくださいと、私は毎日願ったのだ。私がどうして尹士のような小人物のように振る舞うだろうか?君主を諌めて受け入れられないからと言ってすぐに怒り、小さな度量で怒りの感情を顔に表すだろうか?(いや、表すはずがない。)斉を辞去して、一日に歩けるだけ歩いた後に宿泊するような無情な真似ができるだろうか?(いや、できるはずがない。)』これを聞いた尹士は言った。『私は本当に小人でした。』と。

[解説]孟子は、斉国による燕国の侵略を促す助言をして失敗し、宣王が徳治主義の王道を行えないことを知って斉を辞去することになる。孟子の辞去について斉国の家臣の尹士は、『宣王が天下を統治する王者になれないことを知らなかったのであれば、孟子は君主の資質を見抜く眼力がない。もし、初めから知っていたのであれば、孟子は宣王から地位や財産、名誉といった恩恵を得ようとしただけに過ぎない』と厳しく揶揄した。それを聞いた孟子は慨嘆すると同時に、『尹士の如き小人に、私の真の思惑を知ることは出来ない』と返し、自分は宣王に愛想を尽かしたわけでも宣王に怒りを感じたわけでもなく、ただ宣王が自分を必要としていないことが分かったから去るのだと答えた。

孟子は斉国を完全に去るぎりぎりのラインまで、「出来ることならば、何とか宣王の気持ちが変わって欲しい、将来の斉国のために貢献できる自分を呼び戻して欲しい」と考えており、道徳主義的な仁の政治を宣王が望むのであれば、自分にしかその手助けは出来ないと自負していたのである。この章には、相手から政治の輔弼(ほひつ)を頼まれない限りは、自分から頭を下げてまで仕えようとは思わないという孟子の堅忍不抜の気難しさも現れているが、それと同時に、今まで仕えてきた宣王の資質への期待と宣王自身に対する温かい慈愛のようなものが感じられる。

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