『孟子』の滕文公章句の書き下し文と現代語訳

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弱肉強食の論理が優先される戦国時代に、軍事力による覇道政治を戒めて、道徳による王道政治の理想を説いたのが儒学の大家である孟子です。孟子と戦国諸侯の含蓄のある対話や孟子と高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『孟子』の滕文公章句(とうぶんこうしょうく)の書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。ここでは『孟子』の滕文公章句(孟子 第五巻)の一部を抜粋して解説しています。冒頭にある1,2,……の番号は、『孟子』の実際の章とは関係なく便宜的につけているものです。

[書き下し文]1.滕の文公、国を為める(おさめる)ことを問う。孟子曰く、民事は緩くすべからざるなり。詩に云わく、昼は爾(なんじ)ゆきて茅をかり、宵(よる)爾綯(なわ)を索いて(ないて)、亟やか(すみやか)にそれ屋(おく)に乗りて、それ始めて百穀(ひゃっこく)を播かんと。民の道なり、恒産ある者は恒心あり。恒産なき者は恒心なし。苟しくも恒心なければ、放辟邪侈(ほうへきじゃし)、為さざるなきのみ。罪に陥るに及びて、然る後従いてこれを刑す。是れ民を罔(あみ)するなり。焉んぞ(いずくんぞ)仁人位に在るありて、民を罔して而して為めるべけんや。是の故に賢君は必ず恭倹にして下を礼し、民に取るに制あり。陽虎曰く、富を為せば仁ならず、仁を為せば富まずと。

夏后氏(かこうし)は五十にして貢し(こうし)、殷人は七十にして助し、周人は百畝にして徹す。その実は皆(みな)什(じゅう)の一(いつ)なり。徹は徹なり、助は藉(しゃ)なり。竜子(りょうし)曰く、地を治むるは助より善きは莫く、貢より善からざるは莫しと。貢とは数歳(すうさい)の中(ちゅう)を校して(こうして)以て常と為すなり。楽歳(らくさい)には粒米狼戻(りゅうまいろうれい)す。多くこれを取るも虐と為さざるに、則ち寡なくこれを取る。凶年にはその田に糞(ふん)するも而も(しかも)足らざるに、則ち必ず盈(えい)を取る。民の父母と為りて、民をしてケイケイ然として、将に終歳(しゅうさい)勤動(きんどう)するも、以てその父母を養うを得ざらしむ。また称貸(しょうたい)してこれを益やし(ふやし)、老稚(ろうち)をして溝ガクに転ぜしむ。悪んぞそれ民の父母たるに在らんや。夫れ(それ)禄(ろく)を世にするは、滕固より(もとより)これを行えり。

詩に云う、我が公田に雨ふり、遂に我が私に及べと。惟(ただ)助のみ公田ありと為す。これに由りてこれを観れば、周と雖も亦助するなり。庠序学校を設け為して、以てこれを教える。庠とは養なり、校とは教なり、序とは射なり。夏(か)に校と曰い(いい)、殷に序と曰い、周に庠と曰い、学は則ち三代これを共にす。皆人倫を明らかにする所以なり。人倫上(かみ)に明らかにして、小民下(しも)に親しむ。王者起こるあらば、必ず来たりて法を取らん。是れ王者の師たるなり。詩に、周は旧邦なりと雖も、その命(めい)惟れ(これ)新たなりと云えるは、文王の謂(いい)なり。子力めて(つとめて)これを行わば、亦以て子の国を新たにせんと。畢戦(ひっせん)をして井地(せいち)を問わしむ。孟子曰く、子(し)の君、将に仁政を行わんとし、選択して子を使わす。子必ずこれを勉めよ。夫れ仁政は必ず経界より始める。経界正しからざれば、井地鈞し(ひとし)からず、穀禄(こくろく)平らかならず。是の故に暴君汚吏(ぼうくんおり)は、必ずその経界を慢る(あなどる)。

経界既に正しければ、田を分かち禄を制すること、坐して定むべきことなり。夫れ滕は壌地褊小(へんしょう)なれども、将に君子の為にせんか、将に野人の為にせんか。君子なくんば野人を治むる莫く(なく)、野人なくんば君子を養う莫し。請う、野は九が一にして助せしめ、国中は什が一にして自ら賦せしめん。卿(けい)以下必ず圭田(けいでん)あり。圭田は五十畝、余夫(よふ)は二十五畝、死してうつるまで郷を出ずるなく、郷田井(でんせい)を同じくし、出入(しゅつにゅう)相(あい)友とし、守望(しゅぼう)相助け、疾病相扶持(ふじ)すれば、則ち百姓(ひゃくせい)親睦す。方里(ほうり)にして井(せい)し、井は九百畝、その中は公田なり。八家(はっか)皆(みな)百畝(ひゃっぽ)を私(わたくし)し、同じく公田を養う。公事畢わり(おわり)て、然る後敢えて私事を治む。野人と別れる所以なり。これその大略なり。夫の(かの)これを潤沢せる若きは、則ち君(きみ)と子(し)とに在り。

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[口語訳]滕の文公が、国家を統治することについてお尋ねになられた。孟子がそれに答えられた。『人民の仕事は怠けてはならないのです。『詩経』にこうあります。「昼は汝ゆきて茅かれ、夜は汝帰りて縄なえ、急いで帰り仮屋の屋根を葺き替えよ、万(よろず)の作物の種を蒔き、今始まろうとしている。」と。人民の生き方として、決まった生業を持っている人は、安定した精神を持っています。決まった生業を持たない人は、安定した心を持てません。もし、安定した精神を持てないと、放蕩三昧・偏った態度・邪悪な考え・過度の贅沢などに陥ってしまいます。その結果、人民が犯罪を犯してしまうと、法律に従って刑罰を科すことになります。これは、人民を網に掛けると言うことです。仁徳のある君子が為政者の位にあって、守るべき人民を(刑罰の)網に掛けて優れた統治ができるのでしょうか?賢明な君主は、勤勉に政治を行い、歳出を倹約し、臣下に対しても礼節を失いません。人民から租税を徴収する場合にも、(取り過ぎないだけの)節度があります。魯の陽虎が「財産を蓄えれば仁の徳を持てない、仁の徳を持とうとすれば財産を蓄えられない」と言っています。夏王朝では、人民は五十畝の田を割り与えられ、貢法で納税しました。殷王朝では、人民は七十畝の田を割り与えられ、助法で納税しました。周王朝では、人民は百畝の田を割り与えられ、徹法で納税しました。実際にはそれらの税法は、10%(10分の1)の税率になります。徹法とは土地の境界によって課税する税法です。助法とは人民の労役を借りる税法です。

竜子(りょうし)が、「土地から税金を徴収する場合に、助法より良いものはなく、貢法より悪いものはない」と言いました。貢法とは、数年間の収穫量の平均を課税の標準とするものです。豊作の年には至る所で作物が有りあまり、多くとっても過酷な税にならないのに少ししか徴収しません。凶作の年には、田んぼにいくら肥料を与えても足りないのに、数年間の平均から決められた標準の税を完納しなければなりません。人民の父母である君主が、人民を一年中コツコツと労働させながら、父母さえ十分に養えないようにしています。その結果、高利の貸付が増えることになり、借金を返せない人民が増えて、老人や幼児の餓死した遺体が溝や堀の中へ転がることになります。これでどうして人民の父母であると言えるでしょうか?滕国では、田の租税を官吏が先祖代々受け継ぐ「世禄(せいろく)の制度」が行われています。「詩経」の周詩にこう歌われています。「雨がまず我々の公田に降り注ぎ、それから、我々の私有田に及んできた」と。公田は助法にしかありません。これによると、周王朝でも助法を採用していたことになります。(税法を助法に改めたら)庠・序・学・校という各種の学校を設立して、人民を教育します。庠とは「養」で養うということ、校とは「教」で教えるということ、序とは「射」で弓を射ることです。夏王朝では校といい、殷王朝では序といい、周王朝では庠といいます。学問は三代の王朝に共有であり、全て人間の生きるべき道(正しい道理と秩序)を教えるものです。人間の道義と倫理が上位の為政者に理解されれば、下位の人民たちも人間の道義に触れることになります。もし有徳の王者が現れてくるならば、必ず滕国の法を模範とするでしょう。これは、滕国が王者の師となることです。「詩経」では、「周は古い国であるが、天命を受けて新しい国になった」と歌っています。これは(周の興国の始祖である)文王の功績を讃えたものです。滕の君主であるあなたが努力してこれらの政策を実行に移せば、滕国は全く新しい国になるでしょう。』

滕の文公は畢戦を遣わして、井田制(せいでんせい)について聞かせた。孟子がおっしゃった。『あなたの君主である文公が、仁政を行おうとして百官の中からあなたを選び使者にしたのだから、どうか間違いなく私の言葉をお伝え下さい。仁政はまず田地の区画化から始めます。田の区画が正確でないと、井田の大きさが均等でなく、穀物の禄(税)が公平ではなくなります。その為、暴君や不正管理は、田地の区画をいい加減にするでしょう。いったん区画が正確になれば、田地を割り当てて、禄(税)を制定することは、座ったままで実施することが出来ます。滕国の領土は狭く小さいですが、君子のために政治をすべきでしょうか、それとも、野人のために政治をすべきでしょうか?有徳で能力のある君子がいなければ、野人(百姓)を統治することが出来ません。百姓である野人がいなければ、(農作物を生産できないので)君子を養うことが出来ません。郊外の土地(野)では、九分の一の税を助法で納税させ、都心部(国中)では、十分の一の税を自己申告で納税させます。大臣以下の官吏には、圭田が与えられます。圭田は一人につき五十畝、家族の未成年者には二十五畝が与えられ、死亡または転居するまでその郷を離れることが出来ないようにします。郷の田で井を同じくする者は、出たり入ったりしてお互いに友となり、(戦時には)お互いに助け合って防衛と偵察に当たり、病気になった時にはお互いに救い合います。そうなると、(国家の基盤である)百姓の間の連帯と協働は深まります。縦横が一里の田を井字のように区画し、井は九百畝の広さにします。中央の百畝を公田とし、八家族がそれぞれ周囲の百畝を私有し、共同で公田を耕して、公田の仕事が終われば私田を耕します。これで、君子の禄(税)と野人の禄(食糧)とを区別することが出来ます。これが井田制の大略です。実際にこの井田制によって国家を豊かにしていく仕事は、君主とあなたの仕事なのです。』

[解説]王道楽土を建設しようとする夢破れ斉国の宣王のもとを去った孟子は、小国である滕国の文公に招聘されることとなった。これは、孟子が滕国の文公から仁政と税法について聞かれて、仁政の具体的なやり方を「古代の税制」を引いて答えた部分である。竜子は、数年間の平均的な収穫高によって租税を決める夏王朝の「貢法」を最悪の税法とし、百姓の労働力を借りて労役で納税させる「助法」を最善の税法としたが、孟子は「井田制」と呼ばれる農地改革を文公に勧めた。「井田制」とは900畝の田地を9つに区画して、その内の1つの区画を「公田」とし、残りの8つの区画を「私有田」として8つの家族に割り当てるものである。孟子は、井田で農作業をする8家族の百姓は、お互いに助け合う緊密な農業共同体となり、国家の生産力と防衛力の基盤となると考えた。この井田制は農本主義的なユートピアニズムであるが、漢代の「限田制」やその後の「均田制」などに影響を与えた。井田制は、相互扶助的な共同体の建設につながるものであり、全ての百姓が平等な収穫を得るという社会主義思想(原始共産制)としての側面を色濃く持っている。

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[書き下し文]2.神農(しんのう)の言を為す者許行(きょこう)あり。楚より滕(とう)に之き(ゆき)、門に踵(かかと)して文公に告げて曰く、遠方の人、君仁政を行うと聞く。願わくは一廛(いってん)を受けて氓(たみ)と為らんと。文公これに処(ところ)を与える。その徒数十人、皆褐(かつ)を衣て(きて)、履(くつ)をはき、席(むしろ)を織りて、以て食を為せり。陳良の徒(と)陳相(ちんしょう)、その弟辛(しん)と、ライシを負いて宋より滕に之きて曰く、君聖人の政(まつりごと)を行うと聞く。是も亦聖人なり。願わくは聖人の氓と為らんと。陳相、許行を見て大いに悦び、尽く(ことごとく)その学を棄てて学べり。陳相、孟子を見、許行の言を道いて(いいて)曰く、滕君は則ち誠に賢君なり。然りと雖も未だ道を聞かざるなり。賢者は民と並び耕して食し、ヨウソンして治む。今や滕には倉稟府庫(そうりんふこ)あり、則ち是れ民に厲ましめて(やましめて)以て自ら養うなり。悪んぞ(いずくんぞ)賢なるを得ん。

孟子曰く、許子(きょし)は必ず粟(ぞく)を種えて(うえて)後に食するか。曰く、然り。許子は必ず布を織りて後に衣るか(きるか)。曰く、否、許子は褐(かつ)衣る。許子は冠するか。曰く、冠す。曰く、奚(なに)をか冠する。曰く、素(そ)を冠す。曰く、自らこれを織るか。曰く、否、粟を以てこれに易える(かえる)。曰く、許子は奚為れぞ(なんすれぞ)自ら織らざるか。曰く、耕すに害あり。曰く、許子は釜甑(ふそう)を以てかしぎ、鉄を以て耕すか。曰く、然り。自らこれを為る(つくる)か。曰く、否、粟を以てこれに易える。粟を以て械器(かいき)に易える者を、陶冶(とうや)に厲ます(やます)とは為さざるなり。陶冶も亦その械器を以て粟に易える者、豈(あに)農夫に厲ますと為さんや。且つ許子は何ぞ陶冶を為さず、皆諸(これ)をその宮中に取りて、これを用うることを舎めて(やめて)、何為れぞ(なんすれぞ)紛紛然(ふんぷんぜん)として百工(ひゃっこう)と交易する。何ぞや、許子の煩(はん)を憚らざるは。曰く、百工の事は、固より耕し且つ為すべからざればなり。然らば則ち天下を治むることのみ、独り耕し且つ為すべけんや。

大人(たいじん)の事あり、小人の事あり。且つ一人の身にして百工の為す所備わりて、如し(もし)必ず自ら為して而る後にこれを用いんとするは、是れ天下を率いて路するなり。故に、或いは心を労し、或いは力を労すと曰えり。心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。人に治めらるる者は人を食い(やしない)、人を治むる者は人に食われる(やしなわれる)。天下の通義なり。尭の時に当たりて、天下猶平らかならず。洪水横流(おうりゅう)し、天下に氾濫す。草木暢茂(ちょうも)し、禽獣繁殖し、五穀登らず(みのらず)、禽獣人にせまり、、獣蹄(じゅうてい)鳥亦(ちょうせき)の道、中国に交わる。尭独りこれを憂え、舜を挙げて治を敷かしむ。舜、益をして火を掌ら(つかさどら)しむる。益、山沢(さんたく)に烈して(もやして)これを焚き(たき)、禽獣逃れ匿るる(かくるる)。禹(う)、九河を疏し(そし)、斉・トウをヤクして、諸(これ)を海に注ぎ、汝・漢を決し、淮(わい)・泗(し)を排して、これを江に注ぐ。然る後、中国得て食らうべきなり。是の時に当たりて、禹外にあること八年、三たびその門を過ぎれども而も入らず。

耕さんと欲すと雖も得んや。后稷(こうしょく)は民に稼穡(かしょく)を教え、五穀を樹藝(じゅげい)す。五穀熟して民人(たみ)を育む。人の道有るや、飽食暖衣、逸居して教えらるるなければ、則ち禽獣に近し。聖人これを憂える有り、契(せつ)をして司徒(しと)たらしめ、教うるに人倫を以てす。父子親(しん)あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり。放勲(ほうくん)曰く、これを労いこれを来させて、これを匡し(ただし)これを直くし(なおくし)、これを輔け(たすけ)これを翼けて(たすけて)、これを自得せしめ、また従いてこれを振徳(しんとく)せりと。聖人の民を憂えること此くの如し。而るを耕すに暇なきか。尭は舜を得ざるを以て己が憂いと為し、舜は禹・皐陶(こうよう)を得ざるを以て己が憂いと為す。夫れ百畝の易まらざるを以て己が憂いと為す者は、農夫なり。人に分かつに財を以てする、これを恵と謂う。人に教うるに善を以てする、これを忠と謂う。天下の為に人を得る、これを仁と謂う。是の故に天下を以て人に与うるは易く、天下の為に人を得るは難し。

孔子曰く、大なるかな、尭の君たるや。惟天を大なりと為す、惟尭これに則る(のっとる)。蕩蕩乎(とうとうこ)として民能く名づくるなし。君なるかな舜や。魏魏乎(ぎぎこ)として、天下を有して而も与からず(あずからず)と。尭・舜の天下を治むる、豈その心を用うる所なからんや。亦耕すに用いざるのみ。吾(われ)夏(か)を用いて夷(い)を変ずる者を聞けるも、未だ夷に変ずる者を聞かざるなり。陳良は楚の産なり。周公・仲尼の道を悦び、北のかた中国に学ぶ。北方の学者、未だこれに先んずること或るは能わず。彼は所謂豪傑の士なり。子の兄弟(けいてい)、これに事うること数十年、師死して遂にこれに倍く(そむく)。昔者(むかし)孔子の没するや、三年の外(ほか)、門人任を治めて将に帰らんとし、入りて子貢に揖し(ゆうし)、相むかいて哭し(こくし)、皆声を失いて、然る後に帰れり。子貢は反りて(かえりて)、室(しつ)を場(じょう)に築き、独り居ること三年、然る後に帰れり。

他日、子夏・子張・子游、有若の聖人に似たるを以て、孔子に事うる所を以てこれに事えんと欲し、曾子に強いる。曾子曰く、不可なり。江漢以てこれを濯い(あらい)、秋陽以てこれを暴す(さらす)も、コウコウ乎として尚う(くわう)べからざるのみと。今や南蛮ゲキ舌の人、先王の道を非とす。子(し)、子の師に倍きて(そむきて)これに学ぶ、亦曾子に異なれり。吾幽谷を出でて喬木(きょうぼく)に遷る(うつる)者を聞けるも、未だ喬木を下りて幽谷に入る者を聞かざるなり。魯頌(ろしょう)に戎狄(じゅうてき)は是れうち、刑ジョは是れ懲らすと曰えり。周公方に(まさに)且つこれをうつ。子は是れこれを学ぶ。亦善くは変ぜずと為すと。許子の道に従わば、則ち市の賈(あたい)弐(じ)ならず、国中偽りなく、五尺の童(わらべ)をして市に適かしむ(ゆかしむ)と雖も、これを欺くこと或る莫し。布帛(ふはく)の長短同じければ、則ち賈相若しく(ひとしく)、麻縷(まる)糸ジョ(しじょ)の軽重同じければ、則ち賈相若しく、五穀の多寡同じければ、則ち賈相若しく、履の大小同じければ、則ち賈相若し。曰く、夫れ物の斉しからざるは、物の情なり。或いは相倍シし、或いは相什百し、或いは相千万す。子、比してこれを同じうせんとす、是れ天下を乱すなり。巨履(きょく)・小履(しょうく)賈(あたい)を同じうせば、人豈これを為らんや。許子の道に従うは、相率いて偽りを為す者なり。悪んぞ能く国家を治めんや。

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[口語訳]神農の学説を主張する許行が、楚から滕にやってきて、宮門の前に至って文公に申し上げた。『私は遠方の人間ですが、滕の君主が仁政を行っていると聞きました。どうか住居を私にお与え下さり、私を滕の国民にして頂けませんか?』文公は許行に住居を与えたが、許行に付き従った数十人の一門は粗末な衣服を着て、草鞋を作り蓆(むしろ)を織って生活した。陳良の弟子の陳相(ちんしょう)が、その弟の陳辛(ちんしん)と共に鋤を背負って、宋国から滕国へやってきて申し上げた。『あなたは、聖人の仁政を行うと聞きました。あなた自身もきっと聖人でしょう。どうか聖人の国民にして頂けませんか?』(滕国に住むようになった)陳相は、農家である許行にあって大いに喜び、自分の学説を全て捨てて許行を学師として学ぶようになった。陳相が孟子に会って、許行の話を伝えて言った。『滕の文公は、本当に賢明な君主である。しかし、まだ政治の正しい道を理解しておられない。賢者は人民と一緒に耕作して食糧を作り、自分で飯を炊きながら政治をするものである。現在の滕国には、穀物を貯蔵する倉と財物を納める庫とがありますが、これは国民から奪って自分たちを養おうとするものです。どうして、これで賢君といえるでしょうか?』孟子がおっしゃった。『許先生(許行)は必ず粟を植えて、それを食糧にされているのですか?』『そうです。』『許行は必ず麻布を織って衣服とされるのですか?』『いや、許先生は毛織物の衣服を着ています。』『許先生は、冠をかぶられるのですか?』『はい、冠をかぶります。』『どんな冠ですか?』『白布を冠にしています。』『自分でその冠を織るのですか?』『いいえ、自分の生産した穀物と交換しています。』『許先生は、どうして自分で織物を織らないのですか?』『農業の耕作の妨げとなるからです。』『許先生は、釜と甑(こしき)で飯を炊き、鉄器で田を耕すのですか?』『はい、そうです。』『自分でそれらの釜・甑・鉄器を作っていますか?』『いいえ、穀物と交換しています。』

孟子がおっしゃった。『穀物を道具と交換しても、それをもって陶工や鍛冶屋に損失を与えるわけではない。反対に、陶工や鍛冶屋が道具を穀物と交換しても、それでどうして農家に損害を与えると言えるだろうか?許行は、陶工や鍛冶屋の仕事を自分でせず、道具を宮中に蓄えて使用していない。どうして、あちらこちらに出かけて色々な職人と交易するのだろうか?許先生は、なぜ交換の手間を惜しまないのだろうか?』陳相が言った。『元々、道具を製作する職人の仕事は、農業の耕作と兼業でやれるものではありません。』

(孟子が言われた。)『そうであれば、天下を統治する仕事もまた、一人で耕作と兼業できるものではないのではないだろうか?統治する大人の仕事と、統治される小人の仕事がある。一人人間の身であらゆる職人が作る道具を、自分で作って自分で使うとすれば、それは、天下の人民を全て道路に走り回らせるような無駄なことでしょう。その為、精神(知性)を働かせる者もあれば、筋力(肉体)を働かせる者もある。知性を働かせる者は人民を統治し、肉体を働かせる者は統治される。人に統治される者(百姓・小人)は人を養う仕事をし、人を統治する者(君主・士大夫)は人に養われるのである。これが天下の一般的な道理である。古代の尭帝の時代には、天下はまだ平定されておらず、洪水が各地に溢れ、草木は生い茂り鳥獣は繁殖し穀物は実らず、鳥獣が人間を襲って鳥獣の足跡が人間の足跡と中国で入り混じっていた。尭帝はこの事態を憂慮して、舜を抜擢し治山治水の任務を仰せ付けた。舜は、益という人物に野焼きの仕事を担当させた。益は山林沼沢に火をつけて燃やしたので、鳥獣は逃げて姿を見せなくなった。禹は九つの河を浚渫(しゅんせつ)して、済水・トウ水を海の流れに合流させ、汝水・漢水を分流させ、淮水・泗水を排水して揚子江へと合流させた。これで、洪水の害を抑えて、中国の人民が食糧を得られるようになった。この時の禹は、八年も家の外に出て働き、三度門を通りかかっても門を通らないという有様であった。自分で農地を耕したいと考えても耕す時間があっただろうか?后稷は、人民に農業を教えて五穀を栽培させた。穀物が実って、人民は健康に生活できるようになった。

人間の道とは何かについて教えよう。飽食して暖かい衣服をまとい、快適な住宅に住んでも、教育を与えられなければ鳥獣と同じである。聖人の尭帝はまた、人民の無教養を憂慮して、契(せつ)という人物を司徒の任務に就け、人間としての倫理道徳を人民に教えさせた。(契による教育の結果)父子の間には親愛があり、君臣の間には道義があり、夫婦の間には区別があり、長幼の間には序列があり、朋友の間には信義があるようになったのである。聖人である尭帝は言われた。「人民の労働を労わって励まし、間違いを正して曲がったところをまっすぐにし、人民を助けて間違いや曲がった考えに気づかせ、人民も正しい道(徳のある振る舞い)に近づけるようにしなければならない。」聖人が人民を心配する様子は、このように情け深いものである。そうであれば、耕作をする暇があると言えるだろうか?尭帝は舜という人材を得られないことを憂い、舜は禹(う)・皐陶(こうよう)という人材を得られないことを憂慮した。百畝の田がよく耕作できないということを憂慮するのは農夫である。他人に財物を分け与えることを恵という。人に善行を教えることを忠と言う。天下の統治のために人材を得ることを仁という。天下を他人に譲ることは簡単だが、天下のために有為な人材を得るのは難しい。孔子も言われた。「偉大なるかな、尭の君主としての働きは。ただ天のみが偉大であったが、尭はこの天の道に依拠して政治を行った。その道は悠然自若として、人民はその政治を言葉で表現できなかった。君主であるかな、舜は。力強く堂々として、天下を所有しながらこれに執着しなかった」と。尭・舜が天下を統治された時に、どうしてその心を悩まされないことがあっただろうか?ただ耕作するということに心を用いなかっただけである。私は夏王朝の文化道徳によって、野蛮な蛮族を同化すると聞いたことはあるが、蛮族の文化に中国が影響を受けたというのは聞いたことがない。

陳良は楚国の生まれで、周公・孔子の教えに感嘆して、北方の中国でその学問(儒学)を学んだ。北方の学者でも陳良より優れた者はいなかった。陳良は正に豪傑の士と呼ぶべき人物である。あなた方兄弟は陳良に師事して数十年にもなるのに、先生が死去されるとその教えに違背してしまった。昔、孔子が没した時、三年の喪の期間が終わって弟子たちは帰ろうとし、部屋に入って子貢に挨拶をした。向かい合って声を出して泣き、それから立ち去った。子貢だけは再び引き返し、孔子の墓地に小屋を建ててここに篭もった。そして、三年が過ぎてから帰った。その後、子夏・子張・子游は、有若が孔子に似ているので、孔子にお仕えしたのと同じ礼節をもって仕えようとして、曾子に(有若の)弟子になるように強制した。曾子は言われた。「弟子にはなれない。揚子江・漢江で洗濯し、秋の強い日差しに曝して真っ白になった布のように、これ以上付け加えるべきことはない。」と。(許行のような)南方の蛮族が、鳥のさえずりのような言葉で有徳の聖王の道を否定しようとした。あなたは、あなたの先生に背いてその学問を学ぼうとした。これは曾子の考えと異なっている。私は、奥深い谷から高い木に移動する者(鳥)について聞いたことがあるが、高い木から奥深い谷に移動する鳥については聞いたことがない。「詩経」の魯頌(ろしょう)では、「北方の蛮族の戎狄(じゅうてき)を攻撃し、南方の蛮族のケイジョを懲罰する。」と歌っている。周公が蛮族を攻撃したのに、あなた方は蛮族から学ぼうとしている。これでは、中国の先進文化で、蛮族を良い方向へと変化させることなどできない。』

(陳相が言った。)『許行の教えによりますと、市場で物価を一つに定めるので、国中に偽物の商品がなくなり、小さな子どもが市場に行っても騙されなくなります。布と絹布の長さが同じであれば価格は同一であり、麻糸も綿糸も重さが同じであれば価格は同一です。五穀の舛目が同じであれば価格が同一であり、草鞋(わらじ)の大きさが同じであれば価格は同じになります。』孟子が言われた。『物によって品質が違うのは、物の自然な本性である。(商品価値が)二倍・五倍のものがあり、十倍・百倍のものがあり、千倍・万倍のものがある。あなたがこれらを同一の価格にするのは、天下を混乱させるということである。粗末な草鞋と優れた草鞋を同一の値段にすれば、商人は優れた草鞋を作るはずがないであろう。許行の教えによると、(商人は悪い商品を良い商品に見せかけようとし、お客は良い商品を悪い商品だとしてクレームをつけようとするので)お互いに相手を騙そうとすることになり、どうして国家を平穏に治めることが出来るだろうか?(いや、許行のやり方では、世情が混乱してしまってできない。)』

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