『孟子』の万章章句の書き下し文と現代語訳

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弱肉強食の論理が優先される戦国時代に、軍事力による覇道政治を戒めて、道徳による王道政治の理想を説いたのが儒学の大家である孟子です。孟子と戦国諸侯の含蓄のある対話や孟子と高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『孟子』の万章章句(ばんしょうしょうく)の書き下し文を掲載して、簡単な解説(口語訳)を付け加えていきます。ここでは『孟子』の万章章句(孟子 第九巻, 第十巻)の一部を抜粋して解説しています。冒頭にある1,2,……の番号は、『孟子』の実際の章とは関係なく便宜的につけているものです。

[書き下し文]1.万章(ばんしょう)問いて曰く、舜、田に往き、旻天に号泣す。何為れぞ(なんすれぞ)それ号泣するや。孟子曰く、怨慕(えんぼ)すればなり。万章曰く、父母これを愛すれば、喜びて忘れず、父母これを悪めば(にくめば)、労して怨みず。然らば則ち舜は怨みたるか。曰く、長息(ちょうそく)、公明高(こうめいこう)に問いて曰く、舜の田に往くは、則ち吾(われ)既に命を聞くことを得たり。旻天に父母に号泣するは、則ち吾知らざるなり。公明高曰く、是れ爾(なんじ)の知る所に非ざるなりと。夫の(かの)公明高は、孝子(こうし)の心を以て、是く(かく)の若くカツならずと為す。我は力を竭くして田を耕し、子たるの職を共にするのみ。父母の我を愛せざるは、我に於いて何ぞやと。帝、その子九男二女をして、百官、牛羊・倉廩(そうりん)を備え、以て、舜にケン畝(ケンポ)の中に事えしむ(つかえしむ)。天下の士、これに就く者多し。

帝将に(まさに)天下を胥いて(ひきいて)、これを遷さんとす。父母に順ばれざる(よろこばれざる)が為に、窮人(きゅうじん)の帰する所なきが如し。天下の士これを悦ぶは、人の欲する所なるも、而も(しかも)以て憂いを解くに足らず。好色は人の欲する所なり、帝の二女を妻とすれども、而も以て憂いを解くに足らず。富は人の欲する所なり、富天下を有せども、而も以て憂いを解くに足らず。貴き(たっとき)は人の欲する所なり、貴きこと天子と為れども、而も以て憂いを解くに足らず。人のこれを悦ぶも、好色も富貴も、以て憂いを解くに足る者なし。惟(ただ)父母に順ばるる、以て憂いを解くべし。人少ければ(わかければ)則ち父母を慕い、好色を知れば則ち少艾(しょうがい)を慕い、妻子あれば則ち妻子を慕い、仕えれば則ち君を慕い、君に得られざれば則ち熱中す。大孝は終身父母を慕う。五十にして慕う者は、予(われ)大舜に於いてこれを見る。

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[口語訳]万章が質問して言った。『「舜が田に出られて、天空に向かって号泣した」とあります。なぜ、舜は号泣したのでしょうか?』孟子がお答えになられた。『父母を恨んで慕ったからである。』万章が言った。『「父母に愛されると、喜んで忘れない。父母から憎まれると、心配しながら恨むことがない。」とあります。それなのに、舜は父母を恨んだのですか?』

『昔、長息が公明高に尋ねたことがある。「舜が田に出かけたことについては、既に説明を聞くことができました。しかし、天空に向かって号泣したことについてですが、父母に対して大声で泣いたというのがよく分かりません。」公明高は答えて言った。「この問題は、あなたが理解できるようなことではないのだ。」と。公明高は以下のように考えたと思われる。舜のような孝行者の子どもは、力を尽くして田を耕し息子としての責務を果たしている。父母が自分を愛してくれないのは、自分に何か責任があるのだろうかと考えてしまう。尭帝は、九人の男子・二人の女子に朝廷の百官、牛・羊、倉庫などを与えて、その子ども達を、田地の畔と畝の上で働いている舜に仕えさせた。天下の有能な士の中で、舜に仕える者は多かった。尭帝はまさに天下の全てを揃えて、舜に禅譲しようとしているのだ。しかし、孝行者の舜は、奉仕している父母が喜んでくれないので、追い詰められた人間が帰る場所がないような心情になっているのだ。天下の有能な士から尊敬されるということは、誰もが欲することであるが、これでは舜の憂鬱を解決することが出来ない。女性との性愛は誰もが欲することであるが、尭帝の二女を妻にしても、舜の憂鬱を解消することが出来ない。財産は誰もが欲するものであるが、天下の富を手中にしても、舜の憂鬱は癒されない。高い身分を得て高貴であることは誰もが欲することであるが、天子という最高の位を得ても、舜の憂鬱は解消されない。他人の敬愛・好色・富貴、それらでは舜の憂鬱は解消できないのである。ただ父母が喜んでくれることだけが、舜の憂鬱を解消してくれるのである。人が幼い時には父母を慕う。異性を愛するようになると若い美女を慕う。妻子を持つようになると妻子を慕う。士官すれば主君を慕う。もし主君が喜ばなければ、主君のために役立つ仕事に熱中する。最高の孝行とは、自分が死ぬまで父母を慕うことである。私が偉大な聖人と見ている舜は、五十歳になっても父母を慕っている者である。』

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[書き下し文]2.孟子曰く、伯夷(はくい)は目に悪色を視ず、耳に悪声を聴かず。その君に非ざれば仕えず、その民に非ざれば使わず。治まれば則ち進み、乱るれば則ち退く。横政の出ずる所、横民の止まる所、居るに忍びざるなり。思えらく、郷人と処る(おる)は、朝衣朝冠(ちょういちょうかん)を以て塗炭に坐するが如し。紂(ちゅう)の時に当たりて、北海の浜に居り、以て天下の清むを待てり。故に伯夷の風を聞く者は、頑夫(がんぷ)も廉に、懦夫(だふ)も志を立つるあり。伊尹(いいん)曰く、何れ(いずれ)に事うる(つかうる)としてや君に非ざらん。何れを使うにしてか民に非ざらん。治まるも亦進み、乱るるも亦進む。曰く、天の斯の(この)民を生ずるや、先知をして後知を覚えしめ、先覚をして後覚を覚えさしむ。予(われ)は天民の先覚者なり。予将に(まさに)この道を以てこの民を覚さん(さとさん)とするなり。

思えらく、天下の民、匹夫も匹婦も尭舜の沢を被らざる者あれば、己推して(おして)これを溝中(こうちゅう)に内する(うちする)が如し。その自ら任ずるに天下の重きを以てすればなり。柳下恵(りゅうかけい)はオ君(おくん)を羞じず(はじず)、小官を辞せず。進んで賢を隠さず、必ずその道を以てす。遺佚(いつ)せらるるも怨みず、ヤク窮すれども閔えず(うれえず)。郷人と処るも、由由然として去るに忍びざるなり。爾(なんじ)は爾たり、我は我たり。我が側に袒裼裸テイ(たんせきらてい)すと雖も、爾、焉んぞ能く我をけがさんや。故に柳下恵の風を聞く者は、鄙夫(ひふ)も寛に、薄夫(はくふ)も敦し(あつし)。孔子の斉を去るや、淅(せき)を接して行く。魯を去るや、遅遅として我行くと曰えり。父母の国を去るの道なり。以て速やかなるべくんば而ち速やかにし、以て久しかるべくんば而ち久しくし、以て処るべくんば而ち処り、以て仕うるべくんば而ち仕うるは、孔子なり。

孟子曰く、伯夷は聖の清なる者なり。伊尹は聖の任なる者なり。柳下恵は聖の和なる者なり。孔子は聖の時なる者なり。孔子はこれを集めて大成すと謂う。集めて大成すとは、金声(きんせい)して玉振(ぎょくしん)することなり。金声すとは条理を始めるなり。玉振すとは条理を終うるなり。条理を始めるは智の事なり。条理を終うるは聖の事なり。智は譬えば則ち巧なり。聖は譬えば則ち力なり。由(なお)、百歩の外に射るがごとし。その至るは爾の力なり。その中たる(あたる)は爾の力に非ざるなり。

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[口語訳]孟子がおっしゃった。『伯夷は目に汚い色彩を見ないようにして、耳に悪い音を聴かないようにしていた。有徳の君主でなければ仕えず、礼節のある人民でなければ使役しようとはしない。天下が治まっている時には、世俗に出て士官するが、天下が乱れている時には、世俗から退いて辞職する。悪政の行われている所、無礼な人民の居る所では、そこに長く居ることに耐え忍ぶことが出来ないのだ。無礼な村民と一緒に居ることを、まるで礼服・礼冠をつけて、泥や炭の上に座るように(汚らわしく)感じた。殷の紂王の世では、北海の浜に住んで、天下が清浄になるのを待っていた。伯夷のやり方を聞いた人は、強欲であれば清廉になり、臆病であれば自立の志を立てるようになるのである。

(殷の湯王を補佐した名宰相の)伊尹は、「どんな君主でも仕えてしまえば君主に違いはない、どんな人民を使うにしても人民に変わりはない。」と言っていた。天下が治まる時にも世俗に出て士官し、天下が乱れる時にも世俗に出て士官した。「天が人民を生み出した時、物事を先に知った者に、後から知ろうとする者を教えるようにさせ、先に道理を覚った者に、後から覚ろうとする者を教えるようにさせた。私は天が生んだ人民の中の先覚者である。私は今、正しい先王の道をもって、人民に覚らせようとしているのである。」と伊尹は言った。天下の人民の中で、一人の男子・一人の婦人でも尭・舜の恩恵に預かれない者がいると、まるで自分がそれらの人を溝の中に押し込み転ばせたように思っていた。伊尹は天が人間に課した重責を、自分一人が担っているように感じていた。

柳下恵は暗愚な君主に仕えることを恥とせず、立場の低い官吏になることも辞退しない。官位を得ればその賢明な頭脳な隠さず、必ず自分の方法で仕事をこなす。世間から忘れられても恨むことなく、生活に困窮しても心配などしない。(それほど仁義や礼節のない)村人と一緒にいても、ゆったりと楽しんでいる様子であり、その場を立ち去ることが忍びないようである。「あなたはあなた、私は私だ。あなたが、私の側で片肌を脱いで素っ裸になったとしても、どうして私が汚れることがあろうか?(汚れることなどあるはずもない。)」と柳下恵は言う。柳下恵のやり方を聞いた人は、偏狭な心の持ち主は寛大になり、人情の薄い人は人情が厚くなるのである。孔子が斉を出国する時には、米を研ぐ暇もないほど慌しく出国した。しかし、魯を去る時には、「私はゆっくりのんびりと行こう」と言われた。それは、父母の国から離れる時の礼儀だからである。速く行くべき時は速く行き、ゆっくりと行くべき時はゆっくりと行き、辞退すべき時は辞退し、士官すべき時は士官する、これが孔子という人であった。』

孟子はおっしゃった。『伯夷は、聖人の中で清潔(潔癖)なタイプである。伊尹は、聖人の中で責任感の強いタイプである。柳下恵は、聖人の中で調和を重んじるタイプである。孔子は、聖人の中でも時代(歴史)を越えた最高の聖人である。孔子は、それらの聖人の特徴を集めて総合したような人物である。集めて総合するというのは、音楽を演奏する際に、まず金属の打楽器を鳴らし、最後に玉の打楽器を振るわせて鳴らすようなものだ。金属の打楽器を鳴らすのは、音楽の秩序を始めることである。玉の打楽器を振るわせるのは、音楽の秩序を終結させることである。音楽の秩序を始めるのは知性の仕事であり、音楽の秩序を終結させるのは聖の仕事である。知性(智恵)は譬えて言えば、技巧のようなものである。聖は譬えて言えば力のようなものである。百歩以上の距離で射撃をするとすると、的まで届くのはあなたの力であり、的に命中するのはあなたの力ではない(技巧のお陰である。)』

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[書き下し文]3.孟子曰く、仕うるは貧の為にするに非ざるなり。而れども(しかれども)時ありてか貧の為にす。妻を娶る(めとる)は養いの為にするに非ざるなり。而れども時ありてか養いの為にす。貧の為にする者は、尊きを辞して卑しきに居り、富を辞して貧しきに居るべし。尊きを辞して卑しきに居り、富を辞して貧しきに居るは、悪(いずく)にか宜し(よろし)。抱関撃析(ほうかんげきたく)なり。孔子嘗て委吏(いり)と為る。会計当たるのみと曰えり。嘗て乗田(じょうでん)と為る。牛羊(ぎゅうよう)サツとして壮長(そうちょう)せんのみと曰えり。位卑しくして言高きは、罪なり。人の本朝に立ちて、道行われざるは恥なり。

[口語訳]孟子がおっしゃった。『士官(就職)するのは貧乏のためにするのではない。しかし、時には貧乏のために士官することもある。妻をめとるのは父母の扶養のためではない。しかし、時に父母の扶養のために妻をめとることもある。貧乏の為に就職する者は、高位の役職を辞去して低い役職に就き、収入の多い仕事を辞して収入の低い仕事に就くほうが良い。高位の役職を辞して低い役職に就き、収入の高い仕事を辞して収入の低い仕事に就いているのであれば、どこに仕えていても良いということになる。門番でも夜警でも職業を選ばなくて良い。孔子はかつて倉庫管理の役人になった。その時に「倉庫に出し入れする穀物の会計をするだけである。」と言われた。また孔子はかつて家畜を管理する役人になった。その時には「牛・羊がすくすくと成長するだけである。」と言われた。低い官位に就いて、高尚難解な議論をするのは罪(無益)である。反対に、高位の官職に就いて朝廷に立ちながら、自分の信じる(仁義・礼節の)道を実践できないのは恥(恥辱)である。』

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[書き下し文]4.孟子、万章に謂いて曰く、一郷の善士は、斯ち(すなわち)一郷の善士を友とす。一国の善士は、斯ち(すなわち)一国の善士を友とす。天下の善士は、斯ち天下の善士を友とす。天下の善士を友とするを以て、未だ足らずと為すや、また古の人を尚論(しょうろん)す。その詩を頌(しょう)し、その書を読むも、その人を知らずして可ならんや。是れを以てその世を論ず。是れ尚友(しょうゆう)なり。

[口語訳]孟子が万章におっしゃった。『ある郷党(農村)の優秀な人物は、他の郷党の優秀な人物を友人とする。ある国家の優秀な人物は、他の国家の優秀な人物を友人とする。天下の中で名声を轟かす優秀な人物は、やはり、天下の中で声望の高い優秀な人物を友人とする。天下に勇名を響かせる優秀な人物を友人としても、まだ足りないという時には、更に古代の歴史的人物について議論することになる。その詩歌を暗誦し、その書物を読んでも、それを作成した人物のことを知らなくては議論しても意味がない。この為、その歴史的人物が生きた時代と世情について論じることになる。これこそが、尚友(歴史上の人物としての極めて優れた友人)である。』

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