『論語 為政篇』の書き下し文と現代語訳:1

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の為政篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の為政篇は、以下の3つのページによって解説されています。

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[白文]1.子曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。

[書き下し文]子曰く(しいわく)、政を為すに徳を以って(もって)すれば、譬えば北辰のその所に居て、衆星のこれを共る(めぐる)が如し。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『政治を行うのに道徳(人徳)をもってすれば、まるで北極星が天の頂点にあって、周囲の星々が北極星の周りをめぐるように上手く民衆を治められるだろう。』

[解説]民衆を愛する徳を兼ね備えた為政者が政治に当たるのであれば、全天の無数の星を規則正しく運動させる北極星のように、天下国家は有徳の君主(為政者)を中心にして円滑に運営されるという徳治政治の基本を説いている。分析心理学を創始したC.G.ユングは星座を構成するひとつひとつの星があるべき位置に調和を保って布置されることを「コンステレーション(constellation)」といったが、星座全体を「国家」に星を「人民」に例えれば、その中心に位置する北極星が「有徳の為政者」ということになる。有徳の為政者と無数の人民が最適な場所にコンステレート(布置)されることによって、国家安泰の徳治が成立するというのが孔子の政治哲学である。

[白文]2.子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪。

[書き下し文]子曰く、詩三百、一言(いちごん)以ってこれを蔽むれば(さだむれば)、思い邪無し(よこしまなし)と曰うべし(いうべし)。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『詩の篇の数は三百ある。これを一言でまとめると、「思い邪なし」というほかはない。』

[解説]孔子が詩の本質と魅力を簡潔に指摘した文章である。見せ掛けだけの巧言令色を嫌った孔子は、当然のように詩篇についても華やかで優雅な美辞麗句を嫌い、邪心のない純粋な感情が迸る(ほとばしる)ような表現で構成された詩を好んだ。「思い邪なし」の表現は、四書五経の一つ「詩経」の魯頌(ろしょう)から引用したもので、魯頌とは魯国の祖先の霊廟を祭るときの舞楽であり、孔子は仁義と同等以上に礼楽を重視した人でもあった。

[白文]3.子曰、導之以政、斉之以刑、民免而無恥、導之以徳、斉之以礼、有恥且格。

[書き下し文]子曰く、これを導くに政を以ってし、これを斉える(ととのえる)に刑を以ってすれば、民免れて恥なし。これを導くに徳を以ってし、これを斉えるに礼を以ってすれば、恥有りて且つ格し(かつただし)。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『人民を導くのに法制をもってし、人民を統治するのに刑罰をもってすれば、人民は法律の網をくぐり抜けて恥じることがない。人民を導くのに道徳をもってし、人民を統治するのに礼節をもってすれば、人民は(徳と礼節を失う悪事に対する)恥を知りその身を正すようになる。』

[解説]孔子の理想とした政治のあり方とは、有徳の君子が「仁・義・礼・智・信の徳」をもって率先垂範を旨とする政治にあたることであり、人民に道徳や良心を植え付けることで「自律的な社会秩序」を構築することであった。故に、孔子が始めた儒教は、悪事をした人間に懲罰を与えて痛めつけたり自由を奪うことで犯罪や無礼を抑止しようとする「法家」(韓非子・李斯)とは正反対の政治思想といえる。孔子は、「人民の恐怖(処罰)」によって秩序を維持する政治を行うことに反対し、「人民の徳化(教育)」により自発的な社会秩序を生み出そうと尽力したのである。

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[白文]4.子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。

[書き下し文]子曰く、吾(われ)十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う(したがう)。七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰えず(こえず) 。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『私は十五歳で学問に志し、三十歳で独立し、四十歳で迷いがなくなり、五十歳で天から与えられた使命を知り、六十歳で人の意見を素直に聞けるようになり、七十歳で自分の心の欲するままに行動しても人の道を踏み外すことがなくなった(行き過ぎた振る舞いがなくなった)』

[解説]「論語」の中でも非常に有名な篇であり、15歳で若くして学問に専心する決意をした孔子の志学の精神、耳学問や書物からの学鑽によって30歳で一人立ちしたこと、それ以降の人徳を積み重ねる人生を簡潔かつ的確に回顧して表現している。孔子は経済的に貧困な貴族階級に生まれたので、正式な学問体系に則って学問を積み重ねたわけではないが、理想とする周(西周)の王道と礼制を政治に復古させるために周の政治体制と礼楽の精髄を学んだ。
古代中国の封建社会では20歳で成人として認められ、30歳で妻帯して社会的に自立するのが普通であったが、孔子もその社会慣習に拠って30歳で立ったと考えられる。40歳で惑わないという事については、孔子の波乱の人生と故国・魯の政治状況を省みると、魯の正統な君主である昭公への忠誠と忠誠を貫くために帰国することを迷わないと解釈することも出来る。孔子が理想としたのは、飽くまで、歴史的な正統性をもつ有徳の君主による政治(王道)であり、実力主義の権力闘争を勝ち抜いた貴族諸侯による政治(貴族)ではなかった。
当時、魯国の君主である昭公は、有力貴族である三桓氏(孟孫・叔孫・季孫の有力な家臣)に圧倒されて国を追われていたが、孔子は三桓氏による魯の統治の正統性を認めることはなかった。孔子が50歳になって知った天命とは、自分に与えられた寿命・才徳・機会では、自分が目指した「魯国の王道の再建」は不可能であるという宿命のことであると言われる。この篇は、私達が人生を如何に生きるべきかという「一般論としての人生の指標」として読むこともできるが、孔子の実際の人生を踏まえて読むと「孔子の実体験から生まれた比類なき道標」として解釈することもできる。

[白文]5.孟懿子問孝、子曰、無違、樊遅御、子告之曰、孟孫問孝於我、我対曰無違、樊遅曰、何謂也、子曰、生事之以礼、死葬之以礼、祭之以礼。

[書き下し文]孟懿子(もういし)、孝を問う。子曰く、違うことなかれ。樊遅(はんち)、御(ぎょ)たりしとき、子之に告げて曰く、孟孫我に孝を問いしかば、我対えて(こたえて)違うなかれと曰えり(いえり)。樊遅曰く、何の謂(いい)ぞや。子曰く、生けるときはこれに事うるに礼を以ってし、死せるときはこれを葬るに礼を以ってし、これを祭るに礼を以ってすべし。

[口語訳]魯の家老・孟懿子が、孔子に孝の道を尋ねた。先生(孔子)はこうおっしゃった。『違えないようにすることでございます。』先生は御者の樊遅にこうおっしゃった。『孟孫殿(孟懿子)が私に孝の道を聞かれたので、「孝の道にたがえないこと」と答えておいたよ』
納得しかねた樊遅は、「どういう意味ですか」と聞いた。先生は(樊遅の質問に)こう答えた。『親が生きている時には礼によって仕え、親の死後には礼に従って葬り、祖霊をお祭りする場合にも礼をもってすべきですよ』

[解説]孔子の儒学とは、孝道と為政を不可分のものと見るものであり、君主に忠義を尽くすように、親(祖先)には忠孝を尽くさなければならないとする。魯の大夫である孟懿子に親孝行の道を聞かれた孔子は、シンプルに孝道の本質である「礼」を説き、親に対して従順かつ敬虔な「忠孝の道」を踏み外さないようにと説いたのである。良くも悪くも、儒教とは、祖先崇拝から敷衍される先達(目上の親や人間)を、無条件に敬い従うことで秩序を維持しようとする教えである。

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[白文]6.孟武伯問孝、子曰、父母唯其疾之憂。

[書き下し文]孟武伯、孝を問う。子曰く、父母には唯その疾(やまい)をこれ憂えよ。

[口語訳](孟懿子の子である)孟武伯が、孝の道を尋ねられた。先生(孔子)はそれに答えておっしゃった。『父母については、ただそのご病気のことだけを心配しなさい』

[白文]7.子游問孝、子曰、今之孝者、是謂能養、至於犬馬、皆能有養、不敬何以別。

[書き下し文]子游(しゆう)、孝を問う。子曰く、今の孝はこれ能く養うを謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うあり。敬せざれば何を以ってか別たん。

[口語訳]子游が孝の道を尋ねた。先生(孔子)はこうおっしゃった。『今の孝行とは、父母を物質的に扶養できることを言う。人間は犬や馬に至るまで養うことが出来ている。(そうであるならば)父母を養うだけで尊敬する気持ちが欠けていれば、何を以って人間と動物を区別できるであろうか。』

[解説]孔子の「孝の道」の本質が「物理的な扶養」だけでなく「精神的な尊敬」にあることを示した篇である。つまり、ただ単純に経済的な支援や扶養をするだけでは親孝行は不十分であり、心理的に人生の先達に対する敬意がなければ「忠孝」の徳は成り立たないということである。

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[白文]8.子夏問孝、子曰、色難、有事弟子服其労、有酒食先生饌、曾是以為孝乎。

[書き下し文]子夏(しか)、孝を問う。子曰く、色難し(いろかたし)。事あれば弟子(ていし)その労に服し、酒食あれば先生に饌す(せんす)。曾ち是以って孝と為さんや。

[口語訳]子夏が孝について尋ねた。先生(孔子)はおっしゃった。『自分の顔色(両親の顔色)が難しい。村落に仕事があれば、郷党の若者は骨身を削って労働に従い、お酒や食事を楽しむ宴会があれば、年上の先輩にご馳走を差し上げる。このような奉仕の精神をもって孝の道といえるだろう。』

[解説]孝行を実践するに不可欠な「目上の人物への奉仕の精神」を説く文章であるが、「色難し」の部分の解釈はなかなか難しい。一つの解釈としては「自分の顔色に奉仕の気持ちを表すのは難しい」という解釈が成り立つが、別の解釈として「父母の顔色から要望を読み取るのが難しい」と考えることもできる。いずれにしても、奉仕をする側、あるいは奉仕をされる側の表情の機微について語った部分であると考えられ、親孝行をする際には実直な愛情や感謝を顔色に表したほうが良いということであろう。儒学の道徳観では、妬みやそねみ、ひがみといった「本当の気持ち」と「見せ掛けの気持ち」が分離した不誠実さを嫌う傾向があり、出来るだけ正直に率直に意志疎通をすることが好まれる。

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