孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の述而篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の述而篇は、以下の3つのページによって解説されています。
[白文]11.子曰、富而可求也、雖執鞭之士、吾亦為之、如不可求、従吾所好。
[書き下し文]子曰く、富にして求むべくんば、執鞭(しつべん)の士と雖も、吾亦(また)これを為さん。如し(もし)求むべからずんば、吾が好むところに従わん。
[口語訳]先生が言われた。『富が正しい方法で手に入るのであれば、鞭を振るって馬を走らす御者にでもなるだろう。もし、富が正しい方法では手に入らないというのであれば、私は自分の好きな事柄をするだろう。』
[解説]孔子は、富(金銭)を追求すること自体を罪悪視しなかったが、それを求める手段や方法の正当性(徳性)にはある種の強いこだわりを持っていたのである。また、正しい道徳の道を歩むことによって富が手に入るのであれば、御者にでもなるといっているように、孔子は『徳の実践』によって『富の獲得』に至ることを理想としていた節がある。反対に、正しい行為をしても富が手に入らないのであれば、『お金のための職業・仕事』に余りこだわらずに、自分がしたいこと(好むところのもの)に集中するほうが良いとしている。
[白文]12.子之所慎、斉戦疾。
[書き下し文]子の慎むところは、斉(せい)・戦(せん)・疾(しつ)なり。
[口語訳]先生が慎重な態度をとられたのは、祭祀と戦争と疾病である。
[解説]古代中国の春秋戦国時代に生きた君子にとって、最も重要な政治的行事は『祭祀(斎戒沐浴や精進潔斎)』と『外国との戦争』であった。また、医学や薬が未発達であった古代では病気をこじらせることは即、死につながってしまうので、孔子は病気にならないように健康にも留意していたのである。
[白文]13.子在斉、聞韶、三月不知肉味、曰、不図為楽之至於斯也。
[書き下し文]子、斉に在して(いまして)韶(しょう)を聞く。三月、肉の味を知らず。曰く、図らざりき、楽を為すことの斯(ここ)に至らんや。
[口語訳]先生は斉に滞在している時に、韶の音楽をお聞きになられた。その楽があまりに素晴らしかったので、三ヶ月間の間、肉の味も忘れるほどであった。『私の意図を越えていた、楽がこんなに素晴らしい境地に達することができるなんて。』
[解説]孔子は国家を安定統治するために最も重要なものは『礼制』と『音楽』であると考え、君子たるものは礼楽の道の妙味に精通していなければならないと教えていた。その孔子が斉に滞在していた時に聞いて、肉の味も分からなくなるくらいの超越的な感動を覚えたのが、聖王・舜が作曲したという『韶(しょう)の音楽』であった。
[白文]14.冉有曰、夫子為衛君乎、子貢曰、諾、吾将問之、入曰、伯夷叔斉何人也、曰、古之賢人也、曰、怨乎、曰、求仁而得仁、又何怨乎、出曰、夫子不為也。
[書き下し文]冉有(ぜんゆう)曰く、夫子(ふうし)は衛の君を為けんか(たすけんか)。子貢(しこう)曰く、諾(だく)、吾将にこれを問わん。入りて曰く、伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)は何人(なんぴと)ぞや。曰く、古の賢人なり。曰く、怨みたるか。曰く、仁を求めて仁を得たり、また何ぞ怨まん。出でて曰く、夫子は為けざる(たすけざる)。
[口語訳](衛の内乱を目前にして)冉有が言った。『先生は衛の君主を助けるのだろうか?』。子貢が言った。『それは私も気になっていた。今からそのことを聞いてこよう。』。先生の部屋に入って質問をした。『伯夷・叔斉とはどんな人物でしょうか?』。先生が言われた。『古代の賢人である。』。子貢が更に聞いた。『彼らは高い身分を捨てて、恨むことはなかったのでしょうか?』。先生がお答えになった。『高い身分を捨てたのは、仁の徳を求めて仁の徳を手に入れた結果である。どうして恨みを残すことなどがあるだろうか?』。部屋から出た子貢は冉有に言った。『先生は衛の君主をお助けにはならないだろう。』
[解説]衛の君主の座を巡って、父親の萠潰(カイカイ・正確な漢字は「萠」にリットウがつき、潰のサンズイが「耳」となる)子の輒(ちょう)が争っている時に、孔子一門がどちらの味方をするのかについて子貢が質問した章句である。子貢は、殷に忠節を尽くして周王朝の正統性を認めず、首陽山で餓死した古代の聖人、伯夷・叔斉の兄弟を例に挙げて孔子に質問したが、孔子は「仁徳の道を守る為に死んだのであれば後悔などはない」と応えた。孔子は父親よりも先に君主の座を執った太子の輒(ちょう)に味方しないという意志を示したが、かといって、衛国を捨てて晋国に亡命していた父親のカイカイの味方をしたわけでもなかった。
[白文]15.子曰、飯疏食飲水、曲肱而枕之、楽亦在其中矣、不義而富且貴、於我如浮雲。
[書き下し文]子曰く、疏飯(そし)を食らい、水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦その中にあり。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。
[口語訳]先生がおっしゃった。『高粱(コウリャン)の粗末な飯を食べ、水を飲み、腕を曲げて枕にする。そんな質素な生活の中にも楽しみがある。不正な手段で金銭や地位を得ているものは、私にとって浮雲のような存在に過ぎない。』
[解説]晩年の孔子の人生観の簡潔な吐露であり、不正な手段で富裕になる出世主義者と自分とが無関係であると述べた部分である。孔子にとって粗末な衣食住の生活をすることは苦痛でも不幸でもなく、孔子は学問と道徳の実践の中にこそ人間としての『真の楽しみ』があると考えていた。金銭や官位を得るために他人を不正な手段で蹴落としたり、賄賂を贈って取り入ったりするような生き方を、孔子が直接的に批判していない点に注意したい。孔子はそういった現世利益を必死に追い求める人たちのことは全否定していないが、彼らは私にとって何の意味も価値も持たない『浮雲(うきぐも)』のようなものだと語っているのである。『他人は他人、自分は自分』という明瞭な区分が厳然として孔子の中で成り立っており、不正や強欲などの『徳の欠如』があっても、それを懸命に非難したり否定する必要性を感じていないのである。
[白文]16.子曰、如我数年、五十以学、易可以無大過矣。
[書き下し文]子曰く、我に数年を加え、五十にして以て学ぶ。易(また)大過(たいか)なかるべし。
[口語訳]先生が言われた。『天が私に更に数年間の寿命を与え、五十歳になっても学び続ける。それが出来るのであれば、大きな間違いはなくなるであろう。』
[解説]学問を人生全般のライフワークとして考え、50歳になってもまだ懸命かつ真摯に『志学の精神』を持つことが大切だと孔子は考えていた。大きな間違いや過ちは『単純な人生経験の積み重ね』だけでは逃れることができず、人間は死ぬその時まで『意識的に学び続ける姿勢』を保持することが理想だといえる。
[白文]17.子所雅言、詩書、執礼皆雅言也。
[書き下し文]子の雅言(がげん)するところは詩と書。礼を執るも、皆(みな)雅言するなり。
[口語訳]先生が標準語で正しく発音するのは『詩経』と『書経』である。礼を実践する人も、みんな標準語の正しい発音をした。
[解説]雅言というのは、周の首都・西安で話されていた言葉である。孔子は儒学の重要経典である『詩経』と『書経』を読むときには、理想の政体と考えていた周の標準語を使って正しく発音することを心がけていたのである。
[白文]18.葉公問孔子於子路、子路不対、子曰、汝奚不曰、其為人也、発憤忘食、楽以忘憂、不知老之将至云爾。
[書き下し文]葉公、孔子を子路に問う。子路対えず(こたえず)。子曰く、汝(なんじ)奚ぞ(なんぞ)曰わざる(いわざる)。その人と為りや(なりや)、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ。
[口語訳]葉県の長官が、孔子のことを子路にお尋ねになられた。子路はその問いに答えなかった。孔子がおっしゃった。『なぜ、お前は葉の長官にこのように答えてくれなかったのだ。その人柄は、政治に憤慨すると食事を忘れて仕事をし、楽しみを感じると心配事を忘れて熱中し、自分が老いていっている事に気づかないような人であると。』
[解説]老年になって孔子は、賢人として名声を鳴り響かせていた葉公の沈諸梁(しんしょりょう)の元を訪ねたが、弟子の子路がその葉公から『孔先生とは、どのような人となりをしている方なのだろうか?』と質問された。それに適切に答えることが出来なかった子路に向かって、孔子がこのようにありのままを答えれば良かったではないかと教えている部分である。孔子は、感情を抑圧する人ではなく、政治や情勢に対して憤激を感じると、寝食を忘れてその問題の解決に熱中し、自分が好きだと思える事柄に出会えば、小さな心配事などをすっかり忘れてそれにのめり込むような純粋素朴な人であった。また、自分自身が老人になって老け込んでいるというような自己認識を持たず、『まだまだ、これから学び教えていかなければならない』という精神の清冽さと若々しさを維持していたのである。
[白文]19.子曰、我非生而知之者、好古敏而求之者也。
[書き下し文]子曰く、我生まれながらにしてこれを知る者に非ず、古(いにしえ)を好み、敏(びん)にしてこれを求むる者なり。
[口語訳]先生が言われた。『私は生まれながらにして物事を知っている者ではない。古代の知恵と礼節を好んで、意識して敏感にそれを求めてきた者なのだ。』
[解説]保守主義を絶対の前提とする孔子は、自分自身が生来的な天才や英傑ではないことを強調しており、己の人生が『古代(周王朝)の礼制と知識に依拠したもの』に過ぎないことを自覚していたという。
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