『論語 季氏篇』の書き下し文と現代語訳:2

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の季氏(きし)篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の季氏篇は、以下の2つのページによって解説されています。

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[白文]8.孔子曰、君子有三畏、畏天命、畏大人、畏聖人之言、小人不知天命而不畏也、狎大人、侮聖人之言、

[書き下し文]孔子曰く、君子に三畏(さんい)あり。天命を畏れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る。

[口語訳]孔先生が言われた、『君子には三つの畏れはばかりがある。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言葉を畏れる。小人は天命を知らないで畏れず、大人になれなれしくし、聖人の言葉を侮辱する。』

[解説]君子の抱く畏怖は小人にはない種類の畏れ(はばかり)であり、君子は『人智を超越した力や権威・徳』に対する敬意と畏怖の念を絶えず忘れないのである。反対に、徳や志といったものがない小人は、天命を畏怖せずに無視し、徳の優れた大人になれなれしくして、聖人の言葉を教訓にしようとする意志がないと言っている。

[白文]9.孔子曰、生而知之者、上也、学而知之者、次也、困而学之、又其次也、困而不学、民斯為下矣、

[書き下し文]孔子曰く、生まれながらにしてこれを知る者は上(かみ)なり。学びてこれを知るものは次なり。困み(くるしみ)てこれを学ぶは又た其の次なり。困みて学ばざる、民斯れ(それ)を下(しも)と為す。

[口語訳]孔子がおっしゃった。『生まれながらにして道理を知っている人は「上」である。学んで知るようになった人はその次の部類である。苦しみながらも懸命に勉強する人はその次である。頑張って勉強することも出来ないのが人民であり、これを「下」とする。』

[解説]古代中国の春秋時代は、封建主義的な身分制が絶対と考えられていた時代であり、一般の人民が学問や書籍に接することのできる機会は殆どなかった。そのため、孔子は一般庶民は志学の精神を持つことが不可能と考えていた節があるが、これは春秋時代に生きた孔子の認識のある種の限界を示したものと言えるだろう。儒教は、学問によって人間性を陶冶し知性を高めることを重視していたが、この章では大衆蔑視的なところが見られる。これは古代という時代の制約であるが、孔子は最も学問に適性のない人以外は『教育の機会』によって変われると信じていた人でもあった。

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[白文]10.孔子曰、君子有九思、視思明、聴思聡、色思温、貌思恭、言思忠、事思敬、疑思問、忿思難、見得思義、

[書き下し文]孔子曰く、君子に九思あり。視るには明を思い、聴くには聡を思い、色には温を思い、貌(かたち)には恭を思い、言(ことば)には忠を思い、事には敬を思い、疑わしきには問いを思い、忿(いかり)には難を思い、得るを見ては義を思う。

[口語訳]孔先生が言われた。『君子には九つの思うことがある。見るときにははっきり見たいと思い、聞くときには細かく聞きたいと思い、顔つきは穏やかでありたいと思い、姿には恭しくありたいと思い、言葉には誠実でありたいと思い、仕事には慎重でありたいと思い、疑わしいことには質問することを思い、怒りには後々の困難を思い、得を見たときには道義を思う。』

[解説]君子の徳目を『九思』という形で箇条書き的にまとめたもので、君子たる者がどのような振る舞いや態度を取るべきなのかを直感的にイメージすることが可能である。

[白文]11.孔子曰、見善如不及、見不善如探湯、吾見其人矣、吾聞其語矣、隠居以求其志、行義以達其道、吾聞其語矣、未見其人也、

[書き下し文]孔子曰く、善を見ては及ばざるが如くし、不善を見ては湯を探るが如くす。吾その人を見る、吾れその語を聞く。隠居して以てその志を求め、義を行いて以てその道に達す。吾その語を聞く、未だその人を見ず。

[口語訳]孔先生が言われた。『善いことを見れば、とても達成できないというように謙虚に努力し、善くないことを見れば熱湯に手を入れたようにすぐに離れる。私はそういう人を見た。私はそうした言葉も聞いた。世間から隠棲してその志を果たそうとし、正義を行ってその道を通そうとする。私はそうした言葉を聞いた。だが、そんな人はまだ見たことがない。』

[解説]孔子が自分が見たことのある君子、聞いたことのある君子の話について述べた部分である。孔子は、善なることを達成しようとして必死に努力している人の存在は見聞きしたことがあるが、欲望の渦巻く世俗から完全に遠ざかって、高邁な理想を貫こうとしている聖人はまだ見たことがないと言っている。

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[白文]12.斉景公有馬千駟、死之日民無徳而称焉、伯夷叔斉餓于首陽之下、民到于今称之、其斯之謂与、

[書き下し文](孔子曰く、誠に富を以てせず、亦祇(ただ)異なれりを以てす)斉の景公、馬千駟(せんし)あり。死せる日、民徳として称すること無し。伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)首陽(しゅよう)の下(もと)に餓う。民今に到るまでこれを称す。それ斯れ(これ)をこれ謂うか。

[口語訳]孔先生が言われた。『詩経には「人の評価は、裕福な富にはよらず、ただ富とは異なるものによる」とある。斉の景公は四千頭もの馬を持っていたが、死んだときには、人民は誰も景公の徳を褒めなかった。伯夷・叔斉は首陽山のふもとで飢え死にしたが、人民は今日までもその徳を褒めている。詩経の言葉は、こういうことを言うのだろう。』

[解説]後世に語り伝えられるような『人間の真の価値』は、経済的な裕福さ(富)ではなく、それ以外の人民が敬意を抱く『徳』にあるということを示した章。主君への忠誠を最後まで尽くして、敵国からの粟(食糧)を貰わずに首陽山で餓死した伯夷・叔斉の事例を引いて解説している。

[白文]13.陳亢問於伯魚曰、子亦有異聞乎、対曰、未也、嘗独立、鯉趨而過庭、曰、学詩乎、対曰、未也、曰、不学詩無以言也、鯉退而学詩、他日又独立、鯉趨而過庭、曰、学礼乎、対曰、未也、不学礼無以立也、鯉退而学礼、聞斯二者、陳亢退而喜曰、問一得三、聞詩、聞礼、又聞君子之遠其子也、

[書き下し文]陳亢(ちんこう)、伯魚(はくぎょ)に問いて曰く、子も亦異聞(いぶん)あるか。対えて曰く、未だし。嘗て独り立てり。鯉(り)趨りて(はしりて)庭を過ぐ。曰く、詩を学びたるか。対えて曰く、未だし。詩を学ばずんば、以て言うこと無し。鯉退きて詩を学ぶ。他日又た独り立てり。鯉趨りて庭を過ぐ。曰く、礼を学びたるか。対えて曰く、未だし。礼を学ばずんば、以て立つこと無し。鯉退きて礼を学ぶ。斯の(この)二者を聞けり。陳亢退きて喜びて曰く、一を問いて三を得たり。詩を聞き、礼を聞き、又君子のその子を遠ざくるを聞くなり。

[口語訳]陳亢が(孔子の子の)伯魚に尋ねた。『あなたは、父上から何か変わったことを教えられましたか?』と聞いた。伯魚は答えて申し上げた。『いいえ。いつか父上が一人で立っておられたとき、私が小走りで庭を通りますと、「詩を学んだか」と言われました。「いいえ」と答えると、「詩を学ばなければ適切にものが言えない。」ということで、私は下がってから詩を学びました。別の日に、父がまた一人で立っておられたとき、私が小走りで庭を通りますと、「礼を学んだか」と言いました。「いいえ」と答えますと、「礼を学ばなければ自立できない」ということで、私は下がってから礼を学びました。この二つのことを父に教えられました』陳亢は退出すると喜んで言った。『一つのことを質問して、三つのことを得られた。詩のことを聞き、礼のことを聞き、また君子が自分の子供を近付けない(甘やかさない)と言うことを聞かせて貰ったのである。』

[解説]孔子の子どもである伯魚が、陳亢の質問に答えて『父親との関係・言葉のやり取り』を回想している場面である。伯魚は孔子から特別な教えを授かったわけではなかったが、君子として必要不可欠な『詩経・礼節』を自然なやり取りの中から学び取っていた。この親の子に対する見事な教育方針を聴くことのできた陳亢は、『一つの質問から三つの大切な教えを得ることが出来た』と喜んだのである。

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[白文]14.邦君之妻、君称之曰夫人、夫人自称曰小童、邦人称之曰君夫人、称諸異邦曰寡小君、異邦人称之亦曰君夫人也、

[書き下し文]邦君(ほうくん)の妻、君これを称して夫人(ふじん)と曰う。夫人自ら称して小童(しょうどう)と曰う。邦人これを称して君夫人(くんふじん)と曰う。異邦に称して寡小君(かしょうくん)と曰う。異邦の人これを称して亦た君夫人と曰う。

[口語訳]国の君主の妻のことは、君が呼ばれるときには夫人といい、夫人が自分で言うときには小童といい、その国の人が(国内で)呼ぶときには君夫人といい、外国に向かって言うときには寡小君といい、外国の人が言うときにはやはり君夫人と言う。

[解説]国家の主君の「妻」の呼び方について詳細に解説した章である。

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