『老子 上篇』の書き下し文と現代語訳:1

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古代中国の春秋時代の思想家である老子(B.C.5世紀頃)の唱えた『道(タオ)』の思想は、戦国時代の荘子(B.C.369-286)の無為の思想と並んで老荘思想と言われます。楚国に生まれた老子は、姓を李、名を耳、字をタンと言いますが、公的な歴史史料(文献記録)からはその実在が立証されておらず、人物像も非常に不明確なものとなっています。しかし、老荘思想や神仙思想(不老不死の仙人と脱俗的な生活を目指す思想)の影響を強く受けて生まれた道教は、儒教・仏教と並んで中国の民族性・歴史性や世界観に大きな影響を与えてきました。中国三大思想(中国三大宗教)とは、儒教・仏教・道教(儒仏道)のことを指しています。道家の老荘思想は中国大陸の土着宗教・風俗である『道教』の根本思想となりましたが、老子・荘子は脱俗的な倫理規範と世界の普遍的原理である『道』を説いたのであって、直接的に宗教・風俗としての『道教』を創設したわけではありませんでした。

人為的な営みを排して無為自然の境地に遊ぼうとする『道教』は、世俗(君子の道)における立身出世を目指す『儒教』と対極を為していますが、近代以前の中国民族の基本原理はこの相矛盾する『儒教(陽)』と『道教(陰)』から成り立っていました。儒教では人間世界の社会秩序(権力機構)を規定する究極の原理として『天』を仮定しましたが、道教ではこの世界のありとあらゆるものを生み出す根本原理として悠久無辺の『道(タオ)』を考えました。道教では、世俗的な欲望や物質的な価値を否定的に見て、人為的な計らいを何もせずに、ただ自然のままに生きる『無為自然』を重視します。老子や荘子は、世俗的な問題(地位・財産・権力・名誉・性欲)とできるだけ関わらずに『無為自然』を実践することが、人間の理想的な生き方(倫理)につながると考えました。

この世俗的な欲望(煩悩)を否定して無為自然を勧める老荘思想は、釈迦の仏教でいう『諸行無常・涅槃寂静』にも共通する部分があり、古代中国では『老荘の無為』と『仏教の涅槃』は同一のものと解釈される傾向がありました。無為も涅槃(ねはん)も、『衆生の欲望・煩悩の炎』をふっと吹き消した状態であり、絶対的な安楽と静謐の状態であると考えられていました。道教と仏教の基本教義が似ているので、中国大陸では一時期、老子こそが釈迦そのものであるという『老子化胡説(ろうしかこせつ)』が言われたりもしました。

老子は周王室の書庫の記録官だったとされますが東周の衰退を見て立ち去り、関所の役人の尹喜の依頼を受けて『老子(上下巻5000余字)』を書き残したと言われています。『老子』は、上下巻の最初の一字である『道』と『徳』から『老子道徳経』と呼ばれることもあります。ここでは、『老子』の書き下し文を掲載して、簡単な解説(口語訳)を付け加えていきます。

[書き下し文]1.道(みち)の道う(いう)可き(べき)は、常の道に非ず。名の名づく可きは、常の名に非ず。名無きは天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。故(ゆえ)に常に欲無きもの、以て(もって)その妙を観(み)、常に欲有るもの、以てその徼(きょう)を観る。此の両つの者は、同じきより出でたるも而も(しかも)名を異にする。同じきものは之(これ)を玄(げん)と謂う、玄の又玄、衆妙(しゅうみょう)の門なり。

[口語訳]『道(世界の根本原理)』を言葉で言うことができるならば、それは不変の道ではない。『名』が名づけられるものであれば、それは不変の名ではない。名の無い『無名』は天地の始まりであり、名の有る『有名』は万物を生み出した母である。その為、『永遠の欲望の無い者が、世界の妙(素晴らしい本質)を見ることができ、いつも欲望に振り回されている者は、世界の徼(取るに足りない末端)しか見ることができないのだ』。この二つ(無名と有名)は同じものから出てくるが、名前が異なっている。この同じものを『玄(神秘的な原理・法則)』といい、玄の中でも最も玄なもの、それが衆妙の門(「全ての妙」を生み出す門)である。

[書き下し文]2.天下、皆、美の美為ることを知る。斯(これ)、悪なる巳(のみ)。皆、善の善為ることを知る。斯、不善なる巳。故(まこと)に有無相生じ、難易(なんい)相成し(あいなし)、長短相形にし、高下(こうげ)相傾け、音声相和し、前後相随う(したがう)。是(ここ)を以て聖人は、無為の事に処り(おり)、不言の教えを行う。万物は作られて而も(しかも)辞せず、生じて有せず、為して而も恃まず(たのまず)、功成って而も居らず。夫れ(それ)唯居らず、是を以て去らしめられず。

[口語訳]天下の人々がみんな、美が美であることを知ると、そこから醜悪の観念が生まれる。天下の人々がみんな、善が善であることを知ると、そこから不善の観念が生まれる。本当に、有と無は互いに対立概念(反対の意味を持つもの)から生まれ、難しいものと易しいものは互いを規定し、長いものと短いものは互いに長さを明らかにし、高いものと低いものは互いに限定し、音声は互いに調和し、前と後ろは互いにその順序を決めている。その為、聖人は無為(行動しないこと)に依拠しており、言葉をしゃべらずに教えを伝える。万物は聖人によって働かされても、そこから逃げ出さない(嫌がらない)。聖人は物を作り出しても所有しないし、何か行動してもその結果に依拠せず、功績を上げてもそれに対する評価や報酬を求めない。聖人は他者の評価(賞賛)を受けようとしないからこそ、究極の境地である『道』から立ち去らせられることがないのである。

[書き下し文]3.賢を尚ばざれば(たっとばざれば)、民をして争わざらしむ。得難き貨(か)を貴ばざれば、民をして盗(ぬすっと)為らざらしむ。欲す可きを見ざれば、心をして乱れざらしむ。是を以て聖人の治は、其の心を虚しくして、其の腹(ふく)を実らしめ(みのらしめ)、其の心を弱くして、其の骨を強くす。常に民をして無知無欲ならしめ、夫の(かの)知ある者をして敢えて為さざらしむるなり。無為を為せば、則ち治まらざること無し。

[口語訳]もし、賢者(優秀な人材)を尊重(優遇)しないならば、人々の間の競争(争い合い)はなくなるだろう。もし、手に入りにくい品物を貴重(大切)と思わないようにすれば、人々の間に盗人はいなくなるだろう。もし、人々が欲望を刺激するものを見なければ、その心は安定して乱れないだろう。その為、聖人の統治は、人民の心を虚無にすることによって(こだわりと欲望を無くさせることによって)、人民の腹を満たし(他者との競争や他者への嫉妬を無くさせ)、人民の心を柔弱にすることによって(意志薄弱にすることによって)、人民の骨を強くする(喜怒哀楽の精神の動揺を無くさせる)。いつも人民を無知無欲の状態にして、知性の優れた聖人がいても敢えて何も行動しないようにする。(聖人の政治が人民に干渉しない)無為を貫けば、国が上手く治まらないということはない。

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[書き下し文]4.道は沖(ちゅう)なり、而うして(しこうして)之を用うるに或(あるい)は盈たず(みたず)。淵兮(えんけい)として万物の宗なるに似たり。其の鋭を挫き、其の紛(ふん)を解く。其の光(こう)を和らげ、其の塵を同じくす。湛兮(たんけい)として常に存するに似たり。吾、誰の子なるかを知らず。象(しょう)は帝の先にあり。

[口語訳]『道』は空虚(空っぽ)な容器であり、これを用いる場合には中身を満たして上げる必要はない。道は底(限り)のない淵のようで、万物の宗祖(祖先)に似ている。道は、すべての鋭い性質を鈍くして、すべての紛糾を解きほぐしてしまう。すべての光は弱められ、(弱まった光は)塵埃(じんあい)の中に埋もれていってしまう。道は満々と水を湛えた(たたえた)池のようで、いつもそこに存在している。私は、道が誰の子であるのかを知らない。『道』の捉えどころのない象(すがた)は、中国の歴史のはじまりである三皇五帝の時代よりもずっと前から存在しているのだ。

[解説]『老子』のこの部分は、「1.学識や才能を隠して、俗世間と交流する。2.仏教で仏が智慧の光を和らげて、衆生に分かりやすい言葉・表現で説法を行う。」という意味を持つ故事成語「和光同塵(わこうどうじん)」の原典となっている。

[書き下し文]5.天地は仁あらず。万物を以て芻狗(すうく)と為す。聖人は仁あらず。百姓(ひゃくせい)を以て芻狗と為す。天地の間は、其れ猶(なお)、タクヤクの如きか。虚しくして屈せず、動かせば愈々出だす。多言なれば数々(しばしば)窮まる。中(ちゅう)を守るに如かず。

[口語訳]天地には仁(親愛な思いやり)はない。天地にある万物は、藁(わら)で作った犬のようなものである。聖人には仁の徳はない。聖人にとって百姓(人民)は藁で作った犬のようなものだ。天地の間は、まるでフイゴ(吹子・鞴=中が空洞で息を吹き込む送風装置)のようなものである。(天地の内部は鞴のように)空洞であるが力が無くなって屈することはなく、動かせば動かすほどますます力が出るのだ。しかし、言葉の数が多い多言であれば、しばしば言葉の力を使い果たしてしまう。(多言に陥らず)心の内部にしっかりと力を蓄えておくのがもっとも良い。

[書き下し文]6.谷神(こくしん)は死せず、是(これ)を玄牝(げんぴん)と謂う。玄牝の門、是を天地の根(こん)と謂う。綿々として存するが若し(ごとし)。之(これ)を用うれども勤きず(つきず)。

[口語訳]谷の神は死なない。それは神秘的な牝(玄牝)と呼ばれている。神秘的な玄牝の門、それが天地の活動の根源である。それは綿々(細々)と谷川の流れのように続いていて、存在し続けているようだ。神秘的な牝の門から幾ら力(生命)を汲みだしても、それで使い果たしてしまうということなどはない。

[書き下し文]7.天は長く地は久し。天地の能く(よく)長く且つ久しき所以(ゆえん)の者は、其の自ら生ぜざるを以てなり。故に能く長生(ちょうせい)す。是を以て聖人は、其の身を後にして而も身は先んず。其の身を外にして而も身は存す。其の私(わたくし)無きを以てに非ずや、故に能く其の私を成す。

[口語訳]天は長大であり、地は悠久である。天地が永遠不変である理由は、自身の生命を盛んにしようとしないからである。その為、天地は永遠といえるほどに長く存続できる。そして、聖人は、自分の身を人民の背後に置くようにしながら、実は人民の前に先んじている。その身を世俗の外側に置いているようで、実は内側(世俗)にある。聖人は個人的な欲求のために行動しないが、そのために逆に、個人的な目的を達成することが出来るのである。

[書き下し文]8.上善水の如し。水は善く万物を利して而も争わず。衆人の悪む(にくむ)所に処る(おる)。故に道に幾し(ちかし)。居るには地を善しとし、心には淵き(ふかき)を善しとし、与(とも)にするには仁なるを善しとし、言は信あるを善しとし、政(まつりごと)には治むるを善しとし、事には能(のう)あるを善しとし、動くには時なるを善しとする。夫れ(それ)唯(ただ)争わず、故に尤(とが)無し。

[口語訳]最上の善は水のようである。水の善なるところは、万物に恩恵を与えて水自身は争わないところである。水は人民が好まない低い場所にある。その為、水は『道』に極めて近いのである。住居を作るには善い土地を必要とし、心の内容では奥深いものを良しとし、一緒に物事をするには相手への優しい思いやりがあることを良しとする。言葉は誠実で嘘のないものを良しとし、政治では秩序が維持されている状況を良しとし、物事においては実際の成果があることを良いとし、行動する時には時宜を得ていることを良いとする。それらの善いものは争い合うことがない、その為に危険な間違いがないのである。

[書き下し文]9.持して之を盈たす(みたす)は、其れ巳めん(やめん)に如かず。揣(し)して之を鋭くするは、長く保つ可からず。金玉、堂に満つれば、之を能く守る莫く(なく)、富貴にして驕れば(おごれば)、自ら其の咎(とが)を遺す。功遂げて身退くは、天の道なり。

[口語訳]器を手に持ち、器の中身をいっぱいに満たしたままにするのはやめるべきである。刀剣の刃に焼きを入れて鋭くしても、この鋭利さを長い期間にわたって保持することなどできない。黄金・宝玉が建物に満ち溢れていても、この美しい黄金・宝玉を(外敵や紛失・盗難・徴税から)守り続けることなどできない。富と権力を手に入れて驕り高ぶれば、自ら罪を負ってしまう(怨恨や叛逆を受けて自滅の道を進むことになる)。功績を上げれば(その地位や財産にこだわらずに)速やかに引退するというのが、天の道なのである。

[書き下し文]10.営える(まよえる)魄(はく)を載んじ(やすんじ)、一(いつ)を抱いて、能く離れしむる無からんか。気を専らにし柔を致して、能く嬰児の如くならんか。玄覧を滌除(てきじょ)して、能く疵(きず)無からしめんか。民を愛し国を治めて、能く知らるる無からんか。天門の開き闔ずるに能く雌(し)を為さんか。明白に四に達して、能く為すこと無からんか。之を生じ之を畜い(やしない)、生じて而も有せず、為して而も恃まず、長となりて而も宰(さい)たらざる、是を玄徳と謂う。

[口語訳]さまよっている魄(身体の生気としてのたましい)を安楽にさせて、統一を保持して、魄から離れないように出来るだろうか。気を集中してその気を柔軟に滑らかにして、嬰児(新生児)のようにできるか。神秘的な光景(視覚刺激)を排除して、心の傷(迷いや偏見)を拭い去ることができるか。民衆を愛して国を統治しているのに、その政治を行っている自分のことを知られないということができるか。天の門が開いたり閉じたりしている時に、雌のような受動的な構えを取っていられるか。国土の四方(すべて)に自分の考えが達しているのに、必要以上に干渉しないということができるか。生命やものを生み出してこれを養い、あらゆるモノを生み出してもそれを自分の所有物にせず、生み出したものを働かせてもそれに依存しない。生み出したもののリーダーになってもそれらを支配する宰相にはならない、これを神秘的な力量(徳性)である「玄徳」という。

[書き下し文]11.三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。其の無に当たって、車の用有り。埴(しょく)をかためて以て器を為る(つくる)。其の無に当たって、器の用有り。戸ユウ(こゆう)を鑿って(うがって)以て室(いえ)を為る。其の無に当たって、室の用有り。故に有の以て利と為すは、無の以て用を為せばなり。

[口語訳]三十本の輻(スポーク)が、車輪の中心にある轂に集っている。車輪を回すための空間があることによって、車輪に有用性が生まれる。粘土(埴)を固めて器を作成する。その何もない器の空間によって、器に有用性が生まれる。戸口や窓の穴を開けて家を建設する。その何もない戸口や窓の空間によって、家の有用性が生まれる。その為、何かがある『有』によって利益が生まれるが、(その有の利益は)何もない『無』の有用性によって支えられているのである。

[書き下し文]12.五色は人の目をして盲ならしめ、五音(ごいん)は人の耳をして聾(ろう)ならしめ、五味は人の口をして爽わしめ(たがわしめ)、馳テイ(ちてい)田猟(でんりょう)は、人の心をして狂を発せしむる。得難きの貨は、人の行いをして妨げしむ。是を以て聖人は、腹を為して目を為さず。故に彼(かれ)を去って此れを取るなり。

[口語訳]五つの華やかな色は人の目を盲目にし、五つの美しい音は人の耳を聞こえなくさせ、五つの豊かな味は人の味覚をおかしくさせ、野原を駆け回って狩猟をすることは、人の心に凶暴な狂気を生み出す。手に入りにくい金銭や品物は、それを持っている人(やそれを欲求する人)の行動を妨げる。その為、聖人は、腹を用いて目を用いない。本当に聖人は、外部世界の知覚刺激(快楽をもたらす感覚)に惑わされず、自己の内面の力(腹に象徴される内部に生じる気のエネルギー)を取るのである。

[書き下し文]13.寵辱(ちょうじょく)には驚える(くるえる)が若し(ごとし)。大患(たいかん)を貴ぶこと身の若くすればなり。何をか寵辱には驚えるが若しと謂う。下(しも)為る(たる)ものは、之を得て驚えるが若く、之を失って驚えるが若し。是を寵辱には驚えるが若しと謂う。何をか大患を貴ぶこと身の若くすと謂う。吾が大患有る所以は、吾が身有るが為なり。吾が身無きに及んでは、吾何の患か有らん。故に身を以てすること天下の為より貴ぶものは、天下を寄す可べきが若し。身を以てすること天下の為より愛するものは、天下を托す可きが若し。

[口語訳]寵愛と屈辱は人間は狂ったようにさせてしまう。それは大きな災いである大患を、自分の身と同じように大切にすることだ。寵愛や屈辱によって狂ったようになってしまうのは何のためなのか?臣下である者は、寵愛を得て狂ったように興奮し、寵愛を失った時にはまたもや狂ったように落胆する。このような状態を、寵愛や屈辱によって狂ったような状態という。大きな災いを自分の身と同じように大切にするとはどういうことなのか?私達が大きな災いを受ける理由は、私達に身体があるからである。身体を有していなければ、私達に何の災いがあるだろうか?(いや、災いや不幸などないだろう)。その為、自分の身を大切にする欲求が天下を愛する気持ちより強ければ、その人に天下の統治を任せることができるだろう。自分の身だけを大切にする欲求が、天下のための大志より強ければ、その人は誰よりも大きな災いや責任を背負えるのだから、天下の政治を託すことが出来るのである(地位・名誉・富裕を求める名声欲が強い人物よりも、自分の身体を愛して惜しむような慎重で無為な人物のほうが天下国家の政治に向いている)。

[書き下し文]14.之を視れども見えざる、名づけて夷(い)と曰う(いう)。之を聴けども聞こえざる、名づけて希(き)と曰う。之を搏うれども(とらうれども)得ざる、名づけて微(び)と曰う。此の三つの者は、詰(きつ)を致す可からず、故に混じて一と為る。其の上なる皦(きょう)ならず、其の下なる昧(まい)ならず。縄縄(じょうじょう)として名づく可からず、物無きに復帰す。是を状無きの状、物無きの象(しょう)と謂う。是を惚恍(こつこう)と謂う。之を迎えて其の首(しゅ)を見ず、之に随って其の後を見ず。古(いにしえ)の道を執って、以て今の有を御す。能く古始(こし)を知る。是を道の紀(き)と謂う。

[口語訳]目をこらしても見えないので、名づけて「すり抜けるもの(夷)」と言う。聴こうとしても聴こえないので、名づけて「かぼそきもの(希)」と言う。捕えようとしても捕まえられないので、名づけて「微笑なもの(微)」と言う。これら3つのものはそれ以上深く調べることはできず、お互いに混じり合って一つとなる。それが上にあっても明るさはなく、それが下にあっても暗さはない。次々と縄のように続いていくので、特定して名前を付けることもできず、何者もないところへと帰っていく。それらは形状のない形状であり、物体のない象(すがた)であると言う。これを明確な姿形を持たないぼんやりとした惚恍と呼んでいる。これを正面から迎えても頭が見えず、これに後ろから従っていっても後ろ姿が見えない。古代から永遠に続く『道』を実践して、今あるものである『有』を制御することで、古代の全ての始まりの地点にあったものを知ることが出来る。これを『道』の紀(もとづな=根本)と言うのである。

[書き下し文]15.古(いにしえ)の能く士たる者は、微妙玄通(びみょうげんつう)にして、深きこと識る(しる)可からず。夫れ(それ)唯知る可からず、故に強いて之が容(よう)を為さん。豫兮(よけい)として冬に川を渉る(わたる)が若く(ごとく)、猶兮(ゆうけい)として四隣を畏るるが若く、巌兮(げんけい)として其れ客(かく)たるが若く、渙兮(かんけい)として氷の将に釈けん(とけん)とするが若く、敦兮(とんけい)として其れ樸(はく)の若く、曠兮(こうけい)として其れ谷の若く、混兮(こんけい)として其れ濁れるが若し。孰か(たれか)能く濁れるを以て之を静かにし徐(おもむろ)に清からしめん。孰か能く安んじて以て之を動かし徐に生あらしめん。此の道を保つ者は、盈つるを欲せず。夫れ唯盈たず、故に能く蔽うて新たに成さざるなり。

[口語訳]昔の優れた士大夫(士)であった者は、明晰な知性と神秘的な直感を持っていて、その能力を深く知ることは出来なかった。それは深く知ることが不可能なので、敢えて語るとすれば目に見える容態(姿)を語るほかはない。泰然自若として落ち着いた様子は、凍った冬の川を渡るようであり、注意深いところは四方からの危険を恐れるかのようであり、威儀に厳しい様子は誰かの食客として他人の家宅を訪問するかのようである。柔軟な様子は氷が解け始めるかのようであり、重厚なところはまだ削られていない原木のようである。度量の大きさは深くて底の見えない谷のようであり、限界が分からない暗さは濁った川の流れのようである。誰かがその暗い濁流を静めて、少しずつ清らかな清流にすることが出来るだろうか?誰かがゆったりと落ち着いた気持ちを持って、濁流が動いて少しずつ生気が漲ってくるのを待てるだろうか?この『道』を保持する人は、それが溢れるほどに満たされるのを欲しない。溢れるほどに満ちないからこそ、『道』は全てを綺麗に覆い尽くすことができ、新たに何かを生み出す必要がないのである。

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[書き下し文]16.虚を致すこと極まり、静を守ること篤くす。万物並び作る(おこる)も、吾は以て復る(かえる)を観る。夫の(かの)物の芸芸(うんうん)たる、各々其の根(こん)に復帰す。根に帰るを静と曰う、是を命に復すと謂う。命に復するを常と曰う。常を知るを明と曰う。常を知らざれば、妄作して凶なり。常を知れば容なり。容なるは乃ち(すなわち)公なり、公なるは乃ち王なり、王なるは乃ち天なり、天なるは乃ち道なり。道なるは乃ち久しく、身を没するまで殆うからず(あやうからず)。

[口語訳]空虚(無為)を最大限できるところまで実践して、静寂をただひたすらに守る。そうすれば、万物の生命力はますます活気づき、私はそれら万物が最終的にどこへ帰っていくのかを観ようとする。全ての生命(万物)はどれだけ盛んに繁殖して栄えても、最後には自分が生まれ出た根本へと帰っていく。(生命の起源である)根本に帰っていくことを静寂といい、これを不可避の運命に従うという。不可避の運命に従うことは「常(絶えずそうあること=常態)」と言われる。常態を知ることは、明敏(明晰)と言われる。「常」を知らなければ、現実を見失う軽挙妄動に陥って不幸になってしまう。「常」を知っていれば全てを包み込む「容(容器)」となることができる。「容」であることは客観中立的な「公」であり、「公」であることは天下を統率する「王」であることだ。「王」であることは天命を下す「天」であることであり、「天」であることは天下万物の根源(根本)としての「道」であるということである。「道」は永久不変であり、その道を持つ人も永遠不滅となる。その為、『道』を保持する人は、身体の生命が終わる時まで一切の危険がないということになる。

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