『老子 上篇』の書き下し文と現代語訳:2

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古代中国の春秋時代の思想家である老子(B.C.5世紀頃)の唱えた『道(タオ)』の思想は、戦国時代の荘子(B.C.369-286)の無為の思想と並んで老荘思想と言われます。楚国に生まれた老子は、姓を李、名を耳、字をタンと言いますが、公的な歴史史料(文献記録)からはその実在が立証されておらず、人物像も非常に不明確なものとなっています。しかし、老荘思想や神仙思想(不老不死の仙人と脱俗的な生活を目指す思想)の影響を強く受けて生まれた道教は、儒教・仏教と並んで中国の民族性・歴史性や世界観に大きな影響を与えてきました。中国三大思想(中国三大宗教)とは、儒教・仏教・道教(儒仏道)のことを指しています。道家の老荘思想は中国大陸の土着宗教・風俗である『道教』の根本思想となりましたが、老子・荘子は脱俗的な倫理規範と世界の普遍的原理である『道』を説いたのであって、直接的に宗教・風俗としての『道教』を創設したわけではありませんでした。

人為的な営みを排して無為自然の境地に遊ぼうとする『道教』は、世俗(君子の道)における立身出世を目指す『儒教』と対極を為していますが、近代以前の中国民族の基本原理はこの相矛盾する『儒教(陽)』と『道教(陰)』から成り立っていました。儒教では人間世界の社会秩序(権力機構)を規定する究極の原理として『天』を仮定しましたが、道教ではこの世界のありとあらゆるものを生み出す根本原理として悠久無辺の『道(タオ)』を考えました。道教では、世俗的な欲望や物質的な価値を否定的に見て、人為的な計らいを何もせずに、ただ自然のままに生きる『無為自然』を重視します。老子や荘子は、世俗的な問題(地位・財産・権力・名誉・性欲)とできるだけ関わらずに『無為自然』を実践することが、人間の理想的な生き方(倫理)につながると考えました。

この世俗的な欲望(煩悩)を否定して無為自然を勧める老荘思想は、釈迦の仏教でいう『諸行無常・涅槃寂静』にも共通する部分があり、古代中国では『老荘の無為』と『仏教の涅槃』は同一のものと解釈される傾向がありました。無為も涅槃(ねはん)も、『衆生の欲望・煩悩の炎』をふっと吹き消した状態であり、絶対的な安楽と静謐の状態であると考えられていました。道教と仏教の基本教義が似ているので、中国大陸では一時期、老子こそが釈迦そのものであるという『老子化胡説(ろうしかこせつ)』が言われたりもしました。

老子は周王室の書庫の記録官だったとされますが東周の衰退を見て立ち去り、関所の役人の尹喜の依頼を受けて『老子(上下巻5000余字)』を書き残したと言われています。『老子』は、上下巻の最初の一字である『道』と『徳』から『老子道徳経』と呼ばれることもあります。ここでは、『老子』の書き下し文を掲載して、簡単な解説(口語訳)を付け加えていきます。

[書き下し文]17.大上(たいじょう)は下(しも)之が有るを知るのみ。其の次は親しんで而うして(しこうして)之を誉む。其の次は之を畏る。其の次は之を侮る。信なること足らざれば、信ぜられざること有り。悠兮(ゆうけい)として其れ言を貴くすれば、功は成り事は遂げて、百姓皆我を自然なりと謂わん。

[口語訳]最上の主君である天子については、臣下はただそういった人物が居ることを知っているだけである。その次の主君であれば、親近感を感じてこれを誉める。その次の主君には畏敬を感じて近づきがたい。その次になると、軽侮するだけである。人民の信頼が低いのは、君主が信じられなくなるような嘘をついたからである。自分の発言にはあまり関心がない振りをして、君主が自分の言葉の価値を高めれば、功業は成功し事業をやり遂げることができる。人民はみんな、『自然に君主を信用するようになった』と言うだろう。

[書き下し文]18.大道廃れて仁義有り。慧智(けいち)出でて大偽有り。六親(りくしん)和せずして孝子(こうし)有り、国家昏乱(こんらん)して忠臣有り。

[口語訳]大いなる道が廃れた時に、仁愛と正義の徳が生まれた。さかしらな智慧と知識が生まれて大いなる偽りが生まれた。六つの近親者の仲が悪くなった時に、親孝行な子が出てきて、国家が混乱して秩序が失われた時に忠義な家臣が現れるものだ。

[書き下し文]19.聖を絶ち智を棄てよ、民の利は百倍せん。仁を絶ち義を棄てよ、民は孝慈(こうじ)に復らん(かえらん)巧を絶ち利を棄てよ、盗賊有ること無からん。此の三つの者は、以て文とするに足らずと為さん、故に属する所有らしめよ。素を見せ樸(はく)を抱かしむれば、私を少なくし欲を寡なく(すくなく)せん。

[口語訳]叡慮を断ち切って知識を捨て去れ。そうすれば、人民の利益は百倍になるだろう。仁愛の徳を断ち切って正義(道義)を捨て去ってしまえ。そうすれば、人民は孝行と慈愛の道に立ち返るだろう。技術を無くして利益を捨てよ。そうすれば、盗賊がいなくなるだろう。(簡素な生活を送るための)この三つの課題をやり終えて、人民が生活に装飾(余剰)が足りないと思うならば、人民に(生活を豊かにするための)付属品を与えればよい。素絹(しろぎぬ=加工されていない絹の素材)をまとわせて樸(アラ木=加工されていない原木)を手に持たせれば、私心(利己的欲望)が少なくなり欲求も小さくなるだろう。

[書き下し文]20.学を絶たば憂い無からん。唯(い)と阿(あ)と相去ること幾何(いくばく)か。善と悪と、相去ること何若(いかん)。『人の畏るる所は、畏れざる可からず』と。荒兮(こうけい)として其れ未だ央(おう)ならざらん哉(かな)。衆人は煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享くる(うくる)が如く、春台に登れるが如し。我独り泊兮(はくけい)として其れ未だ兆せざること、嬰児の未だ孩(がい)せざるが如し。累々兮(るいるいけい)として帰する所無きが若し。衆人皆余り有り、而うして我は独り遺える(うしなえる)が若し。我は愚人の心なる哉。沌沌兮(とんとんけい)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たり。我は独り昏(こん)なるが若し。俗人は察察(さつさつ)たり。我は独り悶々たり。澹兮(たんけい)として其れ海の若く、リュウ兮として止まる無きが若し。衆人皆以うる(もちうる)有り、而うして我は独り頑として鄙(ひ)なるに似たり。我は独り人に異にして、而うして母に食わせられることを貴ぶ。

[口語訳]学問を捨てれば、思い悩むことは無くなるだろう。『はい』と『ああ』との間の違いがどれほどあるというのだろうか?(いや、大した違いなどない)善と悪との間にどれほどの違いがあるというのだろうか?(いや、大した違いなどない)『他人が畏れていることは、私も畏れなければならない』というが、それは全く真理とは異なることであり、そんなことを言っていたらいつまでも本質(中央)へと辿り着くことなど出来ない。大多数の人々は、嬉々として楽しそうな表情を見せ、祭祀の犠牲となった動物の肉を食べ、春のうららかな日に眺めの良い高台に登っているようだ。私は一人で身動きもせずに、(笑って遊ぶような)何の予兆も見せていない、まるで生まれたばかりの赤子のようである。ふわふわと定まるところがなく、帰属する場所がないような状態なのだ。

大多数の人々は、有り余るほどのモノを持っているが、私は一人、全てのモノを失ってしまったかのようだ。私の心は、愚かな人の心なのである。私は全く鋭敏なところがなく、鈍重で怠けた感じがいつもある。俗世の人々は、賢明であり生き生きと輝いている。私は一人、愚鈍で無知(暗愚)なのである。俗世の人々は、周囲の状況がよく見えていて行動が活発である。私は一人、気分が晴れず悶々としている。動揺している様子は大海のようであり、激しい疾風に吹き飛ばされて同じ所にとどまることが出来ないようだ。大多数の人は、何か社会にとって有用なところがあるのに、私は一人、何の取り得もない頑迷な田舎者のようだ。しかし、私には大多数の人々と異なっているところがあり、それは、『母なる道』に養われていることを素晴らしいことだと思っていることだ。

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[書き下し文]21.孔なる徳の容(よう)ある、惟(ただ)道に是れ従う。道の物為る、惟恍(これこう)惟惚(これこつ)たり。惚たり恍たり、其の中(うち)に象(しょう)有り。恍たり惚たり、其の中に物有り、窈(よう)たり冥(めい)たり、其の中に精有り。其の精は甚だ真なり、其の中に信有り。古より今に及ぶまで、其の名は去らずして、以て衆甫(しゅうほ)を閲ぐ(すぐ)。吾何を以て衆甫の然るを知るや、此れを以てなり。

[口語訳]大いなる徳を持つ人間の挙措振る舞いは、ただ『道』に従っている。『道』というものはぼんやりとしていて、はっきりと認識することが出来ない。ぼんやりと曖昧な『道』は、その中に象(かたち)を持っている。ぼんやりとして明確でないが、その中に物体(実体)がある。『道』は影になっていて暗くなっているが、その中に精気(エネルギー)がある。その精気はとても純粋な本物のエネルギー(力)であり、その中に確かな信(しるし)がある。古代から現在に至るまで、『道』というその名は去ることがなく、『道』はこの俗世に生を受けたあらゆる祖先の父の前を通り過ぎていった。私はどのようにして先祖の父たちの生成消滅の摂理を知ったのか?それは、『道』に対する直観によってである。

[書き下し文]22.『曲なれば則ち全し』。枉ぐれば(まぐれば)則ち直(ちょく)にす。窪かなれば則ち盈つ(みつ)。敝るれば(やぶるれば)則ち新たなり。少なければ則ち得て、多ければ則ち惑う。是(ここ)を以て聖人は、一を抱いて天下の式(のり)と為る。自ら見さず(あらわさず)、故に明なり。自ら是とせず、故に彰わる(あらわる)。自ら伐めず(ほめず)、故に功有り。自ら矜らず(ほこらず)、故に長し。夫れ(それ)惟争わず、故に天下能く之と争うこと莫し(なし)。古(いにしえ)の所謂(いわゆる)『曲なれば則ち全し』とは豈に虚言ならんや、誠に全うして之を帰す。

[口語訳]『ねじ曲げられたもの(一見して低い価値しか持たないように見えるもの)が、完全なものとなる』。ねじ曲げればまっすぐになる。くぼみがあれば、中身が満ち溢れる。衣服が破れれば、新しいものに代えられる。少ししか持たない人はより多くのものを得ることができ、多く持っている人は思い悩むことになる。その為、聖人は始めの『一(基本)』をしっかりと把握して、天下の理想的な規範となるのだ。聖人は自分を見せびらかして表に出さないから、よりはっきりと見られることになる。聖人は自分を正しいと主張しないから、よりその存在がはっきりと正しく見えてくる。自画自賛しないから、大きな功績を上げることができる。自ら自慢して誇らないから、聖人の威光は長く保持されることになる。聖人は争うことをしないので、天下で誰も彼と争うことの出来るものはいない。それらのことから考えると、古代の人が言う『ねじ曲げられたもの(一見して低い価値しか持たないように見えるもの)が、完全なものとなる』というのは嘘ではないだろう、本当に、ねじ曲げられたもののほうが、完全なものとなって存在し続けられるのである。

[書き下し文]23.希に言うは自然なり。故に瓢風も朝(あした)を終えず、驟雨(しゅうう)も日を終えず。孰か(たれか)此れを為す者ぞ、天地なり。天地すら尚久しきこと能わず、而る(しかる)を況や(いわんや)人に於いてをや。故(まこと)に道に従事する者は、道に同じ。徳に従事する者は、徳に同じ。失に従事する者は、失に同じ。道に同じき者は、道も亦(また)之を得るを楽しみ、徳に同じき者は、徳も亦之を得るを楽しみ、失に同じき者は、失も亦之を得るを楽しむ。信なること足らざれば、信ぜられざること有り。

[口語訳]言葉を希にしか話さないことが、自然なのである。その為(言葉を多く話し過ぎることが異常であるように)、暴風が朝の間中ずっと吹き続けることはなく、激しい雨が一日中降り続くこともない。誰が風や雨を起こしているのか?それは天地である。天地すら風や雨を長い期間にわたって起こし続けることが出来ないのだから、人間が長い時間、言葉を話し続けられないのは当然である。真に『道』に従っている人間は、その行動の結果が道と同じになる。『徳』に従っている人間は、その行動の結果が徳と同じになる。『欠点』に従っている人間は、その行動の結果が『欠点』と同じになる。自分を『道』に近づけようとする人間を、『道』は喜んで受け容れる。自分を『徳』に近づけようとする人間を、『徳』は喜んで受け容れる。自分を『欠点』に近づけようとする人間を、『欠点』は喜んで受け容れる。人々から信頼されることが足りないのは、自分が約束を守らないからである。

[書き下し文]24.企てる者は立たず、跨ぐ者は行かず。自ら見る者は明らかならず、自ら是とする者は彰れず(あらわれず)。自ら伐むる者は、功無く、自ら矜る者は長からず。其の道に在っては、余食贅行(よしょくぜいこう)と曰う。物或(あるい)は之を悪む(にくむ)。故に道有る者は処らず(おらず)。

[口語訳]つまさき立ちをする者は、立ち続けることが出来ない。大股で歩くものは、歩き続けることが出来ない。自分の功績や能力を見せびらかす者は、物事がはっきりと見えなくなる。自分から自分のことを正しいと主張する者は、その正しさが他人に際立って見えることがない。自分で自画自賛する人は、大きな功績を上げられない。自分を自慢して誇示する人は、仕事や活動が長続きしない。それらの事柄を『道』では、『余計な食事』や『贅沢な装飾』と言っている。自然の万物はそれら(余食贅行)を嫌っていて排除しようとするので、『道』を実践している者は余剰や贅沢がある場所にとどまろうとはしないのである。

[書き下し文]25.物有り混成し、天地に先だって生ず。寂兮(せきけい)たり寥兮(りょうけい)たり、独り立って改わらず(かわらず)、周行(しゅうこう)して而も(しかも)殆うからず(あやうからず)、以て天下の母為る可し。吾其の名を知らず。之に字(あざな)して道と曰う(いう)。強いて之が名を為して大と曰う。大を逝(せい)と曰い、逝を遠(えん)と曰い、遠を反と曰う。故に道は大なり、天は大なり、地は大なり、王も亦大なり。域中(いきちゅう)に四つの大有り、而うして王は其の一に居る。人は地に法り(のっとり)、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。

[口語訳]原始の形なき物があってそれが混じり合い、天地よりも先に誕生した。原始の形なき物は、音もなく静かであり、周囲には何もなく空虚である。それはただ独りで立っていて不変のものであり、あらゆる場所を回ってまったく疲れることがない。それは、正に『天下の母』とでもいうべきものである。私はその真の名前を知らない。これに仮の名前として『道』という字をつけている。真の名を強いてつけるとすれば、『大』と言えるだろう。『大』とは『逝(行ってしまうこと)』であり、『逝』とは『遠(遠ざかっていくこと)』であり、『遠』とは『反(再び帰ってくること)』である。その為、道は大であり、天は大であり、地は大であり、また、王も大なのである。世界には4つの大きさがあるが、国を統治する王はその一つである。人は地に依拠しており、地は天に依拠しており、天は道に依拠している。そして、『道』は『自然』に依拠しながら、再び世俗から自然へと戻っていくのである。

[書き下し文]26.重きは軽きの根為り(たり)、静かなるは躁(そう)の君(きみ)為り。是を以て君子は、終日行きて輜重(しちょう)を離れず。栄観有りと雖も、燕処(えんしょ)して超然たり。奈何(いかん)ぞ万乗(ばんじょう)の主にして、而も身を以て天下を軽んじる。軽ければ則ち本を失い、躁なれば則ち君を失う。

[口語訳]重いものは軽いものの根本であり、静かなるものは騒がしきことの大本である。有徳の高貴な君子は、一日中旅をしても荷馬車から離れることはない。素晴らしい壮大な景色があっても、君子は安らかに心を落ち着かせていて超然としている。一万の戦車を持つ国の君主でありながら、どうして自分の身を天下の人民より軽々しく扱うのだろうか?軽々しく振る舞えば物事の根本が失われ、騒がしく振る舞えば物事の大本が失われてしまうのである。

[書き下し文]27.善く行くものは轍迹(てつせき)無し。善く言うものは瑕タク(かたく)無し。善く数うるものは籌策(ちゅうさく)無し。善く閉ずるものは関ケン(かんけん)無くして、而も開く可からず。善く結ぶものは縄約(じょうやく)無くして、而も解く可からず。是を以て聖人は、常に善く人を救う、故に人を棄つること無し。常に善く物を救う、故に物を棄つること無し。是を明を襲うと謂う。故に善人は不善の人の師なり、不善の人は善人の資なり。其の師を貴ばず、其の資を愛せざれば、智ありと雖も大いに迷う。是を要妙(ようみょう)と謂う。

[口語訳]優れた旅人は車のわだち(轍)や足跡を残さないものだ。優れた論者(弁論家)は、全く(論戦における)論理的な瑕(ミス)を残さない。優れた算術家は、数を数える棒を用いないものだ。門を閉じるのに優れた番人は、閂(かんぬき)を必要とせずにきっちりと閉めるが、それを再び開くことが出来ない。モノを結ぶのに優れた人は、縄や紐を用いずに結びつけることが出来るが、それを再びほどくことが出来ない。その為、聖人はいつも人民を上手く救うことが出来るし、人民を見捨てることなどはない。聖人はいつも物を巧みに救うことが出来るし、物を見捨てることなどはない。これは、聖人が賢明な判断を続けているということである。それ故、善人は善人でない人の師であり、善人でない人は善人の資源(手段)である。その師を尊敬しなかったり、その資源を愛せない者は、幾ら智慧があっても大いに迷うことになる。これが、非常に重要な奥義である。

[書き下し文]28.其の雄を知りて其の雌(し)を守れば、天下の谿(けい)と為る。天下の谿と為れば、常の徳は離れず、嬰児に復帰す。其の白きを知りて其の黒きを守れば、天下の式(のり)と為る。天下の式(のり)と為れば、常の徳はタガわず、無極に復帰す。其の栄を知りて其の辱を守れば、天下の谷と為る。天下の谷と為れば、常の徳は乃ち足り、樸(はく)に復帰す。樸は散ずれば則ち器と為る。聖人之を用うるときは、則ち官の長と為す。故(まこと)に『大なる制は割なわず(そこなわず)』。

[口語訳]雄(ユウ=能動性)の力を知って、雌(シ=受動性)の弱さを忘れないものは、天下の谷間となる。天下の谷間となれば、普遍的(不変的)な徳は離れることがなく、産まれたばかりの嬰児へと帰れるだろう(不老不死を約束する再生へと復帰するだろう)。白の明るさを知って、黒の暗さを忘れないものは、天下の模範となる。天下の模範であれば、普遍的な徳は間違いを犯すことがなく、『無極(限界のないもの)』へと帰れるだろう。栄誉の誇らしさを知って、汚辱の恥ずかしさを忘れないものは、天下の谷川(大河)となる。天下の大河であれば、普遍的な徳は満ち溢れて、削られる前の樸(アラ木=原木)へと帰れるだろう。『樸(原木)』がバラバラに打ち砕かれると、それは色々な『器』となる。聖人は器を用いて、官吏の長とするのである。真に『祭祀を司る偉大な職人(犠牲の動物を切り捌く人)は、必要な肉を無駄にすることがないのだ(傷つけることがないのだ)』。

[書き下し文]29.将に天下を取らんと欲して之を為すは、吾(われ)其の巳む(やむ)を得ざるを見る。天下は神器(しんき)なり。為す可からざるなり。為す者は之を敗り(やぶり)、執(しゅう)する者は之を失う。夫れ(それ)物(もの)或(あるい)は行き或は随う。或は虚し或は吹く。或は強く或は羸し(よわし)。或は載せ或はコボつ。是を以て聖人は、甚だしきを去り奢(しゃ)を去り泰(たい)を去る。

[口語訳]中国の天下を掌握してその偉業を成し遂げようとする者は、全く休む暇もないほどに働きづめに働いているのを私は見ている。天下は神聖不可侵な器である。天下は意図的にどうにかしようとしても、どうにもならないものである。何とか動かそうとする者は、天下に損害を与えて、天下に強く執着するものは返ってそれを失うこととなる。万物の中であるものは先に進み、あるものはその後に従っていくものである。あるものは静かに穏やかに息を吹き、あるものは激しく力強く呼吸をする。あるものは強大無比であり、あるものは脆弱でひ弱である。あるものは荷物を載せて、あるものは荷物を取りこぼしてしまう。そこで、(中庸の徳を保持する)聖人は過剰なやり過ぎを避け、贅沢をやめて傲慢不遜な態度を取らないのである。

[書き下し文]30.道を以て人主を佐くる(たすくる)者は、兵を以て天下に強くせず。其の事還るを好む。師の処りし(おりし)所には、荊棘(けいきょく)を生ず。大軍の後には、必ず凶年有り。善なる者は果たして而うして巳む(やむ)。敢えて以て強きを取らず。果たして而も矜る(ほこる)こと勿れ(なかれ)。果たして而も伐むる(ほむる)こと勿れ。果たして而も驕ること勿れ。果たして而も已むことを得ざれ。果たして而も強きこと勿れ。物(もの)壮(さかん)なれば則ち老いる。是を不道と謂う。不道は早く已む。

[口語訳]『道』を用いて君主を助ける人は、武力を増強して天下を支配しようとはしない。武力を用いた政略が、自分の国にはねかえってくることを知っているからだ。軍隊が駐屯した場所には、イバラやトゲの木が生える(非生産的な不毛の土地になる)。大きな戦闘の後には、凶作の年がやってきやすい。優れた軍人は、軍事の目的を達成すればそこで速やかに戦闘をやめる。敢えて、戦闘の成果をそれ以上に拡大しようとはしないのだ。大きな目的を達成しても、そのことを自慢してはいけない。大きな目的を達成しても、自画自賛で慢心に陥ってはいけない。大きな目的を遂げても傲慢(尊大)に構えてはいけない。大きな目標に到達したとしても、それは当然やるべきことをしたまでだと思うのが良い。目的を達成しても、攻撃的になってはいけない。この世界の万物は、勢威や活力があればあるほどに、早く衰退して老いていってしまう。これは『不道(世界の根本原理に反する方法)』である。不道であれば、(その生命や絶頂期は)すぐに終わってしまうのだ。

[書き下し文]31.夫れ(それ)佳き(よき)兵は、不祥の器なり。物或は之を悪む(にくむ)。故に道有る者は処らず(おらず)。君子居れば則ち左を貴ぶ。兵を用うれば則ち右を貴ぶ。兵は不祥の器にして、君子の器に非ず。已むことを得ずして而うして之を用うれば、恬淡(てんたん)なるを上と為す。勝って而も美とせず。之を美とする者は、是れ人を殺すことを楽しむなり。夫れ人を殺すことを楽しむ者は、即ち以て志を天下に得(う)可からず。吉事には左を尚び(たっとび)、凶事には右を尚ぶ。偏将軍は左に居り、上将軍は右に居る。言うこころは喪礼(そうれい)を以て之に処るなり。人を殺すこと衆(しゅう)なれば、哀悲を以て之に泣く。戦い勝てるには喪礼を以て之に処らしむるなり。

[口語訳]優れた武器は、不吉な道具である。万物には兵器を嫌うものがある。その為、『道』を実践する人は軍事に専従しない。君子は左を上席とするが、戦争では右を上席とするようになる。武器は不吉な道具なので、高貴で有徳の君子が用いる道具ではない。やむを得ずに用いる時には、無欲な心境で戦闘にこだわらないというのが良いだろう。勝利を得たとしても、それは美しい名誉ではない。戦争の勝利を名誉とするものは、殺人を楽しんでいるということになる。(戦争を権力獲得の目的で利用して)殺人を楽しむような者は、天下で大志を実現することなど出来ない。慶賀の楽しい行事の時には『左』を上席とし、不吉な息苦しい行事の時には『右』を上席とする。副将は左に布陣して、大将は右に布陣する。それは葬式の礼法に従ったものである。殺した人間の数が多ければ、哀悼の念を捧げて泣き明かすべきだ。戦争で勝利した者は、葬式の礼法と精神に従って悲しみ慟哭すべきなのである。

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[書き下し文]32.道は常にして名無し。樸は小なりと雖も、天下能く臣とするもの莫し。侯王(こうおう)若し(もし)能く之を守らば、万物将に自ら賓(ひん)せんとす。天地相和して、以て甘露を降す(くだす)。民(たみ)之に令すること莫くして而も自ら(おのずから)均し(ひとし)。始めて制して名有り。名も亦既に有り。夫れ(それ)亦将に止まる(とどまる)ことを知らんとす。止まることを知るは殆うからざる所以なり。譬えば(たとえば)道の天下に在ること、猶(なお)川谷(せんこく)の江海に於けるがごとし。

[口語訳]『道』は不変であって名がない。まだ人為的に削られていない自然な『樸(アラ木=原木)』は小さく見えても、天下に『樸』のような素朴なものを臣下にできるものはいない。王や諸侯がもし『樸』を守るのであれば、万物は自分のほうから敬意を表して客となるだろう。天と地はお互いに合一して、甘露の甘い雨を降らせるだろう。人民に王侯が命令を下さなくても、自然と争いがなくなるだろう。樸を削り始めると、名前が出来てくる。名前が既に出来てくると、そこにとどまらなければならなくなってくる(名前に見合った役割や意味が生まれてくる)。とどまるべき場所や時を知れば、危険を回避することが出来る。天下における『道』のあり方を譬えを用いて言うならば、小さな川や谷川が、より大きな大河や大海へと流れ込んでいくようなものである。

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