『徒然草』の6段~8段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の6段~8段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

6段.わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん。前中書王(さきのちゅうしょおう)・九条太政大臣・花園左大臣、みな、族(ぞう)絶えん事を願ひ給へり。

染殿大臣(そめどののおとど)も、『子孫おはせぬぞよく侍る(はんべる)。末のおくれ給へるは、わろき事なり』とぞ、世継(よつぎ)の翁(おきな)の物語には言へる。聖徳太子の、御墓(みはか)をかねて築かせ給ひける時も、『ここを切れ。かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり』と侍りけるとかや。

[現代語訳]

自分が高貴な身分でなくても、取るに足りない場合にも、子供というものはいないほうが良い。前の中書王(中務卿・兼明親王)も、九条の太政大臣(藤原信長)も、花園の左大臣(源有仁)も、みんな自分の血筋(血族)が絶えることを願っておられた。

『大鏡』では、染殿の大臣(藤原良房)も『子孫などいないほうが良い。ろくでなしの子ができるのは悪いことである』と語っていたそうだ。聖徳太子も自分の墓を築かせる時に『あれもいらない。これもいらない。自分は子孫を残すつもりなどはない』とおっしゃっていたと伝えられている。

[古文]

7段:あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙(けぶり)立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。

命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過す(すぐす)とも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を持ち得て、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも、四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽(ひ)に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

[現代語訳]

あだし野の墓地の露が消えないように人間が生き続け、鳥部屋の煙が消えないように人間の生命が終わらないのであれば、この世の面白み・興趣もきっと無くなってしまうだろう。人生(生命)は定まっていないから良いのである。

命あるものの中で、人間ほど長生きするものはない。蜻蛉(かげろう)のように一日で死ぬものもあれば、夏の蝉のように春も秋も知らずにその生命を終えてしまうものもある。その儚さと比べたら、人生はその内のたった一年でも、この上なく長いもののように思う。その人生に満足せずに、いつまでも生きていたいと思うなら、たとえ千年生きても、一夜の夢のように短いと思うだろう。永遠に生きられない定めの世界で、醜い老人になるまで長く生きて、一体何をしようというのか。漢籍の『荘子』では『命長ければ辱多し』とも言っている。長くても、せいぜい四十前に死ぬのが見苦しくなくて良いのである。

四十以上まで生きるようなことがあれば、人は外見を恥じる気持ちも無くなり、人前に哀れな姿を出して世に交わろうとするだろう。死期が近づくと、子孫のことを気に掛けることが多くなり、子孫の栄える将来まで長生きしたくなってくる。この世の安逸を貪る気持ちばかりが強くなり、風流さ・趣深さも分からなくなってしまう。情けないことだ。

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[古文]

8段:世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。

匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外(ほか)の色ならねば、さもあらんかし。

[現代語訳]

人の心を迷わすもので、色欲(性欲)に勝るものはない。人の心とは愚かなものであるな。

女の匂いなどはそれは本人の匂いではなく、服に付けた仮り初めのもの(焚きしめた香料の匂い)だと分かっていながら、いい匂いのする女に出会うと、男は必ず胸がときめくものである。久米の仙人が、洗濯女の白いふくらはぎを見て神通力を失ったという逸話があるが、本当にそういうことがあってもおかしくはない。女の手足・素肌のふっくらした肉付きの良さや華やかな美しさというのは、(仮り初めの香料などではなく)身体そのものの美しさ・魅力なのだから抵抗しがたい。

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