13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。
兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『大衆先座主をば、東塔の南谷妙光坊に~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。
参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)
[古文・原文]
一行阿闍梨の事
大衆(だいしゅ)先座主(せんざす)をば、東塔の南谷妙光坊に入れ奉る。時の横災(おうさい)をば、権化の人も免れ給はざりけるにや。昔唐(もろこし)の一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)は、玄宗皇帝の護持僧にておはしけるが、玄宗の后楊貴妃に名を立ち給へり。昔も今も、大国も小国も、人の口のさがなさは、跡形もなき事なりしかども、その疑によつて、果羅国(からこく)へ流されさせ給ふ。
くだんの国へは三つの道あり。輪地道(りんちどう)とて御幸道(ごこうみち)、幽地道(ゆうちどう)とて雑人(ぞうにん)の通ふ道、暗穴道(あんけつどう)とて重科の者を遣はす道なり。されば、かの一行阿闍梨は大犯(たいぼん)の人なればとて、暗穴道へぞ遣されける(つかわされける)。七日七夜が間、月日の光も見えずして行く所なり。
冥々(みょうみょう)として人もなく、江浦(こうほ)に前途迷ひ、森々として山深し、ただかん谷(かんこく)に鳥の一声ばかりにて、苔の濡衣ほしあへず。無実の罪によつて、遠流の重科を蒙り給ふ事を、天道憐れみ給ひて、九曜(きゅうよう)の形を現(げん)じつつ、一行阿闍梨を守り給ふ。時に一行右の指を食ひ切り、左の袂に九曜の形を写されけり。和漢両朝に、真言の本尊たる九曜の曼陀羅(まんだら)これなり。
[現代語訳・意訳]
一行阿闍梨の事
衆徒は、明雲を東塔の南谷にある妙光房に迎え入れました。想定外の災難というものは、菩薩が権化したような高僧であっても免れないのでしょうか。昔、唐の国(中国)の一行阿闍梨は、玄宗皇帝のために加持祈祷をする護持僧でしたが、玄宗皇帝の后である楊貴妃と関係を持っている男として名前が挙げられてしまいました。
昔も今も、また大国も小国も、人の口(噂話)というものはどうすることもできませんが、その疑いのために一行阿闍梨は、果羅国へと流罪にされたのでした。
中央アジアにあったとされる果羅国へ行く三つの道がありました。一つは輪地道(りんちどう)と言って、皇帝が行幸するときの良い道です。幽地道(ゆうちどう)と言って、庶民が通るための普通の道もあります。もう一つは暗穴道(あんけつどう)と言って、重大な犯罪を犯した者が通るための悪い道です。あの一行阿闍梨は大罪を犯した人になっていたので、暗穴道を通らされることになりました。七日七夜の間、月日の光を見ることもないほど真っ暗な道です。
歩いている人は他に誰もおらず、水場の近くで道に迷い、木々が鬱蒼としていて山は深い、ただ谷で鳥の声がするばかりで、粗末な衣服は濡れてしまって、乾かすこともできません。今、無実の罪によって流刑の重罰に処されていることを、天道様が憐れに思われて、光る星を一行阿闍梨の周りに、九耀の形で浮かべて守られました。一行阿闍梨は自分の右の指を食いちぎって、その血で左の僧衣の袂に九耀の形を描きました。これが和漢両朝(日本と中国の王朝)に伝えられている真言宗の本尊である九曜の曼陀羅になったのです。
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