清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。
『枕草子』は池田亀鑑(いけだきかん)の書いた『全講枕草子(1957年)』の解説書では、多種多様な物事の定義について記した“ものづくし”の『類聚章段(るいじゅうしょうだん)』、四季の自然や日常生活の事柄を観察して感想を記した『随想章段』、中宮定子と関係する宮廷社会の出来事を思い出して書いた『回想章段(日記章段)』の3つの部分に大きく分けられています。紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。
参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)
[古文・原文]
32段(続き)
まだ講師ものぼらぬほど、懸盤(かけばん)して、何にかあらむ、物まゐるなるべし。義懐(よしちか)の中納言の御様、常よりも勝りておはするぞ、限りなきや。色合ひの花々といみじう匂あざやかなるに、いづれともなき中の帷子を、これはまことにすべてただ直衣一つを着たるやうにて、常に車どもの方を見おこせつつ、物など言ひかけ給ふ、をかしと見ぬ人はなかりけむ。
後にきたる車の隙(ひま)もなかりければ、池に引き寄せて立ちたるを見給ひて、実方の君に、(義懐)「消息をつきづきしう言ひつべからむ者一人」と召せば、いかなる人にかあらむ、選りて(えりて)率て(ゐて)おはしたり。「いかが言ひ遣るべき」と、近う居給ふ限り、のたまひ合はせて、やり給ふ言葉は聞えず。いみじう用意して車のもとへ歩み寄るを、かつは笑ひ給ふ。後の方に寄りて言ふめる。久しう立てれば、「歌など詠むにやあらん。兵衛の佐、返し思ひまうけよ」など笑ひて、いつしか返事聞かむと、ある限り、大人上達部まで皆そなたざまに見やり給へり。げにぞ、顕証(けしょう)の人まで見やりしもをかしかりし。
返事(かへりごと)聞きたるにや、すこし歩み来るほどに、扇をさし出でて呼びかへせば、歌などの文字言ひ過りてばかりや、かうは呼びかへさむ、久しかりつるほど、おのづからあるべきことは、直すべくもあらじものを、とぞ覚えたる。近う参りつくも心もとなく、「いかにいかに」と誰も誰も問ひ給ふ。ふとも言はず、権中納言ぞのたまひつれば、そこに参り、けしきばみ申す。
三位の中将、「疾く言へ。あまり有心(うしん)すぎてしそこなふな」とのたまふに、(使)「これも唯同じ事になむ侍る」と言ふは聞ゆ。藤大納言は、人よりけにさしのぞきて、「いかが言ひたるぞ」と、のたまふめれば、三位の中将、「いと直き木をなむ押し折りためる」と聞え給ふに、うち笑ひ給へば、皆何となくさと笑ふ声、聞えやすらむ。
中納言、「さて、呼びかへさざりつるさきは、いかが言ひつる。これや直したる定(じょう)」と問ひ給へば、(使)「久しう立ちて侍りつれど、ともかくも侍らざりつれば、『さは、帰り参りなむ』とて、帰り侍りつるに、呼びて」などぞ申す。
(義懐)「誰が車ならむ、見知りたまへりや」など、あやしがりたまひて、(義懐)「いざ、歌詠みてこの度はやらむ」などのたまふほどに、講師のぼりぬれば、皆居静まりて、そなたをのみ見る程に、車は、かい消つやうに失せにけり。下簾(したすだれ)など、ただ今日はじめたりと見えて、濃きひとへがさねに、二藍の織物、蘇枋(すおう)の薄物の表着(うはぎ)など、、後(しり)にも摺りたる裳、やがて広げながらうち下げなどして、何人ならむ、何かは、またかたほならむことよりは、げ(実)にと聞えて、なかなかいとよし、とぞ覚ゆる。
[現代語訳]
32段(続き)
まだ講師も高座に上らぬうちに、懸盤を運んできて、何が乗っているのだろうか、皆で何かを召し上がるようだ。義懐(よしちか)の中納言の御様子が、いつもよりご立派に見えることがこの上ない。他の方々も華やかな色合いの帷子を着て、素敵な香りを焚かれているので、どの方が優れているとも言えないが、中納言はただ直衣だけをすっきりと着こなしているような感じで、しきりに庭に立てた女車のほうを見つめながら、何か言おうとしていらっしゃる、そのお姿を素敵と思わない女性はいなかった。
後からやってきた車が、車を置く隙間もないような状態だったので、少し遠い池の側へ引き寄せて立てかけたのを御覧になって、実方様に、「弁舌が立って説明のできるような者を一人ここへ」とおっしゃった。どんな人物かははっきり知らないが、実方様がある一人を選んで連れていらっしゃった。「どんな苦情を言って送ろうか」と、近くに座っておられる方々がみんなで話し合われて、使いを出しているのだが、その苦情の中身までは聞こえてこない。使いの者が十分な用意をしてからその女車に近寄っていくのを御覧になって、おかしいといってお笑いになる。使いは車の後ろに近寄って、口上を伝えるようだ。長くそのまま立っているので、「歌でも詠むつもりなのだろうか。兵衛の佐、今から返歌について考えておけ」などと笑って、早く女車からの返事を聞きたいものだと、その場に居合わせた方々はみんな、老いた上達部まで含めて、女車のほうを見ていた。本当に、何の関わりもない人まで、そちらを見ている様子はおかしかった。
車からの返事を承ったのだろうか、使いの者が少し歩いて帰ってくると、車の中から扇を差し出して使いを呼び返すのだが、歌の言葉を間違えた時くらいしか、ここまで急いで呼び返すことはないだろう。しかし長らく待たされていたのだから、その間に考えた歌を、後からもう直しようもないだろうにと思った。使いが近くまで戻ってくるのも待ちきれない様子で、「どうだった、どんな返事だった」とみんながお聞きになる。使いの者はすぐに答えずに、お命じになった中納言の所へ行って、興奮しながら報告した。
三位の中将が、「早く申せ。あんまり勿体ぶってやり損なうなよ」とおっしゃると、使いの者が、「これもまあ、同じようなものでございます(やり損なったようなものでございます)」と答えるのが聞こえた。藤大納言が他の人よりも熱心に覗き込んで、「向こうは何と言ってきたのだ」とお聞きになるが、三位の中将が、「とてもまっすぐな木を、無理に曲げようとして折ってしまったようなものです」と申し上げると、藤大納言はお笑いになられ、それに釣られてみんながどっと笑ったが、この笑い声は女車の所まで聞こえただろうか。
中納言が、「さて、お前が呼び返される前の返事は、どんな返事だったのか。これは後で直した返事なのか」と質問されると、使いの者は、「長い間、立ったままで返事を待っていたのですが、何の返事もありませんでしたので、『それでは、帰りましょう』と言って帰りかけたところ、呼び返されまして」とお答え申し上げた。
中納言は、「誰の車なのだろうか。誰か知っていますか」などと言って不思議に思われて、「さあ、今度はこちらから歌を詠みかけてみよう」などとおっしゃっていると、講師が高座に上って、みんなが席について静まり返った。高座のほうを見ていると、その車はかき消すように去ってしまっていた。その車は、下簾などが今日下ろしたてのように新しく見えて、濃い紅の単に二藍の織物の唐衣、蘇芳の薄物の上着などが少し車の中から覗いた。車の後ろのほうにも、青摺りの裳を広げて下げたりしていて、いったいどなたが乗っておられたのだろうか。先ほどのそっけない断りの返事にしても、中途半端に気を持たせるような返事よりももっともなものに感じられ、なかなか素晴らしい返事ではないかという風に思われた。
[古文・原文]
32段(終わり)
朝座(あさざ)の講師清範(せいはん)、高座の上も光満ちたる心地して、いみじうぞあるや。暑さのわびしきに添へて、しさしたる事の、今日過ぐすまじきをうち置きて、ただ少し聞きて帰りなむとしつるに、敷並(しきなみ)に集ひたる車なれば、出づべき方もなし。
朝講(あさこう)果てなば、なほいかで出でなむと、前なる車どもに消息すれば、近く立たむがうれしさにや、「早々」と引き出であけて出だすを見給ひて、いとかしかましきまで老上達部さへ笑ひにくむをも聞き入れず、答へ(いらえ)もせで、強ひて狭がり出づれば、権中納言の、「やや、まかりぬるもよし」とて、うち笑み給へるぞめでたき。それも耳にもとまらず、暑きに惑はし出でて、人して、(清少納言)「五千人の中には入らせ給はぬやうもあらじ」と聞えかけて、帰りにき。
そのはじめより、やがて果つる日まで立てたる車のありけるに、人寄り来(く)とも見えず、すべてただあさましう絵などのやうにて過ぐしければ、ありがたくめでたく心にくく、いかなる人ならむ、いかで知らむと、問ひ尋ねけるを聞き給ひて、藤大納言などは、「何か、めでたからむ。いとにくし。ゆゆしきものにこそあなれ」と、のたまひけるこそ、をかしかりしか。
さて、その二十日あまりに、中納言、法師になり給ひにしこそ、あはれなりしか。桜など散りぬるも、なほ世の常なりや。「置くを待つ間の」とだに言ふべくもあらぬ御有様にこそ見え給ひしか。
[現代語訳]
32段(終わり)
朝座の講師清範は、高座の上が光に溢れているような高貴さで、本当に素晴らしい方である。しかし、私は猛暑に耐えられず、やりかけの仕事をそのままにして出てきたので、ほんの少しだけお話を聞いて帰ろうと思っていたのだが、車が折り重なるように集まっているので、出たくても出られない。
それなら朝講が終わってから帰ることにしようと思って、後ろの方の車に場所を交代して欲しいとお願いすると、少しでも前に車を立てられるのが嬉しいのだろう、「さあ、どうぞ」と場所を空けて車を出してくれる。その様子を見た人たちが、老いた上達部まで一緒になって、うるさいほどに騒いで笑ったり非難しているが、それには答えずに無理矢理に狭い所を車で通っていく。そこで権中納言が、「やぁ、退出するのもまた良いではないか」とおっしゃってくれて微笑みかけてくれた心遣いは素晴らしい。その言葉もしっかり聞けないまま、暑い中を混乱しながら外に出て、権中納言に使いを出して、「あなた様もまた、五千人の増上慢の群衆の中にお入りになることもおありになるでしょうから」とお答えして、そのまま帰った。
その八講の初めから終わりの日まで、庭に立てて聴聞している車があったが、人がその車に近づいてくるような様子もなく、あきれるほどに絵に描いてある車のような静かなひっそりした様子で4日間が過ぎたので、珍しくて素晴らしくて立派な信心のある人だと思って、どんな人なのだろうか何とか知りたいと思った。その車に乗っていた人が誰なのか、いろいろな人たちに尋ねて回ったことをお聞きになった藤大納言が、「どうして、素晴らしいことがあるか。とても憎たらしい奴だ。そいつは悪い奴に違いない」とおっしゃったのがおかしかった。
その八講のあった数日後の二十日過ぎに、中納言が出家して法師になられたのは、とても物悲しいことだ。桜などが散ってしまう儚さ・悲しさは、まだ世の常である(だがまさか中納言様があっけなく俗世を捨てて出家されてしまうとは)。「白露が置くのを待つ間だけの、朝顔の一時の美しさなど見ないほうがいい(儚い美しさを見ることはとても悲しくて虚しいことだ)」と昔から言われてはいるが、中納言様の一時の立派で晴れやかなお姿は、そうとばかりは言っていられないほどに素晴らしいものだった。
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