赤福(あかふく)・赤福餅

三重県伊勢市の和菓子屋・赤福(あかふく)が製造しているあんころ餅の和菓子を『赤福餅(あかふくもち)』という。赤福餅はただ『赤福』とだけ呼ばれることも多い。赤福餅は餅を“漉し餡(こしあん)”でくるんだあんころ餅で、その漉し餡には“五十鈴川(いすずがわ)の流れ”を象ったとされる三つの筋が刻まれている。赤福に使われている餅は、非常に柔らかくて崩れやすいので、パッケージに傾けて持ち帰らないように(たいらにして)という注意書きがされている。

赤福は『伊勢参り(伊勢詣で)』のお土産として有名になったが、その起源となる餅屋(店舗)の創業年は、江戸中期の1707年(宝永4年)にまで遡る。その創業年の文献的根拠は、1708年(宝永5年)の市中軒の浮世草子『美景蒔絵松(びけいまきえまつ)』にあり、伊勢古市の女が『(恋仲の男が)赤福とやら青福とやら云ふあたゝかな餅屋に聟に入り自分を見向きもしなくなってしまい、その裏切りがくやしうて泣いております』という自分を裏切った男に対する悲哀・悔しさの言葉を述べている。

実際には、江戸時代の初期から、五十鈴川の畔(ほとり)には『赤福』という屋号の餅屋があったとも伝えられているが、形式上・文献上の創業年は1707年であり、初代の店主は浜田治兵衛(はまだじへえ)とされる。初代から続いている赤福の浜田家は、現在の『株式会社赤福』においても創業家の社長一族として経営権を握っており、現在の代表取締役社長は11代目の浜田典保(はまだのりやす)である。

赤福が創業した初めの頃は、砂糖が貴重品・稀少品で手に入りにくかったため、塩味の辛い餡で餅を包んでいたというが、1727年に8代将軍・徳川吉宗がサトウキビの栽培・流通を奨励したことから、赤福に『黒砂糖餡』が使われることになったという。

1911年(明治44年)に、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が伊勢神宮を参拝したが、その時に伊勢名物の赤福餅の注文が行われた。赤福は灰汁の強い黒砂糖餡では皇后の好みに合わない恐れがあるとして、白砂糖餡で造った特製品の赤福餅を献上した。これが皇后に美味しいと好評であったため、一般の赤福餅を現在と同じ白砂糖餡で造られるようになったという。赤福は昭憲皇太后の注文を受けた5月19日を『ほまれの日』と定めて、包装紙に『ほまれの赤福』と記載していたが、2007年の偽装表示問題を受けて、『ほまれの』の記載は削除されることになった。

『赤福』という名前の由来については諸説あるが、株式会社赤福のウェブサイトや一般的な伝承では、『赤心慶福(せきしんけいふく)』に由来するとされている。赤心というのは『嘘偽りのない真心』のことであり、慶福というのは『喜びと幸せ(他者の幸せを喜ぶことができる)』のことである。

1895年(明治28年)の『神都名勝誌』では、餡を入れた餅を大福と呼ぶことに対して、赤色の餡をつけた餅であることから赤福と呼ぶようになったと命名の理由を推測しているが、1929年(昭和4年)の『宇治山田市史』ではこの推論を正しい命名の理由として採用してその他の伝承を否定している。しかし、赤福自身が『赤色の餡』ではなく『赤心慶福』のほうを赤福の名前の由来としているので、現在では赤心慶福の伝承のほうが正しいものとして扱われていることが多い。赤福の包装と商品名のロゴには『赤色』が採用されているが、赤福の餡自体は『赤色』ではなく普通の小豆餡の色である。

『赤心慶福』という素晴らしい名前の由来を汚してしまう『消費期限・製造日・原材料表示の偽装事件』が2007年10月に発生してしまったが、この事件は売れ残った赤福餅を冷凍保存した上で製造日を偽装して再出荷したり、赤福餅を餡と餅に分解して材料として再利用して製造日を新しくしたりしたというものだった。この偽装事件を受けて、赤福は三重県から無期限の営業禁止処分を受けたが、2008年1月30日に解除されて、2月8日から営業が再開された。

伊勢神宮内宮前のおかげ横丁にある本店の喫茶店風の飲食スペースでは、夏場に抹茶味のかき氷に赤福餅を入れた『赤福氷』が出され、冬場には赤福の餅と餡を使った『赤福ぜんざい』が販売されているが、赤福氷や赤福ぜんざいは本店以外の一部の直営店などで売られることもある。

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