安倍川餅(あべかわもち)

安倍川餅(あべかわもち)は餅を使った和菓子であり、静岡県静岡市の安倍川近くを発祥の地とする銘菓(名物もち)である。搗きたて(つきたて)の餅を小さくちぎって、砂糖入りの黄粉やこしあん(小豆)をまぶした和菓子で、現在では『黄粉をまぶした餅』と『こしあんに絡めた餅』の二種類の餅を一つの皿に盛って提供されることが多い。

徳川家康が安土桃山時代の慶長年間(1596-1615)に静岡市の安倍川上流にあった笹山金山を視察した時、ある男が砂金に見立てた黄粉もちを献上したが家康はこの黄粉もちをいたく気に入ったという。男は黄粉もちの名前を聞かれて、『安倍川の黄粉もち』と答えたが、家康が縁起が良くて美味だと褒めたこの黄粉もちが安倍川もちの起源だと伝承されている。

江戸時代になると、まだ日本では珍しくて高価・貴重だった白砂糖を使った菓子として徳川将軍家でも人気を博すことになり(特に八代将軍・徳川吉宗が好物にしたとの逸話がある)、東海道を歩く旅人が好んで食べる名物もちの一つになったという。十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛』では、安倍川もちが『五文どり(五文採)』という名前で登場しているが、五文どりというのは安倍川餅の別名であった。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、安倍川もちと関連する『ほどなく弥勒と言へるに至る。ここは名にあふあべ川餅の名物にて両側の茶屋いづれも綺麗に花やかなり』という記述が残されている。

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徳川家康が砂金(黄金)に見立てた黄粉もちを気に入ったというエピソードから始まった安倍川もちだが、当初は黄粉だけをまぶしたものでまだ白砂糖は使われていなかったようである。貴重な白砂糖を使った美味しい菓子(もち)になってから急速に人気が高まっていくのだが、それは江戸時代後期の天明年間(1781年~1789年)になってからのことだという。庶民のちょっと贅沢な菓子に白砂糖が使えるようになるにはそれくらいの期間(経済・物流が発展する期間)が必要だったのだろう。

江戸時代初期から安倍川の弥勒院という寺院の付近に、安倍川もちを販売する掛茶屋が立てられるようになり、茶屋娘(茶屋女)が『あがりゃアレ(食べてお行きなさい)』と掛け声をかけるようになっていった。安倍川もちは東海道を旅する人たちや参勤交代で江戸と領国を行き来する大名行列の武士たちにとっても楽しみな菓子だったようである。

現在でも、旧東海道の安倍川橋の東側(葵区弥勒二丁目)で昔ながらの安倍川もちを製造販売している茶店が3軒ほど残っている(お土産用の安倍川もちは駅の売店やデパ地下などでも売られている)というが、黄な粉・小豆あん(餡)をまぶした甘い安倍川餅だけではなく、山葵醤油(わさびじょうゆ)をつけて食べる辛い餅も作られている。

山梨県でもお盆に安倍川もちを仏前にお供えした後に、自分たちが食べる風習が残っているが、山梨県のものは『黄粉+黒蜜』をまぶして食べる甘さを売りにした角餅(四角い形のもち)のお菓子である。静岡県のものは原則的には『黄粉+白砂糖』をまぶして食べるようになっており、安倍川もちの基本的な形は丸餅(丸い形のもち)である。

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