飴(あめ)

飴(あめ)は、デンプンを酵素(麦芽)や酸で分解糖化して作った甘い菓子で、日本では最も古い加工甘味料・菓子の一つである。砂糖やその他の糖類を加熱して熔融させてから冷却・成形して固形状にしたキャンディ(飴玉)が現代の一般的な飴の形である。固まった固形状の飴を『固飴(かたあめ)』、とろりとした粘液状の飴を『水飴(みずあめ)』と呼んで分けている。

奈良時代に中国の唐の僧侶(律宗の僧侶)である鑑真(がんじん,688-763)が薬として『砂糖』を日本に伝えたが、砂糖は希少な貴重品だったため、古代ではデンプンを糖化させたあめが甘味料として用いられたという。『飴』という漢字は『食+台』で構成されており、『食べて台ぶ(喜ぶ)』という意味があり、中国で漢字が考案された遥か昔から『飴』が貴重な甘味料として製造されていたことが伺われる。

安土桃山時代末期の慶長年間(1596-1615)から、甘蔗(甘藷)から砂糖が製造できるようになってくるが、一般庶民が何とか高価な砂糖を手に入れられるようになるのは、甘蔗からの砂糖の生産量が増してきた江戸中期以降である。

飴の歴史を文献記録で遡ると『日本書紀(720年,養老4年)』の神武紀に、初代・神武天皇が大和国を平定した神武東征の時、大和・高尾の地で『水無飴(みずなしあめ)』を作ったという伝説が残されている。日本書紀には『われ今まさに八十平瓮をもちて、水無しにして飴(たがね)を造らむ』とあるが、米もやし(米芽)を使って水無飴を作ったようである。

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『和名抄/わみょうしょう(935年,承平5年)』には米もやし(米芽)を使った飴の記載があり、『和漢三才図会/わかんさんさいずえ(1712年,正徳2年)』には麦もやし(麦芽)を使った飴の記載がある。また、正倉院収蔵の古文書(8世紀前半)に見られる『阿米(あめ)』の文字も、飴(水飴)を意味していると考えられている。

奈良時代の飴は、米を発芽させてから米に含まれている糖化酵素を活性化させる方法で、デンプン質をどろどろに糖化させて水飴のような状態にしていたと考えられている。初期の飴は、今のように単独で食べるお菓子というよりは、他の食品に甘味をつける甘味料として使われていたのではないかと推測されている。中国語の『飴』という漢字は元々、米、高粱(コウリャン)、麦芽などの穀物の糖化から作られる水飴(軟らかい粘液状の飴)を指していた。

室町時代から砂糖を原材料とする『砂糖あめ』の製造も可能になったが、飴の製造である製飴業が盛んになってきたのは安土桃山時代である。江戸時代の1615年(元和元年)に、大坂夏の陣で落城した豊臣方の浪人・平野甚左衛門(ひらのじんざえもん)の子・平野甚九郎重政(ひらのじんくろうしげまさ)が、大坂・摂津平野で麦芽を原材料とする『平野あめ』を作り、江戸の町で『下りあめ』と呼ばれて人気になった。

平野甚九郎重政は飴の販路を拡大するために、江戸に出て平野甚右衛門(ひらのじんえもん)へと改名し、浅草寺(せんそうじ)の境内で『千歳飴(ちとせあめ)』を売り始めた。千歳飴は『七五三』で子供の健康な成長と長寿を願う縁起物の飴であり、細くて長い形状になっている。七五三の起源は、天和元年11月15日(1681年12月24日)に館林城主・徳川徳松(5代将軍・徳川綱吉の長男)の健康を神仏に祈ったことが始まりとされている。

千歳飴や金太郎飴とは、水飴に少量の砂糖を加えて加熱し、煮詰まってきたら熱いうちに何度も原料を織り込んだもので、水飴に混ざった空気によって色を白く見せている飴のことである。飴は古代には『薬』として使用されていた経緯もあるので、飴のことを江戸期まで『千年(せんねん)』という縁起の良い名前で呼ぶこともあった。元禄・宝永年間(1688年-1711年)に、江戸浅草の七兵衛(しちべえ)が『白あめ』を売り出したが、これを千歳飴の原型とする説もある。

江戸の享保年間(1716年-1736年)には、越後高田の高橋孫左衛門が栗あめを作ったが、その後も翁あめや朝鮮あめなど様々な種類の飴が次々に開発・販売されることになった。

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