赤玉ポートワイン・赤玉スイートワイン

赤玉ポートワインは、サントリー創業者(前身は寿屋)の鳥井信治郎(とりいしんじろう)によって、1907年(明治40年)に発売された当時の日本人の味覚に合わせて造られた甘味果実酒であり、厳密にはワイン(果実酒)とは異なるお酒である。赤玉ポートワインは、シェリーやマデイラと同じ分類の甘味果実酒(酒精強化ワイン)であり、一般的なワインの果実酒と比較すると非常に甘い仕上がり(リキュール的な甘さに近い仕上がり)になっている。

現在でも販売されているサントリーのこの甘味果実酒の商品名は、『赤玉ポートワイン』ではなく『赤玉スイートワイン』である。これは1970年代の正確な原産地表示にまつわる国際的な規制強化で、ポルトガルからの異議申し立ての抗議もあり、ポルトガル産ワインを意味する『ポートワイン』の名称がポルトガル以外では使えなくなったからである。サントリー社は1973年(昭和48)4月に、赤玉ポートワインの名称を現在まで続く『赤玉スイートワイン』へと改称したが、略称として単純に『赤玉』と呼ばれることもある。

ポルトガル産ワインを意味する『ポートワイン』の製法は、ブランデーの添加によってブドウの発酵を中断させ、糖分をワインよりも多く残すというものであり、この独特の製法によって、強い甘味が感じられる酒精強化ワインが造られている。明治時代から大正時代の日本人の平均的な味覚にとっては、欧米から輸入される一般的なワインは『苦味・渋味・酸味』が強すぎたため殆ど売れなかったのだが、鳥井信治郎が『甘めのお酒が好きな日本人の味覚』に合わせた赤玉ポートワインを調合・開発したことで、日本人にとってもワインがより身近に感じられるものになった。

サントリー(前身の寿屋)の創業者・鳥井信治郎は、丁稚奉公していた薬種問屋の小西儀助商店(現コニシ)から独立して、1899年(明治32年)に20歳で洋酒問屋の『鳥井商店』を開設した。当初、スペインのバルセロナから本場のワイン(葡萄酒)を輸入して販売したが、ヨーロッパ人との味覚の違いから日本人には殆ど売れなかった。1907年(明治40年)4月から、日本人の味覚に最適化した赤玉ポートワインの販売を開始した。赤玉ポートワインは、宣伝広告の積極的なマーケティングの効果や日本発のセミヌード写真を用いた松島恵美子のポスターのインパクトなどもあって大ヒット商品に成長した。

赤玉ポートワインの価格は、当時米1升が10銭の相場という状況で、その4倍に相当する40銭という高額な価格であった。1906年(明治39年)に『鳥井商店』から 『寿屋洋酒店』へと改名し、1921年(大正10年)には『株式会社寿屋』へと組織が大規模化して改変された。明治期には1881年(明治14年)に開発・販売された神谷伝兵衛(かみやでんべえ)香鼠葡萄酒(こうざんぶどうしゅ)と鳥井信治郎の赤玉ポートワインが激しいシェア争いを繰り広げていたが、大正後期には甘口の赤玉ポートワインが、国内ワイン市場の60%を占めるほどにまで急成長した。

1929年(昭和4年)4月に初めてのウイスキーを発売して、このウイスキーに『サントリー』というブランド名を名づけた。サントリーという名前の由来は、赤玉ポートワインの『赤玉』を太陽に見立てて“サン(SUN)”と呼び、これに鳥井の姓を加えて『SUN+鳥井(とりい)=サントリー』としたということにあると言われている。

鳥井信治郎は1962年(昭和37年)2月20日に急性肺炎で83歳で死去しているが、その後の1963年(昭和38年)3月に、ビール事業開始と歩調を合わせるようにして、ウイスキーの商品名であったサントリーを社名にも用いることに決め、『サントリー株式会社』へと商号を変更した。現在のサントリーは経営理念や創業家の意向に基づく“非上場企業”ではあるが、日本有数の酒類の製造販売メーカー・食品関連企業であり、その大企業の土台を明治期から昭和初期にかけて築いたのが創業者の鳥井信治郎が自ら調合した『赤玉ポートワイン(赤玉スイートワイン)』だったのである。

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