甘酒・醴(あまざけ)は、白米(もち米)をお粥のように炊いて、そこに麹・酒粕(こうじ・さけかす)を加えて糖化した甘い飲み物であり、基本的にアルコール分はほとんど含まれていない。日本では甘酒はお酒ではなく、清涼飲料水の区分で売られていることが多く、甘酒を飲んで酔うことは通常ない。近年は甘酒をその栄養価(特に糖分のカロリー)の高さから、『飲む点滴』というキャッチフレーズで販売している会社もあるが、原材料はお米であることからそれなりに空腹を癒せたりもする。甘酒は『甘粥(あまがゆ)』とも言う。
奈良時代に編纂された『日本書紀(720年)』にも、応仁天皇19年10月に、吉野宮で国栖(くす)の人が一夜酒(いちやざけ)を献上したというエピソードが収載されており、この一夜酒が甘酒だとされている。古代から米・麹(こうじ)・酒を混ぜて一夜で醸造した酒であることから『一夜酒』と呼ばれていたが、この一夜酒は『甘酒(こさけ・こざけ=濃い酒)』という呼び方もされていたという。
甘酒には一夜酒・醴以外にも、古酒(こざけ)、口酒(こざけ)、濃酒(こざけ)、三国一(さんごくいち)、白雪醴(しらゆきこざけ)といった呼び方・書き方があることが知られている。古代では白米・もち米を口の中で噛みながら唾液で糖化していったのではないかと推測されているが、今では甘酒は『発酵する前の段階』で飲むことのほうが多い。
甘酒は昔は『醴』という漢字が当てられていて、現代ではこれを普通に『あまざけ』と読んでいるが、古代では『れい』と読まれていたという。『醴(れい)』は古代中国の王朝・殷(商)の暴君である紂(ちゅう)も、酒池肉林の楽しみとして米を発酵させた甘い醴(れい)を好んで飲んでいたという。しかし、古代の中国王朝では醴(れい)は『神に備えるべき神酒』とされており、人間が味覚的な楽しみのために飲むものというよりは、宗教的な祭祀にお供え物として使われることのほうが多かった。
『和漢三才図会(わかんさんさいずえ,1712年)』には、『天子醴酒(あまざけ)を神祇(じんぎ)に献じ給ふ』という記載があり、古代日本においても天皇が司る神道祭祀において醴酒・甘酒が神にお供えされていたことが分かる。室町期には、甘酒の行商が出現するほどに庶民の間にも普及してきており、関西(京都・大坂)では暑い夏の夜に飲むもの(熱い甘酒を夏に飲む)、江戸では冬の寒い季節に飲むもの(熱い甘酒を冬に飲む)という慣習が形成されていった。江戸時代の時代が下るにつれて、江戸でも『夏バテ防止・栄養補給』の観点から暑い夏に甘酒を飲むことが多くなっていった。
『甘酒』という漢字表記は安土桃山時代の慶長年間に書物に登場したが、江戸中期の天明年間(1781年-1789年)になると、江戸の横山町を中心にして、甘酒の白色を富士山麓の景色になぞらえて『三国一・白雪』といった詩情豊かな名前で呼ばれることも増えてきた。
江戸後期の天保年間(1831年-1845年)になると、お祭りや縁日の時に神社仏閣の境内で『甘い、甘い、あまざけ~、あまざけ~』と掛け声をかけて甘酒を販売する露天商が急増したが、浅草本願寺の門前にあった甘酒屋がもっとも繁盛していたのだという。江戸幕府は庶民の健康と栄養状態の改善のため、誰でも大きな負担なく甘酒を購入できるように、甘酒の価格を最高4文として規制していたが、幕末が近づくにつれて物価が高騰し、甘酒の価格は6文~8文にまで急速に値上がりしてしまったのだという。