明石焼き(あかしやき)は、兵庫県明石市の郷土料理で、『鶏卵・カツオや昆布の出汁(だし)・浮粉(うきこ)や沈粉(じんこ)・小麦粉・タコ』を材料にして作られるたこ焼きに似た卵焼き料理である。江戸後期から食べられている明石焼き(卵焼き)は、近代の大阪などで作られる『たこ焼き』の原型になっているとも言われる。
地元の兵庫県明石市まや東播磨地区(加古川市、高砂市、播磨町、稲美町)、神戸市西部(西区、垂水区、須磨区など)では明石焼きとは言わずに、ただ『玉子焼き』とだけ呼ばれることも多い。他の地域では、生卵をかき混ぜてから塩・砂糖で味付けして焼く一般的な玉子焼きと区別するために明石焼きと呼ぶ。地元の高齢者は玉子焼きの省略形である『たまやき』と呼ぶこともある。
明石市に近い姫路市・加古川市・高砂市・神戸市長田区などでは、ソースを塗った玉子焼に出汁をつけて食べる『神戸たこ焼き』というものも開発されている。
明石焼きの歴史は江戸後期にまで遡ることができるが、江戸中期の天保年間(1831年-1845年)に、江戸の鼈甲(べっこう)細工師の江戸屋岩吉(えどやいわきち)が、金比羅参りの帰り道で播磨国・明石に立ち寄って、そこで卵白を大量に使って柘植(つげ)の木を珠状に固める『明石珠(あかしだま)』を作った。そこで大量に余った卵黄を活用する料理として明石焼き(卵焼き)が考案されたという伝承が残されている。
明石焼き(卵焼き)の発明者が誰なのかははっきりしないのだが、江戸中期の向井某(むかいなにがし)と呼ばれる向井という姓の持ち主の発案によるものだという。装飾的な工芸品である明石珠そのものは、明治期以降も作られ続け、明治~大正期にかけて簪(かんざし)や掛け軸の風鎮として用いられたりしていた。
初期の明石焼き(玉子焼き)は、明石珠作りで余った卵黄に『コンニャク(蒟蒻)』を入れて焼いたものだったが、時代が下るにつれていつしかそのコンニャクがより味が美味しく食べ応えがある『タコ(蛸)=明石タコ』に変わっていったのだという。今ではタコの代わりに穴子を入れた明石焼きもある。
材料に鶏卵を使って、生地を非常にやわらかく焼き上げるのが特徴で、小麦粉以外にも『沈粉(じんこ)』と呼ばれる小麦でんぷんの粉を合わせて使っている。焼く鉄板は、熱伝導が良い『銅製』が望ましいとされ、明石焼を裏返すの道具も銅製の板を傷つけないように金属製のコテではなく木製の菜箸(さいばし)を使うことが多い。ねぎやもやし、青のり、紅生姜、天かすなどを一緒に入れる『大阪発祥のたこ焼き』とは違って、明石焼きの具材は基本的にはタコ一種類(穴子一種類)のみであり、『出汁巻き玉子』の要領で焼き上げていく。
明石焼き(玉子焼き)は、小さなまな板状の木製皿に盛り付けられることが多く、一緒に出される『出汁(カツオ・昆布のだし汁)』に浸けて食べるスタイルになっている。出汁には、薬味の三つ葉を浮かべたりする。元々は熱い玉子焼を冷まして食べるために『常温のだし汁』に浸けていたのだが、今では温めた出汁に漬けるスタイルのお店もある。