『あちゃら漬け(阿茶羅漬け)』というのは、『蓮根(れんこん)・大根・蕪(かぶ)・人参・ゴボウ・生姜・ミョウガ』などの季節の野菜を細かく刻んでそれに唐辛子を加えて、甘酢(あまず)に漬けた漬物のことである。日本ではかなりポピュラーな漬物の一種であり、どこのスーパーマーケットの漬物コーナーにも大抵は置いてある。惣菜として売られている『鯵の南蛮漬け』なども、あちゃら漬けの一種である。
あちゃら漬けの元になった“achar(アチャール)”は、ポルトガル語で『野菜・果物の漬物』といった意味であるが、『あちゃら(アチャラ)』という日本語としては不思議な響きのある言葉の語源が何であるかについては諸説があり定まっていない。あちゃら漬けが日本に伝来したのは、安土桃山時代あるいは江戸初期の『南蛮貿易』を通してである。
インドネシア料理が太平洋の南方から日本まで伝来して、インドネシアの現地の言葉で『アチャラ』と呼ばれていたのではないかとする仮説、あちゃら漬けは元々はオリエント文化の影響を受けたピクルスのような漬物であり、『アチャラ』の語源はペルシア語であるとする仮説などがある。しかし、いずれの仮説が歴史的・言語学的に正しいのかの検証は、現存している文献・史料からは不可能と考えられている。
江戸時代には南蛮からの輸入品(舶来もの)であった『唐辛子(トウガラシ)』を使っていたため、あちゃら漬け(阿茶羅漬け)は『南蛮料理』の一種に分類されていた。江戸時代前期の『合類日用料理指南抄(1689年)』には、あちゃら漬けは『南蛮漬け』という名前で記録されており、現在でもアジ(鯵)などの魚介類を甘酢と大根・人参で漬けたものを『南蛮漬け』と表記することが多い。南蛮漬けと呼ばれた後に、あちゃら漬けという呼び方が登場したと推測されている。
江戸時代中期にはあちゃら漬けは一般的な漬物として認知されるようになっており、『料理網目調味抄(りょうりもうもくちょうみしょう,1730年・享保15年)』には、『酢をいりあつきに漬ける。酢一升、塩三合、なすび、はじかみ、めうがのこ、はす、牛蒡、塩、鯖、イワシ、貝類』といった作り方の説明がされている。『四季漬物塩嘉言(しきつけものしおかげん,1836年・天保7年)』にも、トウガラシと梅の酸味を活用した大根のあちゃら漬けの作り方が詳しく書かれており、レンコンやゴボウ、ウドを使って作っても良いという但し書きがされている。
戦前戦後に徳島県阿波地方の名物とされていたたくあん(沢庵)が『阿波たくあん(阿波沢庵)』であり、大正時代から昭和初期にかけては約2トンにも上る全国一のたくあん生産量を誇っていた。戦前には、植民地(併合地)である朝鮮半島や台湾にも阿波たくあんが大量に輸出されるほどであった。
徳島県の阿波地方では、明治中期に化学染料の登場で衰退し始めた藍染(染料作り)に変えて、吉野川下流域の平野部で漬物用の大根が作られるようになり、たくあんや切り干し大根の一大生産地へと変貌していったという。戦前の庶民の平均的な朝ごはんの食生活は、麦飯(若干の白米)にたくあん(沢庵)をおかず(主菜・副菜)とするものであり、日本全体で『膨大なたくあんの需要』があったのである。
1894年(明治27年)に阿波たくあんを創作したのは、板野郡藍園村で大根栽培をしていた久次米伊勢吉(くじめいせきち)である。その後に、徳島県の農業試験所でたくあんに適した大根の品種改良が続けられて、1932年(昭和7年)に青首大根の欠点(たくあんにすると青い部分が黒くなってしまう)を改良した『阿波晩生(あわばんせい)』が作られた。
たくあんに最適とされた阿波晩生の作成によって、阿波たくあんは『日本一の生産量・出荷量』を誇る黄金期を謳歌した。阿波たくあんは、大根の干し方と塩・米ぬかの割合にこだわり、発酵による十分な熟成を行った日本一美味しいたくあん(黒くなる青首大根のたくあんよりも見かけのよいたくあん)として評判になったのである。しかし、感染症に弱いという欠点があり、1950年(昭和25年)に阿波晩生がウイルス感染症の被害を受けると、他のたくあん生産地にその需要を大きく奪われてしまった。
徳島県は感染症に強い『阿波新晩生』という大根の品種改良に成功したが、いったん奪われた需要を取り戻せず、高度経済成長期における『食生活の欧米化・たくあんを毎日食べる家庭の激減』によって、阿波たくあんが再びヒットすることはなかったのである。現在では、徳島県内でたくあんを生産・出荷している漬物業者は殆ど残っておらず、阿波新晩生を材料とする『阿波たくあん』の一般消費者向けの生産も行われていない。