浅草海苔(あさくさのり・アサクサノリ)

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浅草海苔(あさくさのり)は、江戸の浅草の地名からつけられた名産物的な海苔の総称であり、海苔そのものは奈良・平安時代以前の古代から存在する日本人が考案(創作)したとされる歴史の古い食品である。浅草海苔(あさくさのり)は『紅藻類ウシケノリ科アマノリ属』に分類される海藻であり、江戸時代以前には今のような“乾燥のり”よりも“生のり”の形で食べられることが多かった。

アサクサノリの野生種は、東アジアの一部(日本・朝鮮半島など)に分布しているが、1962年頃に愛媛県西條市玉津でオオバアサクサノリが、1970年頃に千葉県袖ケ浦町奈良輪でナラワスサビノリが『病気に強くて生育の早い養殖品種』として導入されたことで、アサクサノリの養殖は激減してしまった。

アサクサノリは野生種の養殖がなされなくなったことによる影響、『干拓・埋立・水質汚染』などで自生に適した環境が大きく失われたことによる影響で激減し、日本の環境省のレッドリストでは1997年版・初版から『絶滅危惧Ⅰ類』に分類されている。

平安時代の『のり』の漢字表記には、『紫菜(のり)・神仙菜(あまのり)・甘海苔(あまのり)』などがあり、のりは非常に貴重な食品として珍重され、海苔の特産地からは税金(調)として京(都)に送られたりもした。

平安時代ののりの漢字表記は『紫菜(のり)』が多く、現代のような『海苔(のり)』という表記のほうが一般化するのは、江戸時代中期からだと考えられている。平安時代中期の『延喜式(えんぎしき,延長5年・927年)』『倭名抄(わみょうしょう,承平5年・935年)』にも、紫菜という表記でのりが表現されている。

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京において地方の特産品として珍重された紫菜(のり)であるが、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)によって伊豆産のアマノリが後白河法皇(ごしらかわほうおう)に献上されたりもしている。アサクサノリとしての表記は、『日本山海名物図会(宝暦4年・1754年)』『江戸浅草紫菜(えどあさくさのり)』として出ており、この時代まではまだ海苔よりも紫菜の表記のほうが多かったと推測される。

浅草海苔(アサクサノリ)の名前の由来は、浅草の宮戸川の河口で海苔が取れたという説、浅草雷門前の永楽屋(えいらくや)が江戸幕府御用達の海苔を取り扱っていたという説などがある。また、江戸前期の承応年間(1652年~1655年)に守澄法親王(しゅちょうほっしんのう)が、初代輪王寺宮門跡(日光門跡)として入山した時に献上したのりが、味と香りが非常に良かったので人気となり、『仏教の法(のり)』にも適っているということから『のり』という呼称(漢字の読み方)が一般化したという伝説的な仮説もある。

海苔の名前に『浅草・葛飾・出雲』などの採取地の地名を冠して呼ぶようになったのは室町期からである。江戸後期には、『観音と 共に名高し 浅草の のりは海より 出ずるものかな』という和歌も詠まれていて、当時からアサクサノリが地域の名産品として評判になっていたことが伺われる。

江戸時代のアサクサノリは初め、葛西浦辺(かさいうらべ)で採取されていたがその採取できる量が非常に少なくて貴重だったため、一部の藩の大名や寺社の僧侶しか口にすることができなかったという。三代将軍の徳川家光は、1625年(寛永2年)に江戸の上野に寛永寺(かんえいじ)を建立したが、寛永寺に正月に参拝してくる諸大名に対して『御膳海苔(ごぜんのり)』と称する生のアサクサノリを貴重な食品として提供していたという。

江戸中期からアサクサノリの生産量が増大して、一般庶民の日常的なおかずとしても食べられるようになってくるが、それ以前ののりの産地ごとの特徴については『東海道名所記(万治年間・1658年~1661年)』に、『品川海苔とて名物なり。色赤く鶏冠(とさか)海苔の小さきもの也。色赤きものは葛西海苔なり』などの記載が残されている。

延宝・天和年間(1673年~1684年頃)からは、江戸の品川・大森の海でアサクサノリの本格的な養殖が試みられるようになり、養殖方法が工夫されて養殖場が拡大するにつれて漁区を巡る争いごとが頻発するようになる。大森にいた百姓の初代・六左衛門(ろくざえもん)が、海苔を現在に近い四角い形に整えて乾燥させる『乾燥のり』の原型のアイデアを思いついたのだという。

続く2代目の六郎左衛門(ろくろうざえもん)が浅草紙の『紙漉き(かみすき)』の技法を参考にして、元和年間(1615年~1624年)に海苔を漉いて乾燥させる技法を完成させ、『浅草のり』と命名したという説もある。乾燥のりの枚数を、1帖・2帖(10枚分・20枚分)と数える数え方の由来は、浅草紙の漉き紙の枚数を数えることにちなんでいるとされる。浅草のりの創作については、8代将軍・徳川綱吉の時代に江戸浅草雷門門前の植木屋・四郎左衛門(しろうざえもん)が創作したという別の説もある。

『焼きのり』の歴史は生のり・乾燥のりと比べると浅いもので、幕末の弘化年間(1845年~1848年)に大森の三浦屋・田中孫左衛門(たなかまござえもん)が考案して作ったのが始まりとされる。『のりの佃煮は、明治4~5年(1871~1872年)にかけて、東京上野池の端の酒悦(しゅえつ)という者が考案したと伝えられている。

『味付けのり』の歴史も明治から始まる新しいもので、東京日本橋の海苔商・山本が創作したとされる。京都の天皇に納める浅草のりに、山椒・唐辛子・陳皮(ちんぴ)で味付けをした薬味のりを作ったのが、味付けのりの始まりであり、それ以降はご飯のおかずに適した『味付けのり』が多く作られるようになっていった。

初代将軍・徳川家康が入府(1589年)してからは、干拓工事によって海苔の採取が困難になっていたという説もあり、下総国の葛西で採れた海苔などが加工されて『浅草のり』というブランド名を付けられて販売されていたこともあるようである。江戸時代が終わっても東京では盛んに浅草のりの養殖が行われていて、大正時代には大森の海で養殖・採取される浅草のりは、全国採取量の過半数を占めるほどであった。

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