『お膳・食膳』の歴史と禅僧の影響を受けた室町時代の食文化

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894年に『遣唐使』が廃止されて中国との貿易・交流が一時的に途絶え、日本の国風文化が花開くことになったが、10世紀から13世紀になると再び中国の宋(そう,960-1279)との『日宋貿易』が盛んになり宋銭(銅銭)や陶磁器、絹織物、書籍などが大量に輸入された。平清盛(たいらのきよもり,)は摂津国福原の『大輪田泊(おおわだのとまり,現神戸港)』を開発して日宋貿易を積極的に行わせ、莫大な財力を蓄えることで『平氏政権』の財政基盤にした。

1279年、南宋がクビライ・ハン(フビライ・ハン)の率いる元(1271-1368)に滅ぼされると、日明貿易が始まるまでは非公式の『日元貿易』が行われた。日本の室町時代における元との貿易、禅宗の僧侶(禅僧)の元への留学によって『室町時代の食文化』が形成されていく。当時の禅僧が中国(元)の寺社の食文化から持ち帰った『茶・精進料理(しょうじんりょうり)・懐石料理の点心(かいせきりょうりのてんしん)』は、現代まで続く和食の原点といった趣きもある。

数年以上にわたる長期留学経験のある禅僧は、当時最先端の『中国(宋・元)』の食文化と生活様式(ライフスタイル)の伝道者でもあった。禅宗寺院で食べられた精進料理や懐石料理によって、中国伝来の『豆腐・麸(ふ)・まんじゅう・羊羹(ようかん)』の普及が進み、『醤油・ごま油』などの調味料も普及していった。

足利尊氏(あしかがたかうじ,1305-1358)によって京都に開府した室町幕府は、『質実剛健な武家文化・質素倹約な禅宗文化』『華美贅沢な公家文化(貴族文化)』の両面を併せ持っていた。室町時代は武家文化と貴族文化の融合が図られた時代でもあり、室町時代に和食の食材となるものが多く揃ってきた。戦国乱世や織豊政権を経由して、天下泰平の江戸時代になると『調理法・調味料を工夫した和食文化』が完成の域に近づいていった。

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室町期の中国留学を経験した臨済宗・曹洞宗の禅僧は、宋・元において『士大夫層の儒教的な教養文化+仏教の教義・禅宗の修行法+国際的な語学力(中国語の運用力)』を身につけたエリートの知識人層を形成した。禅僧たちは、日本の支配者階級である武士・公家(貴族)に中国風のライフスタイルを伝えて、『茶・茶会・精進料理・懐石料理・書院造(金閣寺・銀閣寺などにも応用)・作庭法』などが日本に広まっていくこととなった。

室町時代の食文化の変動は、禅僧が媒介した『日宋貿易・日元貿易の文物・食品・文化の交流』からもたらされた側面が非常に大きいのだが、禁欲的・自己陶冶・質素倹約といった特徴を持つ禅宗(仏教)を母体とした文化全般の大変化は、『形と道・様式美・精神主義・定式』を重視する日本独自の伝統文化の基盤を固めていったのである。茶道・花道・弓道などにも通じる『道』の精神主義の感覚は、『前例踏襲・年功序列(師弟関係)・慣習重視』などによって、如何にも日本的な価値観を大枠で規定してきたとも言える。

1467年に京都で山名氏と細川氏が日本を二分して武士集団が激突する『応仁の乱』が勃発したが、その後は京都が荒廃して室町幕府・足利将軍家の権威と財政力が急速に低下していく。室町時代中期以降には慈照寺銀閣で知られる8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ,1436-1490)が中心となって、禅宗・茶の湯・能楽・懐石料理などを含む“わびさび(侘び寂び)・幽玄”を特徴とする『東山文化』を生み出していった。東山文化は室町幕府の最盛期であった3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ,1358-1408)が中心となって形成した鹿苑寺金閣に代表される絢爛豪華・贅沢・貴族的な『北山文化』とは対照的なものであり、派手さや豪華さを退けた東山文化は『武家・公家・禅宗の文化の融合』によって生まれたとも言われる。

禅宗が作り出して定着させた日本の食生活・食文化の様式として、一人一人に食事をするため(個食の食事をするため)の台・机を準備する『膳(ぜん)・食膳(しょくぜん)』がある。テーブルや卓袱台(ちゃぶだい)の上で食事を取るようになった現代においても、一式の食事を置く食卓・お盆のことを『お膳(おぜん)』と呼ぶ習慣は強く残っている。外食の懐石料理・和食などでもお盆の上に一汁三菜のおかずとごはん(白米)を並べた一式の料理のことを『~和膳・~膳』と名づけていることも多い。

日本における膳の歴史や起源そのものは非常に古いものであり、弥生時代の登呂遺跡(静岡県)からは、長方形の木製の板に低い足をつけた『つくえ(坏(つき)を置く食膳の台)』が発掘されているが、平安時代の貴族に一般的に使われていた『高坏(たかつき)・折敷(おしき)・懸盤(かけばん)・衝重(ついがさね)』なども古い食膳である。

高坏(たかつき)……円形や四角のお盆の下に一本の足をつけたもの

折敷(おしき)……角形のお盆。

懸盤(かけばん)……四角のお盆の下に台をつけたもの。

衝重(ついがさね)……方形の角切(すみきり)の筒形台脚を備えた折敷の総称である。折敷の下に檜材・杉材を薄く剥いで四角に片筒状に折り曲げて作った脚を継いで重ねたもの。食器を乗せる膳であると同時に、神仏に食物を供えるための祭祀道具でもあった。

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室町時代の禅宗寺院の食文化の影響を強く受けたものとして『箱膳(はこぜん)』がある。箱膳というのは一人前の食器をしまえる箱であり、食事をする時には蓋をひっくり返して食卓にすることができるものである。『膳・食膳』は平安王朝の貴族の身分制度や穢れ(ケガレ)思想を反映したものでもあり、一人一人の食事をあらかじめ取り分ける(大皿に盛ってみんなで自由に取るような食事法は日本の食文化の歴史にはほとんどない)という意味での『個食(個人ごとの専用のお膳・料理一式を準備する)』なのである。

日本のオーソドックスな食文化の伝統・方法は、一人一人が使う『自分用の食器・箸(はし)』が決められており、あらかじめ料理を取り分けてそれぞれの人に『自分用のお膳』を割り当てるという個食的な『銘々膳(めいめいぜん)』なのである。ここでいう個食というのは、現代的な定義である『家族がバラバラの時間・部屋で食事を取る(食事の時に顔を合わせない、一緒に食べない)』ということではなく、『各々の食事内容があらかじめ取り分けられて一つの膳にまとめられている(他人と食事・食膳・食器・箸を共用しない)』ということである。

『個食(こしょく)』と対置されるのは、大皿に盛り付けた沢山の料理を自由に取って食べるような方法の『共食(きょうしょく)』であるが、日本の食文化の歴史では共食はほとんど見られない。その理由としては、身分制度の上下関係が厳しかった『縦社会(タテ型社会)の日本』では、父と母と子、主君と家臣などが入り混じって同じ皿から自分のものを取って食べる(食事の内容・お膳の豪華さなどに身分差が反映されずに平等である)という習慣が許されなかったからと考えられる。

身分・序列の上下関係にうるさかった儒教の影響によって食事・食膳にも身分差をつけようとしたこと、更にはケガレ思想によって『他人の使用した食器・箸』が穢れてしまったように感じて敬遠したことなどが、それぞれの人に食膳を準備する『銘々膳』の食文化を根付かせていったのだろうか。

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