『茶・茶の湯』の歴史と栄西・東山文化・千利休

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『お茶』は禅宗の点心(間食)や精進料理と結びつくことによって、鎌倉時代から室町時代にかけての日本の食文化に非常に大きな影響を与え、その後に『茶の湯・茶道』という日本独自のお茶を通した精神性・もてなしと作法の文化を生み出していった。中国の宋の禅宗寺院(禅院)では、お茶は睡魔を打ち払うための薬のような飲み物として嗜まれていて、カフェインを含むお茶は眠気覚ましの覚醒効果(睡魔除け)がある飲み物として『座禅・瞑想の修行』に役立つと考えられていた。

中国大陸でお茶を飲む習慣は少なくとも紀元2~3世紀の『三国時代(魏・呉・蜀)』には始まっていたとされ、唐の陸羽(りくう,733-804)が書いた『茶経(ちゃきょう)』では魏の時代の『広雅(こうが)』に現四川省の辺りで飲茶(喫茶)の習慣が始まったと記されているのだという。

陸羽は中国におけるお茶の普及に貢献した唐の時代の士大夫・教養人であり、著作の『茶経』を760年頃に書いて、熱帯・温帯気候で育つお茶について『茶は南方の嘉木(かぼく)なり』と書き残している。陸羽は天宝年間(742-755)の晩年になってから楊貴妃のエピソードで有名な玄宗皇帝に謁見している。陸羽は玄宗皇帝に、当時、眠気を覚まして身体に活力を与えてくれる『薬』としても用いられていたお茶、喫茶の文化・作法について語ったのではないかとも伝えられている。中国でお茶が普及していったのは隋・唐の時代であるが、初めは『覚醒効果・強壮効果』のある一種の薬として、支配階級であった貴族・僧侶の間で飲まれるようになっていった。

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三国時代の時期のお茶は、茶葉を蒸したり釜で炒ったりしてから、型枠(かたわく)にはめ込んで煉瓦状(れんがじょう)に固め、お茶を飲む時にその煉瓦状(ブロック状)になった『磚茶(せんちゃ)』を削ってからお湯に浸して飲んでいた。“磚(せん)”という漢字には『かわら』という意味がある。

『茶』という漢字も3~6世紀頃には用いられておらず、苦いという意味を持つ『荼(ちゃ)』、遅くに摘んだ茶葉の意味を持つ『茗(ちゃ)』という漢字が用いられていたという。『茶』は『荼の俗字』であるが、遅い時期に摘んだ『茗』に対して、早い時期に摘んだ新芽のことを『茶』と書くようにもなっていった。

日本にもお茶の木は自生していたが奈良時代までは『喫茶(飲茶)の習慣』はなく、遣唐使や留学僧によって日本にお茶が輸入されてからも、しばらくは宮中の一部の貴族にモダンな珍しい飲み物として愛飲されていただけであった。日本で初期に茶木を人工的に植えた僧侶としては、東大寺の大仏(毘盧遮那仏)の建設に貢献し、諸国を巡って橋を架けたり土木・治水事業を行ったりした行基(ぎょうき,668-749)が知られている。行基の事績については『東大寺要録(とうだいじようろく)』に、『僧行基ありて徳行ともに高く、諸国に営舎を建立すること四十九か所、並びに茶木を植う、末世衆生済度のため也』と記されている。

天台宗(比叡山延暦寺)の開祖である最澄(伝教大師,767-822)も、遣唐使として唐に渡った時にお茶を手に入れ、805年(延暦24年)に日本にお茶を持ち帰ったといわれている。平安時代におけるお茶の飲み方は、今とは異なりお茶そのものの苦い味やふくよかな香りを楽しむのではなく、お茶に『しょうが・塩』で味や香りをつけてから飲んでいたようである。平安時代にはお茶は天皇・皇族・貴族にとって重要で貴重な飲み物となってきて、茶園を管理して安定供給するために『典薬寮(てんやくりょう)』が活用された。典薬寮は律令制に基づく官の医療・製薬(薬草栽培)の機関であり、天武天皇5 (676) 年に設置された外薬寮(げやくりょう)が前身とされるが、701年の『大宝律令』の公布によって典薬寮として発足した。

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日本に中国のお茶の茶種・製茶・喫茶を本格的に伝えて民間でもお茶が飲まれるようになる契機を作ったのは、禅宗の臨済宗(りんざいしゅう)の開祖として知られる栄西(えいさい,1141-1215)である。栄西が中国の禅宗寺院に留学したのは南宋の時代であり、唐で喫茶法の主流であった『団茶(だんちゃ)』の時代は終わっていた。

団茶というのは団子状に固めたお茶を削ってから使う喫茶法だったが、南宋の時代にはこの団子状のお茶を使う『団茶式』ではなく『抹茶(緑茶)の点茶式』でお茶が飲まれる文化に変わっていたのである。抹茶というのは、乾燥させた緑茶の葉を臼で挽いて粉状にしたものである。抹茶式には一連の形式化された作法があったため、禅宗寺院の常住坐臥の修行法の一環として採用されやすい要素があり、『睡魔を払う覚醒効果・健康を増進する滋養効果』と合わせて禅宗寺院で盛んにお茶が飲まれるようになっていったのである。

1168年に、比叡山延暦寺で学んでいた栄西は、28歳で南宋に仏教学習のために渡ったが、天台山・育王山(てんだいさん・いくおうざん)で仏教の修行をして仏法を学んでから短期で帰国している。しかし再び、1187年に栄西(47歳)は南宋に渡って天童山(てんどうざん)で禅宗の仏教を学んでおり、51歳で宋船に便乗して現長崎県の平戸に帰国したのだが、この時に『お茶・医薬品』などを日本に持ち帰ったのである。栄西は現福岡県と佐賀県の境界にある脊振山(せふりさん)の山麓に茶木を植えたが、これが日本で民間にも製茶法が伝えられる始点になったのだという。

栄西は1199年(正治元年)に鎌倉に行き、二代将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)から帰依を受けて、臨済宗の禅宗寺院を新たに建立することができるようになる。源氏の将軍家から信仰を受けることになった栄西だが、暗殺された三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)にも、つらい二日酔いをお茶を飲んでその覚醒効果ですっきりさせたというエピソードが残されている。1200年に寿福寺(じゅふくじ)を立てて、1201年に建仁寺(けんにんじ)を開き、栄西は禅宗寺院を起点としてお茶を飲む喫茶文化を広めていった。

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中国からお茶の作法や文化を導入した栄西は、そのお茶に関連する書物として、晩年(71歳時)に『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を書き残している。『喫茶養生記』には『茶は養生の仙薬、延齢の妙術なり。山谷にこれを生ずればその地神聖なり。人倫これをとればその人長命なり』とあり、当時のお茶が薬のような効果を期待できる特別なものとして僧侶・貴族たちに愛飲されていた様子が伝わってくる。『宇治茶(うじちゃ)』の原点を作ったとされる臨済宗の禅僧・明恵(みょうえ)も、栄西からお茶の木の種を譲り受けて宇治・山城の土地で精力的に製茶を行ったのだという。

お茶には、茶道のように茶筅(ちゃせん)でかき混ぜて点てたお茶を頂く『抹茶(まっちゃ)』、茶葉を急須に入れてから煎り出して抽出して頂く『煎茶(せんちゃ)』があるが、千利休によって最終的に大成された『茶の湯』というと一般的には抹茶のことを意味している。しかし、煎茶にも抹茶と同じように飲み方・もてなし方の作法というものはあり、江戸初期に京都に『詩仙堂(しせんどう)』を建設した石川丈山(いしかわじょうざん)や煎茶中興の祖といわれる禅僧の売茶翁(ばいさおう)『煎茶道(せんちゃどう)』を完成したとされている。

鎌倉時代には、南宋の茶の味・香りを区別する競争(遊び)である『闘茶(とうちゃ)』の影響を受けた酒宴にも似た『茶会(ちゃかい)・茶寄合(ちゃよりあい)』が盛んに行われるようになってくる。『喫茶往来(きっさおうらい)』にはお茶の味を見分ける飲茶勝負をして、その後に酒宴を開催した当時の様子が記録されている。鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて、宋の闘茶を模倣した『茶寄合(ちゃよりあい)・茶かぶき』が行われるようになるのだが、茶寄合・茶かぶきは簡単な料理や酒を楽しみながら、『お茶の産地・銘柄』を当てる賭け事を含む遊び(より多く当てた者が賭けている物を貰える)のようなものであった。

茶寄合・茶かぶきの時代にはお茶は『世俗的・物質的(嗜好的)』なものであったが、京都を焼け野原にして大勢の人が死んだ『応仁の乱(1467-1477)』を経験したことによって、世の中全体に仏教思想とも親和性のある『無常観・虚無感・絶望感』が広まりを見せ、お茶は『精神的・作法的(規範的)』な側面を強めて禅宗の精神性をより取りこんでいったのである。臨済宗の禅院でもある慈照寺(銀閣寺)を建立した8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ,1436-1490)によって、わびさび(侘び寂び)・幽玄を特徴とする『東山文化』が生まれるが、この東山文化の中心的な文化・作法を規定したのがお茶のもてなしの儀礼・作法でもある『茶の湯(ちゃのゆ)』であった。

足利義政は将軍職を辞してから東山で盛んに茶会を開いたが、この茶会に参加していたのが『茶の湯・侘び茶』の作法・礼制の創始者(完成者)とも言われる奈良・称名寺(しょうみょうじ)の僧侶・村田珠光(むらたじゅこう,1422-1502)であった。村田珠光が始めたのは『静寂枯淡(せいじゃくこたん)』の味わいのある規範的・儀礼的な喫茶法であり、『四畳半の茶室』を考案して限定された空間の中でお茶を点てて嗜むという枯淡な形式を完成させ、『東山殿の侘び茶』と称されるようになった。

茶の湯の作法は、村田珠光から弟子筋に当たる武野紹鴎(たけのじょうおう,1502-1555)へと引き継がれていき、更に武野紹鴎の弟子の千利休(せんのりきゅう,1522-1591)によって現代の茶道(一期一会のもてなしの作法)にも接続する『茶の湯』が大成されたのである。千利休は茶の湯を茶室の中で、亭主が客人を最大限にもてなす儀礼・作法として完成させ、点じた濃い抹茶をいきなり飲むのではなく、『懐石料理の点心(茶の子と呼ばれる手軽な食事)』と一緒に抹茶を飲む習慣を作ったりもした。

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