食用となる穀物の『そば(蕎麦)』の原産地は、ユーラシア大陸東部のシベリア周辺と考えられているが、約4000年くらい前に現在の北海道のオホーツク沿岸部の遺跡にそばの栽培の後らしい痕跡が残されているとされる。約4000年前にそばが中国大陸・朝鮮半島から伝来していたとすると、日本におけるそばの栽培は米の栽培よりも古い可能性があるが、文献によってそばの存在が確認できるのは『奈良時代』の前後である。
『類聚三代格(るいじゅうさんだいかく)』には、養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)にそば栽培の奨励を命じた2通の太政官符が掲載されている。更に正史の『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、女性天皇である元正天皇(げんしょうてんのう)が722年(養老6年7月)に、夏に雨が降らなかったために稲の成長が悪かったので、飢饉に備えて土地が痩せていても育つ『そば』の栽培を奨励したとの記録が残されている。この逸話から、元正天皇はそばの神様として崇められることもある。
奈良時代のそばは頻繁に食べられる食物(穀物)というよりは、天候不順(旱魃)による不作・飢饉に備えるための『救荒作物(きゅうこうさくもつ)』としての性格が強い。農作物としてのそばは寒さと旱魃に強い特長があり、痩せている土地で栽培したほうが味や香りが良くなるので救荒作物には非常に適していたのである。鎌倉時代あたりまで、そばは下層階級の救荒作物や山暮らし(荒れた土地)の人々の食べ物であり、平安京の都の貴族・僧侶には馴染みがない食べ物であったという。
鎌倉時代の『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には、平安時代中期の僧侶で歌人の道命(藤原道長の甥)が、山暮らしの住人からそば料理を出されて、『食膳にも据えかねる料理が出された(食膳に出すようなものとは思えない料理が出された)』と驚いて慨嘆したというエピソードが収載されているが、これは京都の僧侶にはそばを日常的に食べる習慣がなかったこと(そもそも一度も食べた経験がなかったこと)を表している。
『本草和名(ほんぞうわみょう)』『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』によると、奈良時代のそばは『曾波牟岐・蕎麦(そばむぎ)』や『久呂無木(くろむぎ)』と呼ばれていたが、『蕎麦』という漢字をそばと読むのが初めて確認できるのは、南北朝時代に書かれた『拾芥抄(しゅうかいしょう)』である。
ユーラシア大陸から、穀物あるいは野生のそばが初めて渡ってきた地点は、北海道のオホーツク沖である可能性があるが、日本でそば栽培の発祥地とされているのは『近江国(現滋賀県)・伊吹山周辺』であり、そこから荒地の多い現在の長野県や山梨県の山間部の狭い土地にそば栽培が広がっていったと推測されている。
古代から中世にかけてのそばの食べ方は、現在のような『細長い麺状にしたそば(切りそば)』ではなく、そばを粉に挽いて熱湯で練った『そばがき(そば練り)』やそば粉を水で溶いて焼いただけの『そば焼き』、そばと米を混ぜ合わせて炊いた『そばめし』が主流であった。
そば粉(蕎麦粉)を細長い麺の形態に加工する調理法は、江戸時代の16世紀末から17世紀初頭にかけて開発されたが、江戸期には麺状にしたそばは『切りそば(蕎麦切り)』と呼ばれていた。『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』では、戦国末期~安土桃山時代の天正期(1573~1592年)に、甲州(現山梨県)で切りそばが作られ始めたという。当初は小麦粉(うどん)よりも安いそば粉を混ぜることでコストカットを図ることが、そば作りの一つの目的だったようである。
切り蕎麦(蕎麦切り)について記された最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原の定勝寺(じょうしょうじ)の寄進記録で、1574年(天正2年)の建物修復工事の寄進物一覧の中に『振舞ソハキリ 金永』という文書が残されている。江戸初期に李氏朝鮮の僧侶・元珍(げんちん)が日本の東大寺にやってきて、そばのつなぎに小麦粉を使うことを教えたことで、切り蕎麦(そば切り)が広まったとする説もある。
江戸初期には、寺院の茶席・法事などで『寺方蕎麦(てらかたそば)』として蕎麦切り(切りそば)が作られるようになっていったが、江戸(現東京)に蕎麦切りが伝わったのは1664年(寛文4年)と考えられている。当初は『蒸しそば』という商品名で、切りそば(麺状のそば)が提供されていた。1643年(寛永20年)の料理書『料理物語』には、饂飩(うどん)、切麦(きりむぎ)と並んで蕎麦切り(切りそば)の製法も収載されており、17世紀中期以降に切りそばは江戸を中心に日本全国に急速に普及して日常的な食物の一つとなった。
日本の伝統的な食材の一つである『こんにゃく・コンニャク(蒟蒻)』も相当に歴史が古く、インドシナ半島南部(東南アジア)が原産地である『コンニャクイモ』は、6世紀半ばには朝鮮半島を経由して日本に伝えられていた。古代の飛鳥時代の日本にコンニャクイモが存在していたことになるが、当時のコンニャクイモは『薬用』として珍重されていたようである。
遅くとも推古天皇(在位593年-628年)の時代には、コンニャクイモが中国から輸入されていたが、当時のコンニャクイモは腹の中の砂払い(不純物の除去)の効果があると信じられており、胃腸の調子が悪い貴族が薬(一種の整腸剤・胃腸薬)としてコンニャクを好んで食べていたと伝えられる。コンニャクイモには毒性(劇物のシュウ酸カルシウム)があるのでそのままでは食べることができず、イモを煮てから加工して食べる必要がある。
コンニャクイモの球茎を粉状にして、水と一緒に捏ねてからアルカリ溶液を加えて煮沸して固めたものが『こんにゃく(蒟蒻)』になる。コンニャクイモの粉を固めるためのアルカリ溶液としては、古代では灰を溶かした水溶液(水酸化カルシウム水溶液)が用いられていた。水酸化カルシウムや炭酸ナトリウム(炭酸ソーダ)の水溶液、草木を燃やした灰を混ぜた水溶液を加えて煮沸することで、コンニャクイモの粉を固めることができる。
食品としてのこんにゃく(蒟蒻)は、コンニャクイモに含まれるコンニャクマンナン(多糖類)を引き潰して糊化し、アルカリ溶液を加えて凝固させたものであり、ぷにぷにとした強い弾力がある独特の食感を持っている。少量のコンニャクイモの粉から大量のこんにゃくを作ることが可能だが、カロリーはほとんどなく食べても太ることがない。ただし、1日1キロ以上のこんにゃくを大量に食べると腸閉塞を起こすリスクがある。現在はゼロカロリーに近くて、食物繊維が豊富なこんにゃくは、『ダイエット食品(健康食品)』として人気があり、マンナンライフの『こんにゃくゼリー(現在は過去の窒息事故を受けてクラッシュタイプのもの)』のような商品も販売されている。
四角形の板状のこんにゃくを『板コンニャク』といい、『コンニャク突き』など刃物の付いた押し出す道具を使用したり、包丁で細長く切ったものを『糸コンニャク』と呼んでいる。昔は、コンニャクイモを皮ごとすり下ろしてこんにゃくを作っていたので黒かったが、現在は白いこんにゃくに『ひじき(海藻)』などを混入することでわざと黒い色を付けるようにしている。江戸時代に新たな製粉法が開発されて白いこんにゃくを作れるようになったが、コンニャクらしくなくて味気ない(コンニャクは黒いほうが味わいがある)と評判が悪かったので、ひじきなどを加えることで色を黒くするようになったのである。
鎌倉時代の仏教界ではこんにゃく(蒟蒻)が盛んに食べられるようになり、こんにゃくに味付けして煮たものを『糟鶏(そうけい,鶏の肉のカスのようなもの)』と呼び、こんにゃくの刺身を『ヤマフグの刺身』と呼んで珍味のように食べていた。江戸時代の元禄期から、庶民もこんにゃくを頻繁に食べる食習慣が作られていき、『おでん』の前身となるこんにゃくを含んだ雑多な煮込み料理が江戸の屋台で提供されるようになった。