粟おこし(あわおこし),有平糖(あるへいとう)

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あわおこし(粟おこし)

『あわおこし(粟おこし・粟興米)』は“岩おこし”とも呼ばれる大阪の伝統的な名物菓子の一種で、おこしの原型となった食品は、平安時代の乾飯(ほしいい)に近い食品だった『於古之古女(おこしこめ)』であるとする説もある。室町時代の頃までは、一部の貴族しか食べられない食品であったようである。

奈良時代にも『糒(ほしい,蒸した粟・米を乾燥させた保存食)』を蜜などで固めたあわおこしのようなお菓子があったとされ、個人の食用としてよりも初めは田畑の豊作祈願を祈るものとして神に捧げられる供物であったとされる。この神様に備えられた糒・蜜を原材料とする奈良時代からの供物が、粟おこしの起源であるとする説もある。

近代以前のあわおこしは蒸した『粳(うるち)・粟(あわ)』をまず乾燥させてから、それに黒砂糖を加えて型に入れて固めるという実にシンプルな和菓子であるが、現在では粳や粟は使わずに『米(白米)』を使うのが一般的になっている。

現在では、米を細かく粟のように砕いて炒り、水あめ等のシロップとゴマ・生姜などの食材を混ぜて型に入れて固めたものを『粟おこし』と呼んでおり、名前にある『粟』を使うことがなくなっている。『粟おこし』と『岩おこし』の違いは、粟おこしのほうが原料の米を少し粗めに砕いているので、歯ざわりがやや軽め(粟おこしは岩おこしよりは固くない)になっている。

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豊臣秀吉の大阪城築城によって大坂(大阪)は繁栄を極め、粟おこし・岩おこしは『身を起こし、家を起こし、国を起こす』という掛詞(かけことば)もあって、縁起の良いお菓子として普及していった。

江戸時代の大坂(大阪)は『天下の台所』と呼ばれる経済の中心地であり、良質な粟・米・飴などのおこしの材料が比較的安価に入手できたので、ますます大阪でのおこし作り(菓子作り)は盛んになっていき、大阪を代表するお菓子として全国区でも知られるようになっていった。米は値段が高かったことから、庶民が食べる粟おこしはその名称の通りに安価な『粟(あわ)』から作られることが多かった。

大阪の粟おこし・岩おこしには、菅原道真(すがわらのみちざね)公の故事(過去のエピソード)にちなんで『梅鉢の御紋』が入れられる慣例があった。菅原道真が冤罪を受けて太宰府に流される時、現在の大阪市上本町周辺で船待ちの休憩をしていると、言いがかりの流罪に同情した老婆が菓子を献上してきたのだという。感動した菅原道真は『菅家の梅鉢の御紋』が入った自らの着物の袖を老婆に与えてお礼を述べたという過去の逸話が残されている。

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粟おこしの製造方法は、江戸時代に編纂された百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』にも掲載されている。岩おこしの名称は江戸時代に大阪で運河工事をした際に大きな岩がゴロゴロと多く出てきて、『大阪の掘り起こし、岩起こし』と大阪人が駄洒落を言ったことに由来する。あるいは、歯がなかなか立たないお菓子の固さにちなんで『岩おこし』と命名されたのだという。

江戸時代前期の元禄年間(1688年~1704年)に、二ツ井戸津の初代・大和屋清兵衛(やまとやせいべえ)が粟おこし・昆布を売り歩いていたが、1752年(宝暦2年)には3代目の津の国屋清兵衛(つのくにやせいべえ)が昆布の販売を取りやめて、粟おこしの製造販売に注力・専念しだしたのだという。

3代目・津の国屋清兵衛の菓子販売が盛況であったことは、嘉永6年(1853年)の幕末に書かれた、都市の風俗や文化を説明した百科事典『守貞漫稿(もりさだまんこう)』にも記されている。

『守貞漫稿』には『大坂道頓堀二ツ井戸辺に、津の国屋清兵衛という者、享和・文化の頃よりこれを売る。始めは小行なりしが、今は近国西国にその名高く、繁昌して今に存す。当家の制は、粳を蒸して干飯となし、これをひきて小米糒となし、飴と琉球黒砂糖の上品を撰し、また出島糖を加え製す。故に堅きこと石の如し。号けて(なずけて)粟の岩於古志(あわのいわおこし)という…』とある。江戸(東京)でも大坂の粟おこし・岩おこしを模倣して製造販売が行われたが、あまり売れなかったのだという。

有平糖(あるへいとう)

有平糖(あるへいとう)は、ポルトガル人によって長崎に伝えられた南蛮菓子の一種で、ポルトガル語の『アルフェロア(alfeloa,茶色の棒状の砂糖菓子)』が訛ったものである。あるいは、精白された白い砂糖菓子の『アルフェニン(alfenim)』が語源であるとする説もある。

有平糖は氷砂糖に水飴を加えてから、煮て溶かして作るシンプルな砂糖菓子だが、後世では細工・装飾の技巧が複雑かつ高度になって高級品の有平糖も作られるようになった。有平糖は和菓子の干菓子(ひがし)の素材として使われることも多い。

有平糖(あるへいとう)は金平糖(こんぺいとう)と共に、ポルトガルから日本に初めて輸入された『ハードキャンディ(硬さのある飴)』と考えられている。有平糖は室町時代後期の1549年(天文18年)に、ローマカトリックの宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教と共に日本に持ち込まれたとされる。

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有平糖は『アルヘイ、アルヘル、アルヘイル、アルヘール』などと当時は呼ばれており、江戸時代中期の『長崎夜話艸(ながさきやわさく,1719年)』ではアルヘイと記されている。漢字表記でも『阿留平糖、金花糖、氷糸糖、窩糸糖』などの色々な表記があった。

砂糖を煮て作られる有平糖(あるへいとう)について書かれている書物には、『合類日用料理指南抄(ごうるいにちようりょうりしなんしょう,1593年)』『和漢三才図会(わかんさんさいずえ,1712年)』『古今名物御前菓子秘伝抄(ここんめいぶつごぜんかしひでんしょう,1718年)』『古今新製菓子大全(ここんしんせいかしたいぜん,1840年)』などがある。

有平糖・アルヘイを好んだ有名な人物として、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね,テレビドラマの暴れん坊将軍のモデル)や幕府重臣の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)、日野資勝(ひのすけかつ)などが知られている。享保の改革で贅沢を嫌って質素倹約を奨励した8代将軍・徳川吉宗は、江戸城の周りにあった板塀をより安価な松の木に変えたとされるが、その政策にちなんだ狂歌『まずいもの好き(将軍吉宗)が、おかしな公方さま、あるへい(有平糖)は捨てて松風にする』が詠まれたりもした。

有平糖は、原料の砂糖に水飴を加えて煮詰め、火から下ろした後に『着色・整形・装飾』の細工をして完成させるものになっていった。時代を経るごとに飴細工が細かく複雑になり、江戸時代の『文化・文政期』には『有平細工(アルヘイ細工)』と呼ばれて最盛期を迎えたとされる。

アルヘイ細工では、有平糖を棒状・板状に延ばしたり、空気を入れて膨らませたり、型に流し込んで色んな形に整えたりと、複雑で高度な飴細工が行われるようになっていったのである。季節に合わせて彩色され細工された有平糖は、『茶道の菓子』として用いられることも多いお菓子である。

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