古代日本への箸(はし)の伝来:中国と日本の箸文化

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中国大陸の黄河周辺に栄えた『黄河文明(紀元前5000~紀元前2000年頃))』は世界四大文明(メソポタミア文明・インダス文明・エジプト文明)の一つに数えられるが、黄河文明の主食はまだ米ではなく『粟(あわ)・稗(ひえ)』だったとされる。主食の粟(あわ)は沸騰させたお湯で煮込んで、おかゆのような形にして食べていたので、この時代の中心的な食具は『箸(はし)』ではなく『匙(スプーン)』であった。

古代中国の漢王朝(前202~後220)の時代に、ペルシアやインドなどの西方世界から『小麦(麺類)』が伝えられてから、少しずつ箸(はし)が庶民の食事でも使われていくようになったと推測されているが、箸の歴史的起源は更に古い。殷(いん,商)、周(西周・東周)、春秋戦国、秦の時代の主食は、上記したように粟(あわ)や稗(ひえ)であり、熱く煮立ったお粥のような形で食べていたので、匙(スプーン)ですくって冷やしながら食べていたと考えられている。

殷(商)の時代には既に『箸(はし)』が存在しており、紀元前11世紀頃には『易姓革命(湯武革命=周の武王による放伐)』で倒された暴君として知られる紂王(ちゅうおう)が、象牙の箸を作っていたという伝説がある。しかし、殷(商)の時代に製造された象牙製や青銅器製の箸は、実際の食事で使われていた“食具としての箸”ではなく、宗教的祭祀・儀礼に使われていた“祭具としての箸”の可能性が高いのではないかと考えられている。

“殷(商)”という王朝そのものが、国家の命運を賭けた戦争や重要政策について判断を下す時に、亀甲や骨を焼いてその割れ目で運勢(吉凶)を占う『卜占(ぼくせん=占い)』を用いる宗教国家でもあった。

殷(いん)は現代の鋳造技術でも完全に再現することが困難なほどの高度で細密な青銅器を製造していた事で知られるが、当時の青銅器は戦うための武具よりも神聖な祭器・祭具として使用されることが多く、『青銅器製の箸』も神に捧げる供物の食事を俗塵で汚さないために用いられた、『神聖・清浄(青銅で俗な汚穢を寄せ付けない)』といった意味合いのある特別な箸だったと推測される。

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平城京が建設される前の飛鳥時代の日本は、遣隋使を引き継ぐ形で630年に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使とする第1回の『遣唐使(けんとうし)』を派遣した。遣唐使は当時の国際的な大帝国であった唐王朝から、先進的な文明・文化・技術・知見を学んで文物を持ち帰ったり、仏教の経典・教義を収集し、最新の海外情勢を知るために派遣され続けたが、894年に菅原道真(すがわらのみちざね)の進言によって廃止された。

唐の首都の長安(ちょうあん)は、中国人(漢民族)だけではなくペルシア人やトルコ人、モンゴル人などが入り混じった大規模な国際都市であり、遣唐使として長安に入った留学生・僧侶たちは『唐の食文化・料理と食材・食具・什器』なども大量に日本に持ち帰った。当時の唐の食文化や食具・什器・美術品の趣きは、聖武天皇・光明皇后にゆかりの物品を収めた国宝である『正倉院(しょうそういん)』を見ても偲ぶことができる。

正倉院は当時のモダンな物品や美術品を大量に収めた倉庫であり、そこには天皇・殿上人(上流貴族)だけが保有することを許された唐三彩の器・銀器・ガラス器・カットグラス・ペルシア風邪の什器などが並べられており、この奈良時代あたりから日本でも匙と合わせて金属製の箸が使われるようになったのではないかと推測される。

日本の弥生時代の文化・風俗について言及している3世紀の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には、邪馬台国の卑弥呼の時代の日本人(倭人)は手食していたとあるので、まだ手づかみでご飯を食べるのが普通であり、この段階では箸や匙の食具は導入されていなかったようである。日本で箸が用いられるようになったのはいつなのかを正確に特定することは不可能だが、飛鳥時代(7世紀初め)の聖徳太子の時代には既に箸が使われるようになっており、古墳時代末期から飛鳥時代にかけて中国・朝鮮半島経由で箸が日本にもたらされたと考えられている。

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古代中国の“漢(前202年~後220年)”の時代には食具としての箸と匙をセットにして使うようになっていったが、朝鮮半島では三国時代を制した“新羅(しらぎ,356年~935年)”の時代から中国の箸文化の影響を受けて金属製の箸と匙をセットで使うようになり『匙箸(スジョ)』という言葉も生まれた。現代の韓国においても匙箸(スジョ)の食文化は生き残っており、韓国の正式な作法ではご飯を匙(スプーン)で食べて、菜類(おかず類)を箸で食べるという使い分けが為される。

ご飯を匙(スプーン)ですくい、菜類(おかず類)を箸で取って食べるというのは、古代中国の粟(あわ)の熱いおかゆを匙(スプーン)で食べていた時代の名残であるが、ヴェトナムでも韓国と似た食具(匙と箸)の使い分けが見られる。韓国の食事作法では、金属製の飯椀は手に持って食べてはならず(テーブルの上に金属製の椀を置いたままで匙でご飯をすくって食べなければならず)、木製・陶器製の飯椀(茶碗)を手できちんと持って食べなければならないとする日本とは異なる。

飛鳥時代(あるいは古墳時代末期)から奈良時代にかけて、箸と匙(スプーン)がセットで日本にも入ってきたと推測されるが、米を固めに炊く日本ではご飯を食べるのに匙(スプーン)は使いにくかったため、次第にご飯もおかずもすべて『箸(はし)』だけで食べる箸文化が普及・定着していった。箸は二本の棒きれからなる単純なものだが多様な使い方ができる万能の食具であり、一本を固定してもう一本を自由に動かしてほとんどの食べ物を挟んで(掴んで)食べることができる。

平安時代の朝廷では、箸台に『銀の箸と匙』『柳の箸と匙』の二種類のセットが配置されていたが、実際には匙(スプーン)は中国文明にならって形式的に置いているだけで余り使われず、ご飯を“柳の箸”で食べて、それ以外の菜類(おかず)を“銀の箸”で食べるという箸の素材による使い分けが行われていた。清少納言が書いた『枕草子』の記述(「箸、匙などとりまぜて鳴りたる、をかし」)では、箸と匙が共に金属製だった可能性も示唆されている。

室町時代になると匙は殆ど使われなくなり、箸だけが日本の万能の食具として定着していく。日本の箸は更に、その用途や相手によって細分化されていった。食事の時に使う一般的な箸は『御膳箸(ごぜんばし)』、お客さんに食べ物を取り分けるためだけに使う箸は『取り箸(とりばし)』、調理の際に魚介類を扱う『真魚箸(まなばし)』、調理の際に野菜や山菜、果物などを扱う『菜箸(さいばし)』といった形で箸の名称と用途が細かく分類されていったのである。

古代・中世の日本には味噌汁やすまし汁といった汁物もあったが、西洋の食文化のように汁物(スープ)を匙(スプーン)ですくって食べるという文化も根付かず、手にお椀を持って息で冷やしてから汁物を飲んだり、冷ましてから少しずつ飲んだりすることで対応した。

日本の箸の起源・原典は中国の箸にあるが、『日本の箸』と『中国・朝鮮の箸』は時代を経過するにつれてその形が異なるものになっていった。日本の箸の素材は『木(木製)』となり、次第に古代中国・朝鮮の正式な食具として使われていた『金属製の箸』は使われないようになっていった。

中国の箸は大皿から料理を取り分けるという目的を果たすために、日本の箸よりもかなり長く作られており、箸の頭部から先端までの太さがほぼ同じな『寸胴な形の箸』である。日本の箸は中国・朝鮮の箸よりも短めであり、魚を主なおかずにすることが多かった日本の箸は、細かい動きや食材の挟み込み(掴み取り)ができるように、先端が鋭く尖った形へと変わっていった。

殷(商)の時代以前にまで遡れる古代中国の箸は、朝鮮半島や日本列島、ヴェトナム(越)へと伝えられていき、それぞれの土地で独自の普及・発展・変形を遂げていったが、『箸(はし)』は東アジア文明圏に共通する普遍的な食具として定着することになった。箸文化圏は、古代から中世にかけての冊封体制(朝貢貿易)の範囲とも重なっており、箸を使って食事をするという食文化は非常に分かりやすい『東アジア文明圏(近世以前の中華文明の影響圏域)』の特徴になっている。

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