新田次郎『剱岳 <点の記>』の感想

以下は、『剱岳 <点の記>(新田次郎著、文春文庫)』の紹介と感想になります。

明治30年代の公式記録では誰も登頂したことがない『未踏峰』となっている越中の剱岳(標高2999m)、その頂上を目指すのは陸軍省付属の“陸地測量部”と民間で発足したばかりの“日本山岳会”である。

明治政府の成立以降、日本各地の未踏峰に次々と三角点を設置して正確な日本地図の作成を進めてきた陸地測量部(官)からすれば、ただ山に登りたいから登るという日本山岳会(民)は『趣味・遊び・スポーツの延長線上にある団体』にしか見えない。陸軍上層部(大久保少将)は、測量の現場の責任者となる柴崎芳太郎(しばさきよしたろう)に、官の威信に掛けて日本山岳会よりも先に剱岳の頂上に立ち三角点を設置せよという命令を下した。

冒頭では、柴崎芳太郎と日本山岳会幹事の小島烏水(こじまうすい,本名は小島久太)の爽やかな遭遇が描かれ、小島の明治時代の男らしくないスマートで洒脱な微笑を交えた会釈が印象的である。実際、陸軍上層部は日本山岳会を目の敵にして負けまいとしているが、柴崎と小島の間には個人的な敵対心はなく、物語の終盤には山岳会のメンバーと剱岳に登頂するに当たって有益な情報の交換を行ったりもする。

明治期より前の未踏峰とされた剱岳は、密教の超能力を持つとされた弘法大師・空海が草鞋三千足を費やしても登れなかったとされる峻険さを極めた山であり、越中の登山基地となる芦峅寺(あしくらでら)の人たちは、尖った複雑な尾根を持つ剱岳を『死の山・針の山の地獄』とする立山信仰を信じていた。宿坊と案内人を備えた立山登山の拠点として最も有名なのが、芦峅寺・岩峅寺(いわくらでら)の集落である。

剱岳は古代からの霊山であり、立山曼荼羅の信仰対象となる地獄の山であったため、立山信仰を持っている人は剱岳の頂上に登ってはならない(登頂してしまうと剱岳が人が登れない死の山という前提が崩れる)とする禁忌があった。剱岳は古代から中世にかけて行者が信仰登山に成功したのではないかという伝承もあったが、『登れない山』であると同時に『登ってはならない山』だったので、登頂を試みる人がそもそもいなかったのだった。

立山の信仰登山に慣れていて山・自然に関する知識も豊かな芦峅寺の案内人の山男たちは、本来であれば柴崎測量官に協力してくれてもおかしくなかったが、『剱岳登頂を禁忌とする立山信仰』によって協力したくてもできなかったという話が後書きに記されている。芦峅寺の案内人に代わって、柴崎芳太郎ら測量官を献身的にバックアップして剱岳山頂を目指して案内してくれるのが、立山信仰の禁忌に縛られない大村山和田の宇治長次郎(うじちょうじろう)宮本金作(みやもときんさく)、岩峅寺の岩木鶴次郎(いわきつるじろう)という日本の登山史にその足跡を残すことになる勇気と判断力のある山男たちである。

小説本編の後には、著者の新田次郎氏が『立山の主』といわれた佐伯文蔵(さえきぶんぞう)氏に案内してもらって剱岳登山に挑戦したり、山深い立山温泉(既に廃業し廃墟になっている温泉宿)を迷いながら訪問したりする様子が紀行文の形式(後書き末尾の年次は昭和52年)で掲載されており、なかなか読み応えがある。昭和52年は平成26年の現在からすれば随分と昔だが、新田次郎が訪れたのは昭和の後期だから、既に柴崎測量官らが登った明治40年頃の剱岳の自然・施設・交通の様子は大きく様変わりしている。小説において重要な登山の宿泊拠点として描かれ、市役所の意地悪な職員との対立の場にもなっている山中の『立山温泉』も昭和50年代には廃業してしまって久しいのである。

明治40年の剱岳は未踏峰であるから当然頂上にまで続く登山道などは存在しないが、そもそも『剱岳が登れない山とされる理由』は頂上にまで登れる道が不明であり、どこからどのようにして登れば良いのかが分からないということにあった。この小説で剱岳の頂上に至るルートのヒントを与えてくれるのは、『玉殿の洞窟』で静かに瞑想に耽っている行者(修験者)である。宇治長次郎が行者様と敬意を込めて呼ぶその男が、もし剱岳へ登るならば『雪を背負って登り、雪を背負って帰れ』という意味深長な自らの師が言い残したという言葉を教えてくれる。

剱岳登頂を目指す柴崎と長次郎らは、何度も繰り返し下見を重ねる。剱岳の周辺にある立山連峰の山々の頂からあらゆる角度で剱岳を観察する柴崎は、詳細なスケッチ図を描くことで『頂上にまで辿りつけそうなルート』を検討する。剱岳を取り巻く『大日岳・奥大日岳・別山(べっさん)・真砂岳(まさごだけ)・大汝山(おおなんじやま)・雄山』への登山のプロセスも詳しく描写されているが、測量官としての柴崎芳太郎の職務遂行の意識とそのための測量技術の高さには感嘆させられる。

雷鳥沢・室堂平・浄土沢を見下ろす『室堂乗越(むろどうのっこし)』から剱岳を見上げて、早月尾根・カニノハサミを通っての登頂を考えたり、剱岳頂上から北に延びる尾根にある『大窓・小窓・三ノ窓』の3つの難所を越える方法を模索したりする。いずれにしても、最大の課題は『頂上直下にある岩壁』であり、岩登りの名人である宇治長次郎をもってしてもこの難所を乗り越える算段が立たないのである。

峻険な尾根が連続する剱岳を見上げる柴崎芳太郎は、『柴崎がいままで見たことのある山のすべてと違っていた。それは岩峰と岩峰を数限りなく重ねて作り上げられた険しい山であった。美しさより、山の険しさが視界いっぱいに拡がる巨大な岩山だった。険しさが人を寄せつけない恐ろしさにかわり、人の世とは隔絶した山に見えた。見詰めていると、山に押し倒されそうだった。白い寒さが風となって吹いて来て身が凍りそうだった』という素朴で実直な感想を漏らすが、測量・地図制作を目的とする『科学の知識と官の職務に基づく剱岳開山への熱意』が衰えることはない。

小説『剱岳 <点の記>』では、現代とは比較にならないほど性能が低くて重たい『登山の装備・道具』、現代のような登山道が整備されていないどころか『登頂ルートさえ不明な状況』を前提とした“過酷で危険な剱岳登山”がダイナミックに描かれているが、未踏峰とされる剱岳が既に『宗教的な開山』を佐伯有頼(慈興上人)の手によって奈良時代に終えているという伝説が伏線として効いている。柴崎芳太郎が電車の中で見た白昼夢のような不思議な修験者の老人が、『古代~中世の日本における修験道の濫觴時代(らんしょうじだい)』について語りかけてくる。

修験者の老人の語る言葉は、その目的は違っていても危難を乗り越えて飽くまで登頂を目指す『近代登山』『宗教登山』の類似点を間接的に示唆するものであり、この小説では『近代的な山岳会登山の登場と台頭』という歴史的な登山形態の変化についても所々で言及されているのだ。『宗教の信仰登山・官の測量登山(三角点設置)』に必然的に取って代わると予測されているのが山岳会登山であるが、更に時代が進めばこの山岳会登山も衰退して愛好家・個人の趣味的な登山が中心になってくる。現代の登山ブームもまた、宗教信仰とも測量のような公務とも団体とも関係しない『愛好家・個人の趣味的登山』が主流である。

幻想的な修験者の老人は、『大日如来を胸に抱いた古代・中世の修験者は、即心即仏・生仏不二の秘境こそ即ち山岳の頂上と捉え、如何なる峻険な山にも恐れず決死の覚悟で登ったのだから、日本の山で修験者が登れなかったという山はない』と断言し、剱岳もその例外ではなくその山頂には奈良時代の修験者が捧げた錫杖・剣といった遺物があるはずだと語る。真言密教において『聖なる山(大日如来のまします山)』であるべき剱岳が、江戸期の加賀藩の利益とも関係した立山信仰によって『死(針)の山』とされたのは不幸だったと語る老人は、柴崎に対して『剱岳は、あなたによって来年は必ず開かれるでしょう』という予言を言い放つ。そして、私が個人的に心に響いた老人の言葉は、予言の後に続けられた以下の言葉だった。

『剱岳は、あなたによって来年は必ず開かれるでしょう。そしてあなたは頂上で遠い遠い時代の先達が残したなにものかを発見するでしょう。あの山の頂に測量旗が立つことは、あの山の高さが正確に分かることになり、あの山に三角点ができたとなれば、あの山を怖がる者はいなくなるでしょう。山は神であり同時に仏でもある。権現思想には拒絶はない。登りたい人は誰でも登って、山気、霊気に触れて来ればいいのだ。つまり、あなたが剱岳に登ることの意味は、宗教的開山の意味といささかも違ってはいないのだ』。

この修験者の言葉は、宗教的登山と科学的登山の融合の宣言であると同時に、厳粛と思われがちな修験道の登山が近代的な開かれた自由なアルピニズムの精神にも接続する可能性があることを示しており、『山は拒絶せず、登りたい人は誰でも登ればいい』というこの神仏習合の権現思想(神仏分離令・廃仏毀釈を行った明治政府へのアンチテーゼでもあるか)は、登山と山に登る人間の魅力を端的に伝えてくれている。もちろん、この作品の主題は明治時代の測量官である柴崎芳太郎の実直・寡黙な職業意識・使命感といった部分にも当てられているし、卓越した天才的な岩登りの技術を駆使する宇治長次郎の慎重で剛胆な活躍にも魅了されてしまうのだが、『剱岳の厳しい自然の中を歩き登る人間の姿』に開かれた自由とその充実感を感じてしまう。

タイトルになっている『点の記』とは『三角点設定の記録(明治21年以降は国土地理院が保管する永久保存資料)』のことであり、その記録には三角点標石埋定の年月日及び人名、覘標(てんぴょう=測量用やぐら)建設の年月日及び人名、測量観測の年月日及び人名、三角点に至る道順、人夫賃、宿泊設備、飲料水などの必要事項が記されている。測量官の柴崎芳太郎が後世に残した『点の記』を元にして紡がれる新田次郎の山岳小説が『剱岳 <点の記>』であるが、明治時代の登山の厳しさと楽しさの両面が伝わる作品だ。『当時の官吏の職業意識・使命感の高さ』と『発足したばかりの日本山岳会の前途洋々たる雰囲気』も合わせて感じ取ることができ、剱岳を巡る歴史伝承の重厚さについて改めて学ばされる所も多かった。

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