田澤拓也『百名山の人 深田久弥伝』の感想

以下は、『百名山の人 深田久弥伝(田澤拓也著,角川文庫)』の紹介と感想になります。

深田久弥(ふかだきゅうや,1903-1971)といえば『日本百名山』を選定した登山家・作家として知られるが、深田久弥その人の詳細な人生や人間関係、家庭生活についてまで知っている人は少ない。本書『百名山の人 深田久弥伝』は、『第一章 茅ヶ岳に死す』から始まる深田久弥の伝記的な作品であり、深田の登山家としての顔以外の顔に触れることができる。1971年(昭和46年)3月21日に甲州(山梨県)の茅ヶ岳(かやがたけ,1704m)で脳血管障害を起こして急死した場面から、過去の深田久弥の波瀾万丈の物語が語られだすという構成である。

茅ヶ岳で死去した1971年には、既に深田久弥は世に知られた高名な登山家(日本山岳会の重鎮)であったため、深田が脳卒中で倒れたという緊急事態を知らせるために山を駆け下りる山村氏などは、色紙にサインを求めるような『深田のファン』でもある。山村氏は想定外の深田の危篤に遭遇したことで、足ががくがくと震えていたと描写されているが、本書を読む面白さの一つは『高名な登山家の知られざる私生活・人間関係(人脈)』に触れられるというところにある。

深田が登山に好んで携行していた間食はアンパンだったこと、亡くなった60代後半でも体重が70キロ以上あるがっちりとした大柄の体格だったことなども分かる。深田が少年時代から遠望して憧れていた山は、加賀の生まれ故郷から見える『白山』であり、登山に強い興味を持つきっかけになったのは、小学校高学年の時の『富士写ヶ岳(942m)』の遠足登山でお前は足が強いと褒められたことだったという。自分は褒められて伸びるタイプなのだと自己言及したりもしている。

百名山を選定した深田久弥の一般的なイメージは、生涯を通してひたすらに山を愛して好きな山に登り続けたストイックでおおらかな山男といったものになりがちだが、実際の深田は家庭生活や女性関係ひとつを取ってみても、『世間一般の常識・倫理の枠組み』に収まらない破天荒さと我の強さを持っていた。深田は小さな頃から頭脳明晰で読書を好む知性の高い少年であったが、学業優秀であってもいわゆる努力を持続するタイプの優等生やガリ勉のタイプではなく、自由気ままで不真面目な風来坊の側面が強かったようだ。

将来に何になりたいかという質問に対しても、『坊主か乞食になる』と答えるようないい加減さで、旧制中学では『授業が面白くないから』という理由で電車を途中下車し、九頭竜川の河原で寝転んで景色を眺めたり読書をしたりして授業をサボっていた。堅気の職業人や専門家をコツコツ目指すという律儀な気質には乏しく、それがヤクザな商売でもある作家業へと深田の人生を進めていくのである。深田久弥は福井中学に在学中から、文学と登山にのめり込んで熱中するようになるが、雷鳴轟く豪雨の悪天候の中を登った白山で初めて、『山の恐ろしさ(運が悪ければ死んだかもしれない状況)』を経験したという。

中学時代に勉強をサボっていたつけなのか、金沢の四高受験には一度失敗するが、その後、留年して東京帝国大学への進学につながる一高受験(文科乙類ドイツ語)に合格している。福井中学・一高における深田久弥の人脈や知己には、中野重治(なかのしげはる)・堀辰雄(ほりたつお)・神西清(じんざいきよし)など、後に文学者・思想家・経済人となる錚々たるメンバーが顔を揃えており、一時の深田は小林秀雄(こばやしひでお)とは親友のような深い付き合いをしていた。

深田久弥と小林秀雄は、共に何度も登山をしたこともある仲であり、元妻(北畠八穂)の代作の暴露によって低迷した小説家としての仕事に関しても、小林は『登山に関する著作に専念したほうが良い』というアドバイスをしたりしている。更に近代文学や詩に没頭していた深田は、文学界の先達である斎藤茂吉・芥川龍之介などとも面会して文学論や学校生活にまつわる会話をしており、明治・大正時代の一高・東京帝国大学の人間関係の深みを感じさせられた。

東京帝大の一年になったばかりの深田は、一高時代の後輩である吉村恭一・山崎不二夫と一緒に『八ヶ岳縦走』を試みているが、この縦走で硫黄岳山頂の北側にある岩壁をグリセードで降りている時に、後輩である吉村が急峻な雪面で制御を失って滑落死するという悲惨な遭難事故が起こっている。この親しかった友人の吉村の死は、深田にとって終生忘れられぬ遭難事故の記憶となったが、深田は吉村が死してもなお『山への情熱・興味』を失うことは全く無く、その2ヵ月後には朝日連峰・大鳥池に登っている。

深田のプライベートの記述も相当に詳しく書かれており、東大在学中に入社した『改造社』の懸賞小説の下読みを通して知り合った青森出身の北畠美代(きたばたけみよ,1903-1982)と恋愛関係となり、1929年(昭和4年)から同棲を始める。『第二章 二人三脚』にあるように、深田久弥の小説家としての作家人生は全面的に北畠美代(作家としての筆名は北畠八穂)の文才に支えられたものであり、北畠美代が考案して下書きした小説の物語を深田が手直しして発表したものだった。

小説家としての地位を確立した深田久弥の名前で発表された1930年の『オロッコの娘』、1932年の『あすならう』も、北畠美代の手によって書かれた作品である。基本的に深田には小説の創作物語を書く才能が欠けていたため、北畠が深田に小説の原稿を手渡してそれを深田が清書してから自分の名前で発表するという夫婦二人三脚の時代が続いたのである。北畠は背骨が結核菌に冒される『脊椎カリエス』の持病を持っており、家事や妊娠出産が困難であることから、深田の父親から結婚を反対されていたというが、1940年(昭和15年)に入籍している。しかし、深田は自分の作家人生を『陰の代理人(縁の下)』として長く支え続けてくれたこの北畠美代(北畠八穂)を裏切って、再会した憧れの初恋の相手・木庭志げ子(中村光夫の姉)『不倫の恋』にはまってしまうのである。

1940年3月に北畠と結婚した深田だったが、1941年5月に初恋の女性である木庭志げ子と再会して男女の関係を持つようになり、1942年8月には何と木庭志げ子は深田の子ども(長男の森太郎)を出産してしまう。脊椎カリエスで寝たきりである北畠美代の目を盗んで、何度も密会を繰り返した挙句の木庭の出産に激怒する北畠には、『小説の代作までして尽くしてきた私を裏切るなど許せない』という思いがあったが、初恋の相手との逢瀬(性愛)にはまり込んだ深田はどうにも止まらない。

その後、深田は戦争で徴兵されて満州へと派遣されるのだが、復員してからも妻の北畠の元に戻ることはなく、そのまま志げ子と再婚してしまった。他のエピソードを通しても何度か語られるのだが、深田久弥はなかなかに『女好きな男(外国のオペラ演奏中にも貴婦人の観賞に意識が逸れてしまう男)』でもあり、脊椎カリエスの寝たきりで性交渉もままならない北畠と学生時代に惚れていて健康で自分の子を出産までした木庭とでは『女としての魅力』に違いを感じてしまったのだろうか。いずれにしても、自身の子を木庭が身籠ってからは、深田は糟糠の妻である北畠を蔑ろにして家に寄り付かなくなってしまった。

しかし、この手ひどく冷淡な仕打ちが、プライドの高い才女の北畠を憤怒に駆り立てないわけがない。1947年に正式に離婚が成立するとすぐに北畠は『今までの深田久弥の小説作品はすべて私が書いたものである。今後は私は自分の名前で自分の作品を公開することにする』と公表して復讐するのである。作家としての深田の名声は泥に塗れて、その後の10年間は殆どまともな仕事がない状態になったが、北畠は北畠で、1948年(昭和23年)には自分よりも15歳以上若い白柳美彦(しらやなぎよしひこ)と同棲を始め、男女関係を超えた不思議な穏やかな信頼関係を手に入れることになる。

北畠にも『東大至上主義・地位や金銭を巡る俗物志向』といった性格のトゲトゲしさがあり、その点でやや脱俗的なところのある深田久弥との性格・価値観のズレが生まれていた可能性もあると思うが。文筆家の仕事面で世話になってきた北畠美代を切り捨てて、昔の初恋の相手であった木庭志げ子を選んだというのは深田久弥の『宿業』を感じさせる。だが、この小説家としてのキャリアを諦めざるを得ない男女関係の転機が、深田の『山岳小説家への転向』を生んだという面もある。

1962年(昭和37年)には、深田久弥から受けた不誠実な裏切りや代作(深田の文才の乏しさ)について『右足のスキー』(『新潮』5月号)という作品で比喩を用いたほのめかしを行ってあてつけをしているほどであり、当然であるが終生にわたって深田との交遊関係も修復されることは無かった。

身体の丈夫さと無二の健康を自分で誇っていた深田久弥は、皮肉にも1971年3月21日に茅ヶ岳で脳卒中で急死したが、脊椎カリエスの持病で殆ど寝たきりの時期が多かった北畠美代(北畠八穂)のほうは、1982年(昭和57年)3月18日まで生きて78歳で閉塞性黄疸症で亡くなっている。10年以上も元妻の北畠美代のほうが長生きしていて、晩年は介護を引き受けた白柳美彦との穏やかな事実婚の生活を謳歌できたというのは、北畠にとっては『代理的な救済』のようなものだったのかもしれない。

深田久弥自伝である本書の最大の読みどころは、深田のヒマラヤの高山への熱中と登山・ヒマラヤに関連する膨大な書籍の蒐集(入ったお金はすぐに高額な外国語の山の本に費やしてしまい貯蓄も殆どないほど)、ヨーロッパから中央アジアを巡る世界一周に迫るような長旅、『日本百名山』の選定に至るまでのプロセスなどである。深田は山に興味を持ってから、ヒマラヤの峻厳で清浄な高山の世界に強い憧れを持ち続けていた。中央公論社から『ヒマラヤ――山と人』を出版した時に入ってきた印税も、『アルパイン・ジャーナル(全60巻)』の購入にすべて費やしたというが、深田久弥は登山を愛好する風流人のような生き方をしていたこともあり、中学生の森太郎(長男)の子ども目線の感想として『山にばかり出かけてちっとも仕事をしない父』といった表現も為されている。

深田は登山や山の高価な希少本を除いて、その暮らしぶりは貧しくて質素なものであり、衣服や髪型などに洒落ることもなく身の回りのことには殆ど構わず、都会の街中でも登山用のボロ服を着て堂々と歩いていたという。昭和33年(1958年)春には、長年憧れていたヒマラヤに行けることになるが、『深田久弥氏ら四人 ジュガール・ヒマールへ』という朝日新聞の記事が出て、深田久弥・風見武秀(写真家)・山川勇一郎(画家)・古原和美(医師)の平均年齢45歳の4人でヒマラヤの7000m級の山にチャレンジすることになった。

深田の語る極めて漠然とした曖昧なヒマラヤ登山計画に、プロの登山家は驚いて呆れたりもするが、ヒマラヤへの純粋無垢な熱意に動かされて様々なアドバイスをして上げたくなるような人物が深田なのである。当時54歳という年齢だったが、深田の気持ちは若々しく体力も充実しており、ヒマラヤに登った欧米の50~60代以上の中高年登山家の例を引きながら『ボクなんかまだ54歳ですし』と言いのけてしまうのである。

この精神の若々しさと新たな困難(高いレベルの課題)へのチャレンジ精神は見習いたい。当時のヒマラヤ登山には『日本政府の海外渡航許可・ネパール政府の入国と登山の許可・外貨調達』という3つのハードルがあったが、それを何とか飛び越えて、神戸港を出発してシンガポール、ペナン、ラングーン(ヤンゴン)を経由してインドのカルカッタに到着した。カルカッタからは陸路でヒマラヤのあるネパールの山岳地帯に入っていくのだが、膨大な重量になる4人の登山隊の荷物を約80人ものポーターが運んでくれて、この様子を見た深田久弥は『わが生涯でこれほど豪勢な首途がまたとあろうか。パリ出発のモスクワ遠征軍を見送るナポレオンの胸中も、かくのごときものであったろうか』という興奮を抑えられない感じの言葉を残している。

標高4100mのジュガール・ヒマール山麓から、二つの氷河に囲まれた当時未踏峰のビッグ・ホワイト・ピーク(標高7083m)を目指したのだが、悪天候で停滞した深田が『夜間の小便の近さ(頻尿)』に悩まされるという小話も挟まれ、強風と吹雪で前進に困難を極めた深田らのパーティーは遂に主峰のビッグ・ホワイト・ピーク登頂を諦めて撤退した。元々、ヒマラヤの高山の頂上を何が何でも踏んでやろうとする征服型の登山ではなく、生命確保と安全第一を優先した登山だったので、強風と吹雪、霧などの悪天候が続いた状態でそれ以上粘らずに撤退を決断したのは賢明だっただろう。

深田久弥は約4ヶ月かかったヒマラヤへの長旅(昭和33年)を終えてから、昭和34年に山岳雑誌『山と高原』で『日本百名山』の連載をスタートさせ、その年と翌年には日本百名山選定のための取材も兼ねて、2年連続で北海道の長期の山旅を敢行している。昭和34年には家族で北海道に出かけて、斜里岳(1547m)、雄阿寒岳(1371m)、羅臼岳(1660m)、羊蹄山(1898m)などに登頂した。翌年の昭和35年には、長年の友人である風見武秀・望月達夫らと共に、北海道の礼文島・利尻島にある礼文岳・利尻山にまず登ってから、更に十勝岳や大雪山系の山域に分け入ったりしている。

朋文堂の山岳雑誌『山と高原』の昭和34年(1959年)3月号から、深田久弥が戦前から暖めていた登山企画(『山と高原』以前にも中止された類似の百名山企画があった)の『日本百名山』の連載が始まったのだが、自分の足で頂上を踏んで自分の目で山を見てから選ぶという経験主義に根ざした日本百名山の選定企画は当時から非常に人気があった。その詳細については、本書の最終章である『第六章 百名山の人』を参照してみて欲しいが、詳細な日時と記録、エピソードに満ちた本書は深田久弥の人となり、実際の人間性、当時の深田の幅広い人脈(登山に関心を持った文人たちとの交流)に触れるにはうってつけの一冊である。

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