本田靖春『K2に憑かれた男たち』の感想

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以下は、『K2に憑かれた男たち』(本田靖春著、 ヤマケイ文庫)の紹介と感想になります。

1977年8月、難易度の高い世界第二の高峰として知られる『K2(8611m)』が日本人によって初登頂された。K2は挑戦した登山家の死亡率が26.8%もある『魔の山・最凶の山』であるが、K2のようなヒマラヤ山脈の8000m峰で日本人にとっての未踏峰は『登る前の準備段階』が途轍もなく大変なのである。『K2に憑かれた男たち』ではその魔の山に登る前の『入山許可の取り付け・資金援助・メンバー選抜・職業生活とのバランス』が詳細に描かれていて、1970年代の功名心や野心が漲る登山界のリアリティーが突出している。

『日本ヒンズークシュ・カラコルム会議(HKT)』の1974年のパスー(7284m)登山敗退の理由は、隊長である福岡登高会の新貝勲が隊員をまとめきれずに対立を招いたことにあった。本作では『高峰登山の極限状況における人間性の変化・人間関係の反目・功名心争い』を描くことで、一般にイメージされる滑落・気象・疲労(低体温症)の登山の難しさとは違った、チーム登山の人間関係(対人的な人間心理)の難しさを伝えている。

1960年代後半からインドとパキスタンの国境紛争という政治的理由によっても、ヒンズクーシュ・カラコルムの山脈に入山するのは難しくなっていたが、『入山許可証』を得るための老練な官僚のアワンとのやり取りも見所である。8611mの威容をたたえるK2は第二次世界大戦以前には誰も登頂することができなかった峻険な山で、大勢の登山家が生命を落としてきた魔の山として恐れられてきた。K2登山史の概略についても触れることができる。

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近代登山のK2に対する初めての挑戦は、1902年のイギリス、オーストリア、スイスの合同隊6人によるオスカー・エッケンシュタイン国際隊で、空路が未開拓の時代でもあり長距離の歩きでの遠征をしての苛酷な登山となり、K2北東稜6680mで体力の限界に達してしまった。二回目の挑戦は1909年のアブルッチ侯率いるイタリア隊13人だが、6000m地点で敗退してしまう。1938年のチャールズ・ハウストンが率いるアメリカ隊も頂上ドームの基部7900mで断念し、1939年のフリッツ・ウイスナー率いるアメリカ隊6人の挑戦は頂上直下にまで登ったが隊員1人とシェルパ4人の死亡という犠牲を出して退却せざるを得なかった。第二次世界大戦以前のK2挑戦はことごとく失敗に終わったのである。

第二次世界大戦後の1953年には著作『K2――非情の山』で知られるアメリカのチャールズ・ハウストン隊のK2登山が行われたが、アブルッチ稜からの登頂を試みたものの、7700m付近で隊員が血栓性静脈炎を発症して断念、更にこの発病した隊員を乗せた橇(そり)が雪崩に巻き込まれる悲劇まで起こってしまった。記録が残されている限り、人類が初めてK2に登頂したのは1954年のことで、アルディト・デジオ教授を中心としたイタリア隊が挙国一致体制で莫大な予算を投入してK2の頂上を落としたのである。多くの犠牲を出した半世紀近い登山のチャレンジの結果でもあった。

本書『K2に憑かれた男たち』では、K2登山に臨んだ登山家・隊員のひとりひとりの人生の履歴やエピソードについて詳しく掘り下げているのも特徴で、1970年代の高度経済成長期を生きた山男たちの『下界の仕事・生活・家族』『野心的で危険な高峰登山』の危ういバランス感覚、山と職業の両立の難しさを知ることもできる。世界の高峰を生死を賭けて極めようとする登山家、寝食を忘れるほどに山にのめりこんでしまう山男であっても、職業に就いて働かなければ日々の生活や家族を支えていくことができないし、海外登山に出かけるだけの費用を工面することもできないのである。

本書で主役的な位置づけにある福岡県出身の新貝勲も、登山の野心・満足と引き換えに安定した職業である法務教官(国家公務員)の地位を捨てた人物であり、法務教官を辞めた後に福岡市の共立事務機という小さな会社に務めて社長にまでなるのだが、『社長業よりも登山を優先』にどうしてもなってしまい、遂にそこも辞めてしまう。しかし新貝の地元の交友関係の広さや人間的な魅力に目をかけてもらった社長のおかげで、同業の大島事務用品で仕事を得ることができた。新貝が初めて山に登ったのは昭和12年(1937年)の小学校2年生の夏で、工専山岳部のキャプテンに連れられて福岡県と佐賀県の県境にある背振山(せふりやま,1055m)に登ったのだという。

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新貝は子供時代の背振山登山をきっかけに山に魅了されて『東西南北の山に全部のぼりたい』と綴り方の授業で書いたというが、福岡工業・機械科の中学校に進んだ新貝は厳しい練習に明け暮れる野球に熱中した。昭和24年に中学を卒業してからの新貝に再び山の夢が蘇るが、新貝は既成の山岳会を嫌って諏訪多栄蔵などの本で独学しながら『一匹狼の登山』を続け、自分自ら『福岡登高会』を設立するに至ったのである。新貝に限らず、本書では隊員ひとりひとりの仕事と登山の両立の難しさ、登山費用の個人負担の大きさ、自分勝手な山男についてきてくれる女性との結婚など、さまざまなサイドストーリーが散りばめられていて読み物としても面白い。

当時の日本の登山界で主流のエスタブリッシュメントは何といっても『日本山岳会』であり、その中枢には慶応・京大・早稲田などの『登山部の学閥・先輩後輩関係』があって、エベレストやK2のような世界の高峰に登るメンバーの多くは主に日本山岳会・大学山岳部の関係者から選ばれるのが常識であった。そんな登山界の時代背景の中で、一匹狼の社会人登山家である新貝勲が、当時最大の登山の挑戦になる『K2遠征隊の隊長』になろうなどとは誰も夢想だにしていなかったのである。

新貝勲を隊長に据えるK2遠征計画の起点はHKT(ヒンズクーシュ・カラコルム会議)の会議長で書斎派(登山の実践より情報・研究に功績がある)の吉沢一郎の名誉心とも関係しているが、HKTの金沢会議で静岡登攀クラブの秋山礼佑によって提案されたのが始まりだった。大キャラバンの結成、8000m峰に必要な酸素ボンベの搬入コスト、K2遠征の莫大な費用など多くの課題を抱えたままの見切り発車でのK2遠征計画だったが、吉沢一郎HKT会議長は日山協海外登山研究会でそのK2遠征計画を宣言して失笑と期待の両方を集めることになる。

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新貝勲がK2遠征のメンバーを集めるプロセスも読み応えがあるのだが、全西日本隊のパスー登山で寄り合い所帯の登山隊の分裂(結束の脆さ)を知った新貝は独自の『築城理論』を実証するための登山隊のメンバーを集めようとするのである。新貝のチーム登山に関する考え方である『築城理論』というのは、野にある無名の登山家たちを広く求めて、見も知りもしない人たちの横のつながりと団結で一つの山の頂上を極めるというものである。集められた一つ一つの石(個人)はただの石(無力な人)に過ぎないが、それらをがっしりと石垣のように組み上げていけば『美しさ+力』が生まれて大きな目標=登頂を達成できるとするものである。

K2遠征のための資金集めでは『九州財界とのコネクション』や『政治家・秘書(相沢英之・秘書の手島)とのパイプ』を活用するのだが、産業界の大物や政治家・秘書などが新貝らのK2遠征計画に資金援助や協力をしてくれた最大の理由は『すべてをなげうってでも夢をひたすら追い続ける新貝勲の純粋さ・チャレンジ精神』であった。高峰登山という活動が、現在のような『個人・団体の趣味』ではなく『政治・経済・社会・報道も巻き込んだ人間の限界への挑戦(国家的な栄誉)』の意味合いを持っていた時代の恩恵もあるのだろう。

K2登山の過酷さや危険性は確かに誰がいつ死んでもおかしくないものであるが、BC(ベースキャンプ)での1977年当時の隊員の食事・料理の様子の描写などは、普段はなかなか知ることのできない情報でもあって興味深かった。原則としてBCでは隊員は好きなだけ何でも食べていい酒も飲んでいいということになっているのだが、『干しガレイの酢の物・小松菜の栽培・ポーランド隊が残していったコーンビーフや豚肉の缶詰』など多彩な料理を食べた後に、食糧が不足してくると隊員たちは自己中心的になって他人のことに構わなくなってくるというのは『極限状況における人間の本性』の漏出なのであろう。

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K2登山隊の隊長を務めた新貝勲は『指揮官の孤独』について語るが、新貝は人間関係にある『情』に脆いからこそ隊員たちの苦情・注文・不安に直接関与しないようにして、副隊長の原田に指令と苦情の受け付けを任していたのだという。登山隊の隊長という職務の難しさは、『山好きの一匹狼(本質的には我こそが登頂したいのエゴイスト)の集団』をまとめる難しさであり、『登頂者の名誉(大多数の人はサポート要員になってしまう)』を求めて争い合う隊員たちのチームワークをぎりぎりまで維持しなければならないのである。

現代社会は倫理道徳や社会福祉によって『弱者救済』を図ることが社会進歩のものさしになっているが、文明・経済・他者の力を極限では借りることのできない自分のことだけで精一杯になってしまうことのある『山(高峰登山の世界)』では、逆に原始的な『弱肉強食・適者生存・すべてが自己責任』に舞い戻ってしまうところがでてくるのである。チームワークも厳しい高山の環境に耐えて危険な難所を登攀できるような『強者』だけが残って強化されていき、生死を賭けたハードな登山についてこれなくなった『弱者』は必然の結果として切り捨てられて置いていかれること(自分で下山の道を歩まされること)になる。

K2登山隊には実に個性的なメンバーが揃っているのだが、動物園勤務の深田がした隊員の動物への見立て、特に登山隊の中でも一番の実力者とされていた森田勝の土物への喩えは『強者の個性の特徴』を捉えているようでなかなか面白い。

『トラは馬場口あたりでしょう。広島三朗さんは猛獣に入らんでしょうなあ……森田勝はトラかも知れんが、ヒョウかも知れませんねえ。ヒョウというのは人を好かんですよ。人間嫌い。トラ以上になつきません。とくに黒ヒョウというのは全然ダメ、勝さんはそれじゃないかな。後から怒られるかなあ。重広君あたりはライオンかも知れませんねえ。つき合いはいいですしねえ。ライオンというのはおっとりしています。こせこせしませんし、馬力もあります。自分より強いもんがおらんということもあるかも知れませんが、寝ている恰好からして、他の猛獣とは全然違うんですよ。仰向けになりましてねえ。夜、懐中電灯で見回りに行くのですが、目をさましません。トラは横になって寝るんです。僕らの足音なんかで、ぱっと起きてくる。ヒョウはその前に、もうオリの柵近くに来ているんです。ピューマというのは弱いんじゃないかと思います。物陰からじいっとこちらをうかがっている。隊員39人中、猛獣は10人くらいじゃないでしょうか。サルもおりますし、クマもおりますし、ヘビもいる。ただ、ヒツジはいませんねえ。』

人間嫌いの孤高の猛獣に喩えられた森田勝(もりたまさる,1937-1980)は、K2登山隊で第二次アタック隊に組み入れられていたが、自分が納得のいかないルートや役回り(第一次アタック隊ではない)だったことで、頂上間近のC5において最後の最後で体調悪化を偽装したかのような『造反劇(新貝の懇願めいた説得も受け入れない一方的な撤退)』を引き起こしたのであった。

隊長の新貝からすれば、第一次アタック隊はトラを揃えた半ば『当て馬』であり、世界の高山の経験・実力に優れた森田勝がリーダーを務める第二次アタック隊こそライオンを揃えた『本命』だったのだが、プライドの高すぎる一匹狼である森田勝には遂に隊長・新貝勲の本心・悲願は伝わらなかった。K2の頂上がもう近いC5で森田勝と新貝・原田がトランシーバーでやり取りするクライマックスの部分では、どんなに懇願や説得をしても『体調悪化で下山する』と主張して聞かない頑固な森田に『チーム登山の指揮命令系統』の難しさが集約されている。

1977年8月に、日本人の登山隊は確かに世界で最も危険な8000m峰とされるK2の頂上を落とす大偉業を成し遂げたのだが、その背後には森田勝の離反だけではなく参加したメンバーそれぞれの思惑・野心と現実のズレ(隊長副隊長やチームへの不平不満)があったのであり、本書ではそういった『エゴイストな登山家の人間くさい恨みつらみ』を隠さずに証言のような形で記載しているリアリズムがあるのである。

世俗の欲望を離れているような外観で、生きるか死ぬかの危険な高峰登山・岩壁登攀をしている登山家たちの『本音の言葉』が聞ける面白いK2登山の本である。更には『強い一匹狼であるしかない登山家のアイデンティティー』『自分より実力で劣る他者なんかに登頂の栄誉の先を越されてたまるものかの名声欲・プライド』までもが沁みるように伝わってくるのである。

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