テオドール・W・アドルノの近代哲学批判と否定弁証法

マックス・ホルクハイマーの“批判理論”と学際的唯物論の挫折
テオドール・アドルノの近代哲学批判と否定弁証法

マックス・ホルクハイマーの“批判理論”と学際的唯物論の挫折

1923年にドイツのフランクフルト大学に『社会研究所』が設立され、初代所長カール・グリュンベルクが病没した1930年にマックス・ホルクハイマーが社会研究所の所長となる。フランクフルト大学の社会研究所ではマックス・ホルクハイマー(Max Horkheimer, 1895-1973)テオドール・アドルノ(Theodor Ludwig Wiesengrund Adorno, 1903-1969)が主導的な役割を果たすようになり、西欧マルクス主義を実践的に展開させる『批判理論』を根拠として『フランクフルト学派』と呼ばれる思想家集団を形成した。

フランクフルト学派は、ジョルジ・ルカーチの西欧マルクス主義の理論的系譜に位置づけられる現代思想の潮流である。しかし、『第一世代:マックス・ホルクハイマー,テオドール・アドルノ,ヴァルター・ベンヤミン,エーリッヒ・フロム,ヘルベルト・マルクーゼ』→『第二世代:ユルゲン・ハーバーマス,アルフレート・シュミット』→『第三世代:アクセル・ホネット,ヨッヘン・ヘーリッシュ,ノルベルト・ボルツ(第四世代)』と世代が変転するごとに、共産主義革命や階級闘争(プロレタリアート独裁)を掲げるマルクス主義からの距離が遠くなり思想的な多様性を深めていった。

フランクフルト学派の第一世代を代表するマックス・ホルクハイマーは、機関紙『社会研究誌』『伝統理論と批判理論』という学派の綱領的意味合いを持つ論文を発表して、近代西欧哲学の主客問題(主観と客観の二元論)にコペルニクス的な転回を迫ったのである。『伝統理論』とは、ルネ・デカルト『方法序説』で提示した近代的自我(客体を観察する主観)が、自然世界の『所与の客体・客観』についての法則や知見を明らかにして理論化していくという伝統的な世界観のことである。

伝統理論では、事物(客体)を観察する『主観(主体)』と主観(主体)によって観察される『客観(客体)』とは完全に別のものと考えられており、人間(主観)は所与の事物(客観)を観察して分析することはできるが、人間が所与の事物を自由にコントロールすることはできないと考えられていた。マックス・ホルクハイマーは、伝統理論の主観(人間)と客観(事物・社会環境)を分割する世界観に疑念を呈して、主観(人間)の労働と活動によって客観を自由に制御できるという『批判理論』を提起したのである。

伝統理論では、客観としての『所与の環境(事物)』を人間が自由にコントロールすることは出来ないという前提があり、諸科学や学術行為は既存の社会体制(制度的なフレームワーク)に従属することを宿命付けられていた。マックス・ホルクハイマーは、客観(客体)としての事物(社会環境)は『変更不可能な所与の条件』などではなく、主観(主体)の労働や活動によって歴史的・社会的に生成されるものだとする『批判理論』を展開したが、批判理論は現状肯定的(体制同調的)な権威主義的道徳観を打破する役割を果たすことになる。

批判理論が示唆する世界観は、政治構造や社会環境というものが『所与の条件』として与えられているのではなく、政治体制や環境要因は『人間(主観)の労働・活動・意見・連帯』といった実践的行為によって日々作り変えられているということになる。ホルクハイマーの批判理論は、現実世界を改善するダイナミクス(力動)を喪失しかかっていた哲学・思想に、『社会環境(客体)を生成変化させる主体』という視点を与えた。ホルクハイマーが構想した批判理論をベースとする『社会哲学(学際的唯物論)』は、専門化・細分化され過ぎた諸科学分野の壁を越えて『社会的・政治的・歴史的な実践』に学術活動の総合的な知見を応用しようとするものだった。

マックス・ホルクハイマーが哲学・社会科学の諸分野をはじめとする諸科学を総合し、前進的な社会変革に貢献させようとした『学際的唯物論』の構想は、『ナチズム(ファシズム)の台頭・ナチスによる社会研究所の閉鎖・第二次世界大戦の悲劇・ユダヤ人に対するホロコースト』によって挫折を余儀なくされた。アドルフ・ヒトラーが指導するナチス体制下においてフランクフルト学派の拠点である社会研究所は閉鎖され、学派の主要メンバーはアメリカ合衆国へと亡命したが、ホルクハイマーとアドルノは第二次世界大戦中(1939-1944)に共著で『啓蒙の弁証法』を著述した。

フランクフルト学派・第一世代の思想的営為を統合した『啓蒙の弁証法』は、西欧哲学の歴史を支えた『進歩主義的な啓蒙思想』『理性的な近代市民社会』の限界を指摘しながら、『人為的な破局』の連鎖の歴史の中に人類の救済の思想を見出そうとするものである。『啓蒙の弁証法』ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin, 1892-1940)の歴史哲学の影響を受けているが、ホルクハイマーとアドルノが語る『西欧的な啓蒙思想・進歩主義の挫折』とは宗教的世界観(神話的物語・封建的道徳)を否定して人類を進歩させようとした『科学的な啓蒙思想』が、結果として第二次世界大戦とホロコースト(ユダヤ人大量殺戮)という人類史上最悪の悲劇を招来したことの反省の上に立っている。

伝統的な宗教や神話・迷信を乗り越えた知的な人類(脱呪術化した人類)は、啓蒙思想に導かれて理性的判断と自然科学(科学技術)によって『より良き存在・人格・生活』へと進歩前進していくはずであったが、20世紀半ばに世界の列強諸国をファシズム(全体主義)の脅威が襲ったのである。人間の理性と科学に基づく『文明の進歩・文化の発展・人間性の向上』という啓蒙主義の前提が崩壊したのは何故なのか?戦争やホロコーストを引き起こした『理性の欠陥・限界』を求める飽くなき思想の果てに到達したホルクハイマーとアドルノの思想的地点が、『自然支配・他者支配のための道具的理性』であり、自己保存(利己的欲求)を至上命題とする道具的理性を批判することによってアドルノは新たな弁証法の境地を切り開いていくことになる。

テオドール・アドルノの近代哲学批判と否定弁証法

テオドール・アドルノ(Theodor Ludwig Wiesengrund Adorno, 1903-1969)は、脱呪術化(迷信・誤謬の克服)を目指した理性的な近代哲学(近代市民社会)が辿りついた『ファシズム(全体主義)・世界大戦(暴力と野蛮)・ホロコースト(民族浄化)』を偶然の結果ではなく必然の結果として真摯に受け止め、『近代哲学・啓蒙主義の自己批判』によって道具的理性(自己保存を目的化する理性)が生み出す集団・社会の病理を乗り越えようと企図した。

道具的理性とは自己の行動を統御して『自己・集団の自己保存』を可能にする理性であるが、道具的理性は外的世界のモノと人を『労働・活動』によって自由自在にコントロールしようとする性向を持っている。道具的理性は個人を全体の自己保存の道具と見なす『全体主義的な社会秩序(ファシズム)』へと必然的につながり、個々人を非倫理的な暴力と野蛮の行為へと駆り立てていく。その為、ホルクハイマーとアドルノは『啓蒙の弁証法』においてファシズムを準備する道具的理性を厳しく批判し、宗教的なものや芸術的なものへ理性を投射していくことで『自己保存の欲求の強度=集団主義に誘惑される弱さ』を無害化しようとしたのである。

アドルノは『哲学のアクチュアリティ(1931)』の中で、アプリオリ(先験的)な普遍的原理を追求して『現実の人間の生活感情』を無視する『形而上学(第一哲学)』を否定して、歴史的な“現在”や現実の“人間”の発展に実践的に寄与するドグマティズム(教条主義)に陥らない『最終哲学(ultima philosophy)』を行うべきだと主張した。テオドール・アドルノが批判する第一哲学(形而上学)の代表的思想には、マルティン・ハイデガーの『存在と時間(1927)』に示される観念論(実存主義)やエドムンド・フッサールの現象学があり、アドルノは『物理的な現実世界(生活世界)』から離れたところにアプリオリな普遍的原理(本来性・現存在・超越論的主観性・判断停止のエポケー)を確立しようとするハイデガーやフッサールの哲学的方法論を厳しく批判することになる。

テオドール・アドルノはその主著『否定弁証法』において、主観(主体)が客観を概念的に支配・統御しようとする西欧哲学(近代哲学)の伝統を批判し、ドイツ観念論における『認識作用の基礎理論(三批判書)』を構築したインマヌエル・カントの純粋理性を『主観優位の観念論』として切り捨てようとするのである。

アドルノは日々刻々と生成変化し続ける『非同一的なもの(現実世界の客体)』を一般的概念として把握する近代哲学の伝統に対抗し、主観のカテゴリーが客観を構成するというカント的な観念論(構成主義的主観性)を、他者支配的(環境操作的)な独善に陥る危険があるとして警戒した。『否定弁証法』では民族主義的なファシズムやナショナリズムを生み出す思想的契機となったG.W.F.ヘーゲル(1770-1831)『精神現象学(1807)』も厳しく批判されている。ヘーゲルが普遍的な歴史的実在として提起した『絶対精神』は、『個人(特殊)の現実の生活や感情』を完全に無視しているという点においてファシズム(民族主義)に傾斜する危険性を胚胎している。

ヘーゲルは世界の絶対的・普遍的な原理である『絶対精神』は、民族の意識によって駆動されて必然的に自己展開していくと語るが、この絶対精神の自己展開とは結局『特殊的な個人』を道具化(犠牲化)しながら発展するナショナリズムの運動のことだとアドルノは批判するのである。ヘーゲルは民族の意識(ナショナルな感情)によって集団的に自己展開していく絶対精神は、特殊性(個人)によって抵抗することはできず、特殊性(個人)は普遍的な絶対精神に従属することによってのみ必然的な自己実現を達成できるという。

ヘーゲルの思想には『個人の自律的な自由・具体的な人間の生活や感情』といった要素が致命的に欠落しており、国民国家や民族共同体の自己保存という普遍的命題のもとに『個人の生命・自由・感情』を権威的に支配する政治構造がその背景に見え隠れするのである。ヘーゲルは個人の自由や歴史の分岐(民主的な判断)という『現実的な要素』を考慮しなかったため、普遍的な民族の歴史・政治的な権力を強く肯定する『民族主義(国民国家)の排他的純化の思想』へと必然的に辿り着いてしまったのである。

ナチス党員としてファシズムの思想活動の一端に関与したマルティン・ハイデガー(1889-1976)に対してもアドルノは批判的である。ハイデガーが『存在・現存在・本来性』などの具体的な社会生活・政治問題と隔絶した『普遍的原理のメタファー(隠語)』を駆使したこと、形而上学的(非現実的)な本質性へと人間の心を引き付ける『存在論』によって、現実の政治権力・全体主義の危険性(暴走)を隠蔽したことを批判する。

その一方で、アドルノはヘーゲル的な弁証法の思考方法に関心を示し、ヘーゲルの『肯定‐否定‐否定の否定(正‐反‐合)』に潜む「概念の同一化作用」の危険を回避した『否定弁証法』を主張するのである。このアドルノの否定弁証法では、肯定的な命題を否定する『否定の命題』を出して更にその『否定の命題』を否定するというヘーゲルの弁証法ではなく、最初の『否定の命題』に敢えて留まって概念の同一化作用を拒絶するという『限定的否定』に最大の特徴がある。アドルノは否定弁証法における限定的否定によって、『非同一的なもの(現実世界の人間やモノ)』を概念化して支配・操作することを拒絶するのだが、この否定弁証法は普遍的なイデオロギー(観念・理念・概念)によって世界戦争(民族国家の対立)やアウシュビッツに至った人類の歴史の反省の上に立ったものだと言えるだろう。

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