古代キリスト教の教父アウグスティヌス(354-430)

マニ教と古典文学から回心したアウレリウス・アウグスティヌス
最大の教父アウグスティヌスの思想と教説

マニ教と古典文学から回心したアウレリウス・アウグスティヌス

古代キリスト教世界で最大の教父、神学者と言われるアウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354-430)は、西暦354年に北アフリカ・アルジェリア(当時のヌミディア)のタガステという地で生まれました。『教父(きょうふ)』というのは、2~8世紀の時代にキリスト教の正統な理論や教説(説教)の著述を行った権威ある神学者のことであり、教父の中には『聖なる生涯』に身を捧げた多くの聖人が含まれています。

教父はギリシア語で著作を記述した『ギリシア教父』とラテン語で著述を行った『ラテン教父』に分けることができますが、アウグスティヌスはラテン教父に分類されます。アウグスティヌスは、アンブロシウス、ヒエロニムス、グレゴリウス1世と並んで『四大ラテン教父』の一人として数えられています。キリスト教の歴史の中で、最初に登場した教父は2世紀のカルタゴの人・テルトゥリアヌスといわれており、テルトゥリアヌスは三位一体論の教説を初めて提示しました。

アウグスティヌスは、熱心なキリスト教徒の母モニカと異教徒の父パトリキウスの子としてアルジェリアに生まれ、初めはカルタゴやイタリアで弁論術・修辞学を学び、キリスト教に回心する前は『マニ教(摩尼教)』に傾倒していました。各種宗教(ユダヤ教・キリスト教・ゾロアスター教・グノーシス主義)の折衷的教義を持つマニ教は、ササン朝ペルシャのマニ(210-275頃)によって創設された宗教で、古代のユーラシア大陸(中東地域)や北アフリカ、中国などで信仰されているポピュラーな宗教の一つでした。

マニ教の中心的な世界観はゾロアスター教に類似した『善悪二元論』であり、この世界を絶えず善(光)と悪(闇)が対峙して葛藤する世界と見なしていました。『パウロの福音主義』の影響を受けて厳格な戒律主義を否定したマニ教は、知恵と認識を重視する知性主義的な宗教でした。天使から啓示を受けたマニは、ゾロアスター・仏陀・イエスと並ぶ預言者であるとされており、原罪(闇)を背負った人間は『光を取り戻す戦い』をする存在として位置づけられていました。マニ教はグノーシス思想の肉体を罪悪視する『禁欲主義・菜食主義』の影響も受けており、キリスト教でも次第に肉体的な快楽・性的な快楽を罪悪視する度合いが強まっていくことになります。

古代キリスト教の最高の教父と評されるアウグスティヌスは、ローマ・カトリック教会や正教会から聖人に列せられていますが、その前半生では性的欲望のままに放縦な生活を送ったこともありました。初めはマニ教の善悪二元論の教義に魅力を感じていたアウグスティヌスですが、キケロの著作『ホルテンシウス』ネオプラトニズム(新プラトン主義)と出会うことによって次第に哲学的な思索にのめり込んでいきます。

9年間の長きにわたってマニ教に傾倒したアウグスティヌスでしたが、この時のことを『迷わされながら迷わし、騙されながら騙していた』と述懐しています。アウグスティヌスはマニ教の司教ファウストゥスの人格性に軽蔑すべき部分を感じて、マニ教から遠ざかりキリスト教への回心の度合いを強めていきますが、それ以前にはギリシア・ローマ(ラテン)の古典文学に非常に強い関心を示していました。古代キリスト教の最高の神学者となるアウグスティヌスは、その前半生において『マニ教・古典文学・異性関係』によって多大なる刺激を受け、思想と文明の交流地点である北アフリカにおいて精神的格闘を続けていたと言えます。

アウグスティヌスの代表作『告白(告白録)』では、徹底的な人生の回顧と内面的な自己探求が行われていますが、青年期のアウグスティヌスを襲ったのは『性(異性関係)の問題』でした。精神の深部に『神の実在』を見出す以前の16歳のアウグスティヌスは年上の女性を妊娠させてアデオダトゥスという息子を設けたりしますが、弁論術と修辞学に優れていたアウグスティヌスはアカデミックな教師としてそれなりに充実した人生を過ごしていました。その後、子どもを作った女性と別れて、母親モニカの勧めで11歳の少女と婚約させられそうになりますが、結局、自分の性的嗜好と合っていた別の年上の女性を愛人にすることになります。

しかし、ローマ帝国皇帝テオドシウスさえも屈服させたミラノ司教・聖アンブロシウス(340-397)との出会いが、アウグスティヌスに『キリスト教徒としての自覚』を促していきました。アテナイのゼノンが創始したストア主義の『禁欲思想・運命主義』の影響も受けていたアウグスティヌスは、『魂の平安』を求めるという意味でもキリスト教への傾倒を強めていくのです。

最大の教父アウグスティヌスの思想と教説

アウグスティヌスと息子のアデオダトゥスは、387年4月24日~25日にミラノ司教・アンブロシウスから洗礼を受けて正式にキリスト教徒となります。アウグスティヌスの回心(帰依)に大きな影響を与えたものの一つとして『ロマ書(ローマ信徒への手紙)』の享楽・好色・飲酒を戒めた記述がありますが、洗礼を受けたアウグスティヌスはヒッポの司祭に任命されるまでの間、自分で修道院を建設して隠棲生活(学究生活)を送っていました。

この時期に、隠者(世捨て人)のような学究生活を送りながら著述に専念したアウグスティヌスは、『告白』『神の国』『三位一体論』『山上の教説』『キリスト教の教義』『幸福な生活』などの代表的著作を書き上げました。キリスト教徒に回心してから後もアウグスティヌスを懊悩させたのは、異性の肉体に対するエロティックな欲望であり、『告白』において「我に貞潔と慎みの徳を与えたまえ。されども、今すぐには与えたもうな」「自分は到底、独身(ひとりみ)では暮らせない」「恋し恋されるということは、恋する者のからだをも享楽し得た場合、いっそう甘美だった」などの独白を残しています。

アウグスティヌスの思想を集約すると『罪・神の国・時間論・異教徒との論争』などにまとめることが出来ますが、アウグスティヌスは『自分の欲望』を直視するような徹底的な内省と自己分析によって『自己の罪悪』を正しく自覚していました。アウグスティヌスは精神の深部に『愛としての神(神とは愛・アガペーである)』を見出し、自分の小さな罪を償う場所として、天国と地獄の中間領域にある『煉獄(れんごく)のような場所』について初めて言及しました。

煉獄については『神の国』の中で神に赦しと憐れみを請う形で言及されており、『私は罪を犯したこと、そして天国に行けると希望できないことを知っています。しかしまた地獄に値するほど酷い罪人ではないことも知っています。私が犯した罪を償い、後で至福の霊たちの間に受け入れられるための場所(余地)が私には必要だろうと思うのです』と書かれています。この『煉獄のような場所』の話は、原罪を背負っている人間の大多数が犯してしまう『小さな罪』の具体的な救済について示唆されたものと解釈することができます。アウグスティヌスは、キリスト教の教義で最重要な概念である『原罪』を確立した教父としての側面を持っています。

アウグスティヌスの『時間論』は、「誰も私に質問しない時には、私は時間について知っているが、誰かに質問されて答えようとすると、途端に時間について分からなくなる」といった言葉で知られています。アウグスティヌスは『神と時間との相関』について考える中で、時間は『魂の延長』であるという結論に行き着き、神の誕生以前には時間(魂)も存在しなかったと主張しました。更に厳密に言えば、神には誕生も死もないので神は『遍在する永遠不滅の現前』として定義することができ、神には時間的な前後はないので『神は時間との直接的な相関を持たない(神は時間の影響を受けない)』のです。世界に存在する時間についてアウグスティヌスは、『記憶(過去の現前)・直観(現在の現前)・希望(未来の現前)』の3種類があると考えました。

愛によって国が建設されると考えたアウグスティヌスは、神よりも自分を愛す自己愛によって『地上の国』が、自己を無視する神への愛(献身)によって『神の国』が打ち立てられると主張しましたが、彼は精神的な神の国(来世の国)こそが人間に真の幸福と栄光をもたらすという信仰を持っていました。

アウグスティヌスの思想に強い影響を受けたキリスト教神学では、アダムとイブ(エバ)が神との約束を破って禁断の木の実を食べて以降、人類は生まれながらにして『原罪』を背負っているとされていますが、同時代人のペラギウスは原罪の必然性を強く否定して、アウグスティヌスとの間で激しく持論を戦わせました。ペラギウスは、人類のすべてが生まれながらに『原罪』を背負っているというアウグスティヌスの教説には根拠がないとして、人間は自分個人の行動と発言の結果によって罪を負うことはあるが、誰もが等しく生まれながらの罪人なのではないと主張しました。

古代キリスト教において最大の教父と評価されるアウグスティヌスは、『マニ教の二元論・ネオプラトニズムの一元論・哲学的な懐疑主義』を強靭な信仰の精神で乗り越え、理性的なキリスト教神学の基盤を形成しました。アウグスティヌスは、神や魂を物質的な存在と見る『物質主義』から、神や魂を非物質的で形而上学的な実在と見る『精神主義』へと急速に転換し、神は万物を『無』から創造可能な全知全能の存在であると定義しました。神の全知全能性を否定する立場から『時間の成立以前には、神は何をしていたのか?』という質問が寄せられましたが、アウグスティヌスは前述のように『神以前には時間は存在せず、神の前には時間軸における前後がないから、神と時間との相関を語ることは無意味である』としてその質問を退けました。神は時間成立(世界成立)以前には、何かを『行為』していたのではなく、ただ絶えずそこに『実在』していたと考えたわけです。

『神の国』において、アウグスティヌスは『神の国』『地上の国(現世の国)』が争い合い、イエス・キリストが再臨して『最後の審判』を行うという思弁的な歴史哲学を展開しています。その中で、『神の国』の実現こそが人類の存在意義であり最終目標であると語りました。西暦430年、ヴァンダル族の初代国王ゲンセリックがヒッポを攻略している途上でアウグスティヌスは死去しましたが、キリスト教普及と異民族侵入がもたらしたローマ帝国の斜陽の時期にアウグスティヌスはこの世を去ったことになります。彼の遺体はロンバルド族のリウトランドによって、パヴィアのサン・ピエトロ・イン・チエル・ドーロ教会に葬られましたが、彼の思想と著作はその後の西欧キリスト教世界に膨大な影響をもたらしたのです。

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