ハンナ・アーレント(Hannah Arendt, 1906~1975)

ハンナ・アーレントの生涯・体験と人間関係

ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』『人間の条件』『革命について』などに見る政治哲学

ハンナ・アーレントの生涯・体験と人間関係

女性の政治哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt, 1906-1975)は、ドイツのケーニヒスベルクにあるドイツ系ユダヤ人の旧家アーレント家(中産階級の家柄)に生まれ、工学士の学位を持つ電気工事会社勤務の父パウル・アーレントと育児・教育に熱心な母マルタ・アーレントによって大切に育てられたという。

両親共に政治や文学、思想、歴史に関心を持つ教養人であり、知的好奇心が旺盛で早熟だったハンナ・アーレントは、幼少期から古代ギリシア・ローマ文化に関連する古典をはじめとする父親の膨大な蔵書を読むことで知識を渉猟した。父母は共に特定宗教の信仰を持っていない社会民主主義者であったが、ハンナは家族ぐるみの付き合いがあったラビ(ユダヤ教の聖職者)のフォーゲルシュタインのシナゴーグに行ったり、法律的な義務としてキリスト教の日曜学校に通ったりする中で、『有神論的な宗教観』を持つようになり、ある種の神の存在を信じていたようである。

ハンナは才気煥発で優秀な少女だったが必ずしも真面目ではなく、15歳の時には当時在学中だったルイーゼシューレで授業をクラスメートと一緒にボイコットして放校処分になったりしている。1924年に18歳でマールブルク大学に入学して、秋に哲学界の大物であったマルティン・ハイデガー(Martin Heidegger,1889-1976)と出会って哲学研究に没頭しつつ、ハイデガーとは師弟関係を超えた恋愛関係(不倫関係)にもなっている。ハンナはマールブルク大学に在籍していた時期の哲学への集中的な傾倒・耽溺を『初めての情事』と表現しているが、マールブルク大学では生涯を通しての友人になる実存主義哲学者・聖書研究者のハンス・ヨナスとも知り合っている。

フライブルク大学では現象学の泰斗であるエドムンド・フッサールの下で一学期を学んでおり、その後、ハイデルベルク大学で精神科医であり哲学者でもあるカール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers,1883-1969)の指導を受けており、ヤスパースの実存主義の思考様式や交わり・超越者・限界状況などの概念にも強い影響を受けている。

ハンナ・アーレントは博士論文として神学的素養と哲学的思索を応用した『アウグスティヌスの愛の概念』を提出しているが、この時期にシオニスト(ユダヤ人の聖地帰還・建国主義者)であるクルト・ブルーメンフェルトと知り合って“シオニズム”の思想・活動にも関心を持つようになる。シオニズムというのは、イスラエルの約束の地(パレスチナ)にユダヤ人の故郷・国家・文化を再建しようという政治運動の思潮であり、ナチスドイツによる悲惨なホロコーストを経験した第二次世界大戦後にシオニズムは現実のイスラエル建国として結実することになる。

1929年9月にギュンター・シュテルンと結婚して、1931年にフランクフルトに転居しカール・マンハイムやティリッヒの講義を聴いており、この時期のドイツロマン主義の研究活動の成果が後年に『ラーヘル・ファルンハーゲン(1958)』の論文につながっているが、ハンナ・アーレントの政治哲学者(政治思想家)としての思考・活動は、1933年のナチスドイツによる政権掌握(ファシズムの恐怖)とユダヤ人排除政策によって本格的な始まりを見せるのである。

『優生思想』に基づくユダヤ人の排斥・弾圧を激しく主張する独裁者のアドルフ・ヒトラーが台頭してからは、ハンナはシオニストの活動やドイツからの亡命者支援にも関与していたが、ハンナ・アーレント自身も1933年にフランスのパリに亡命した。1940年にパリがナチスドイツの進軍によって占領されると、更に1941年にアメリカのニューヨークへ亡命することを余儀なくされたが、ハンナ・アーレントは異国アメリカの地で政治哲学者としての実績・名声を積み上げていく。

ドイツで結婚していたギュンター・シュテルンとは1937年に離婚しており、1940年に共産主義結社のスパルタクス団やその後のドイツ共産党で政治活動をしていたハインリッヒ・ブリュッヒャーと結婚し、ハインリッヒからマルクス主義の左派思想や実践的な政治活動の影響を受けたとされる。第二次世界大戦後のユダヤ人国家建設の議論では、アーレントはユダヤ人のみによる排他的な『単一民族国家建設案(シオニストの主流の案)』に反対して、穏健派のイェフーダ・マグネスらが主張していたユダヤ人とアラブ人の融和・協調による『連邦制国家建設案』のほうを未来に遺恨を残さない案であるとして賛成していた。1975年12月4日に、自宅で心臓発作を起こして69歳の生涯を閉じたが、ハンナ・アーレントの政治思想家としての足跡の大部分はアメリカ亡命後に残されたものである。

ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』『人間の条件』『革命について』などに見る政治哲学

ハンナ・アーレントの政治思想の原点は、ドイツでナチズム(ファシズム)の猛威が引き起こした『全体主義的な抑圧・迫害の恐怖体験』にあり、アーレントは『同じ人間であるはずのナチ』が行うことのできた“悪”の本質と問題、歴史的な由来を探求していく。なぜ良心を持っているはずの人間にあのような残酷で恐ろしい行為が可能であったのか、個人には為し得ない大規模な悪事をも可能にする人間の集団心理の恐ろしさはどこから生まれるのかという深刻な疑問とショックが、ハンナ・アーレントの政治思想の背景にはある。ハンナは政治現象としての『全体主義(ファシズム)』を思想的あるいは歴史的に分析しながら、全体主義体制において生まれる“悪(異質性・異端者の粛清)”を、なぜひとりひとりは良心的であるはずの個人が担ってしまったのかの根本的な原因を突き詰めようとしたのである。

『ナチズムの悲劇・脅威』を原点とする同種の社会考察・ファシズムの分析には、精神分析家エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』という著作もあり、その著作ではファシズムに積極的に貢献する人間本性の一つとしてマジョリティ(集団で優勢な価値観・強者)に迎合して実存的な安心感を得る『権威主義的パーソナリティ』が指摘されている。

政治哲学者としてのハンナ・アーレントの評価の上昇につながったのは『全体主義の起源(1951年)』であり、この著作は『反ユダヤ主義』『帝国主義』『全体主義』の三部構成になっている。反ユダヤ主義や帝国主義の歴史的掘り下げによって、19世紀には既に多民族融和の『国民国家の構成原理』に綻びが生じていたと指摘し、国民国家が内的解体(諸民族の利害に基づく内部分裂)を起こしたことによって『ナショナリズムの人種主義的先鋭化』が起こったとしている。

全体主義(ファシズム)の典型として、アーリア人至上主義(優生思想)の“ナチズム”と共産主義思想(プロレタリア独裁の建前を借りた個人独裁)の徹底による“スターリニズム”を取り上げ、全体主義は強制収容所(反対者の監禁・処刑)を焦点とする総動員・規律化(国民の統制教育)によって確立されるとした。全体主義体制ではイデオロギーや民族意識、テロルが、『多民族から構成される国民国家の統合原理』としてではなく『民族間の不満や憎悪を煽る国民国家の分断原理』として機能することになり、中心的勢力のマジョリティから見た『異質性・異端者』を排除したり弾圧(殺害)したりする排他的政策が正当化されてしまうのである。

このように、『全体主義の起源(1951年)』はどちらかというと“人間・体制の悪”に焦点を合わせたネガティブな色調の著作ではあるが、ハンナ・アーレントの主著とされることが多い『人間の条件(1958年)』は古典古代のギリシア(アテナイ)の民主共和政をモデルにしながら、近代社会に生きる人間の『活動的生活の可能性』を探求しているポジティブな内容の著作になっている。

ハンナ・アーレントは『人間の条件』において、人間の生活を『観照的生活(vita contemplativa)』『活動的生活(vita activa)』の二つに分けている。“観照的生活”というのは、真理探究・本質把握のための静的な観念(思弁)が中心となった哲学者の生活態度のことであり、“活動的生活”というのは、あらゆる領域における人間の動的な行動(実践)が中心となった生活態度のことであるが、一般的な人間が関わる問題の多くは活動的生活に関するものとなる。

アーレントは古代ギリシアの自己理解(古典古代の共和主義政体の理想)を参照しながら、活動的生活を以下のように『活動(action/Handeln)・仕事(work/Herstellen)・労働(labor/Arbeiten)』の三つに分類して、言語的行為である『活動』に高い価値を与えているが、これは“経済至上主義(資本主義及びマルクス主義)の近代批判”につながる現象学的かつ歴史的な考察を含むものになっている。

『人間の条件(1958)』は古典古代のアテナイの共和主義・市民生活を範として、人間の活動的生活を分類しており、近代的な経済至上主義やマルクス主義(社会工学的な改良思想)を非難するテーマを掘り下げている。『人間の自発的・主体的な活動』に人間の自己実現や自由実現の可能性を見出そうとしている意欲作である。『革命について(1963年)』の著作は、アーレントが“アメリカ独立革命(1775)”“フランス革命(1789)”との比較研究を行ったものであるが、アーレントは革命と戦争に共通する本質として『暴力(暴力による主導権の決定)』を指摘する。人類の原初的な自然状態にはただ『暴力の優劣による支配』があったとするアーレントは、暴力が20世紀の戦争と革命の両者の共通の『分母』として機能したと分析している。

ハンナ・アーレントは革命の本質を『暴力・強制的な体制転覆』だけではなく『自由の経験・平等の観念』に求めているが、階級闘争・民衆蜂起(暴動)によって進展した『フランス革命(1789年)』は、経済的な豊かさや社会問題の解決を近視眼的に求めた結果に過ぎないとしてアメリカ独立革命よりも低く評価している。アーレントはアメリカ独立革命を共和主義的な政治的自由を目指す『近代革命の原型』と見なしており、フランス革命よりもアメリカ独立革命のほうがジョン・ロックの社会契約説をはじめとする『共和主義の理念的目的性(人間の政治的解放としての自由=liberty)』により忠実であるとして高く評価した。

アーレントは生活に困った貧困なプロレタリアート層が“経済的動機づけ”に基づいて、裕福な支配者層・資本家層を攻撃して暴力・暴動で体制を転覆させるという“理念性を欠いた革命(フランス革命・ロシア革命もその亜系とする)”は、『共和主義的理想につながる政治的自由(liberty)』と相関していないという意味で低く評価したのである。これはそのまま、『階級闘争・武装蜂起・プロレタリア独裁・共産党支配』を前提とするカール・マルクスの共産主義革命に対する批判にもなっている。イギリスの清教徒革命・名誉革命についても、結果として『立憲君主制の復古(君主の歴史的権威に依拠する市民が自立できない体制の温存)』につながっただけという厳しい見方を示している。

ハンナ・アーレントはフランス人権宣言の天賦人権論(生まれながらの自由で平等な権利)についても理想主義の幻影に過ぎないとして否定的に捉え、粗野で無秩序な伝統を無視したフランス革命を非難する保守主義者エドマンド・バークの意見に賛意を示したりもしている。アーレントのフランス革命の評価は『革命について』における、『革命が自由の創設を目指す方向から、苦悩からの人間の解放へとその方向を変えた時、(当たり前の困難に耐えるだけの)忍耐の障壁をも打ち壊してしまい、不運と悲惨の破壊力(=人間の際限の無い欲深さ)を解放した』という表現に尽きているとも言える。アーレントはフランス革命が世界を火の中に投じたとするが、暴力的革命の歴史的・周期的な必然性(法則性)を強調するマルクスの『史的唯物論』にも反対しており、政党政治よりも評議会制度のほうを肯定的に評価していた。

アーレントは20世紀を代表する政治哲学者の一人であるが、政治的なラディカリズムや主体的人間の理念性について強い関心を持つ一方で、経済的な格差の是正や社会保障(福祉)による再配分政策、男女平等の促進(フェミニズム)といった『社会問題・経済的動機づけの個別的イシュー』に対しては、どちらかというと伝統規範や既存秩序を重視する保守的な立場に立ったりもしていた。

ハンナ・アーレントは晩年に再び哲学的思索を再開するが、精神の活動力を“思考・意志・判断力”の三つに分類して政治適用の考察を加える予定だった『精神の生活』を書き上げる前にこの世を去った。『精神の生活(1978年)』は結局アーレントの死後に出版されることになったが、ナチスドイツの悲惨なファシズム(ユダヤ人弾圧)を経験したアーレントの政治哲学は、20世紀の実存主義と政治思想との融合の成果でもあり、『人間は如何に生きるべきか?どのような活動をすべきか?』という普遍的な問いの答えを“アクチュアルな政治空間”で出そうとしたものでもあった。

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