ジョン・ロックの社会契約説と立憲主義

イギリス経験主義のトマス・ホッブズとジョン・ロック
ジョン・ロックの社会契約説と立憲主義

イギリス経験主義のトマス・ホッブズとジョン・ロック

イギリスの地方貴族のオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658)は、ピューリタンを率いてイギリスの清教徒革命(1642~1649)を断行し、王権神授説が信じられていた時代には不可侵の権力を持っていた国王チャールズ1世を処刑しました。近代市民革命の端緒を開いたピューリタン(清教徒)とは、神の前の平等と禁欲を説くカルヴァニズムの影響を受けたイギリス国教会の改革派でした。

イギリス経験論の系譜に属する哲学者のジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)は、クロムウェルが指導する清教徒革命(ピューリタン)の真っ只中で少年期と青年期を過ごしました。ジョン・ロックの民主的な国家論や革命権(抵抗権)の主張は、ピューリタン革命の時代を経験した人生と無関係ではなく、ロックは『思弁的な合理論』ではなく『客観的な経験論』を用いて政治社会領域の基本原理を抽出しました。

ジョン・ロックの民主主義の政治思想は、前期と後期ではラディカルな市民革命に対する評価が異なっており、後期ではピューリタン革命のような暴力革命を積極的に支持する立場を取っておらず、市民(国民)の生命や財産を危うくする権利侵害に対する自衛的な抵抗権として革命を捉えています。即ち、経験論者として普遍妥当性のある政治原理を探求したロックは、民衆の欲望が暴走するピューリタン的な革命は行き過ぎ(無利益)であり、絶対王権が民衆を隷属させる絶対王政は時代錯誤(無根拠)であると考えるに至ったのです。ジョン・ロックは、革命と保守のバランスの取れた理性的なブルジョワジー(中産市民階級)を中心とする民主主義を志向しましたが、その理論的背景には、自然状態における自然法社会契約説がありました。

経験論者であるジョン・ロックは、知覚・感覚に基づく経験こそが全ての知識の起源であり、産まれたばかりの感覚経験を持たない乳児は『何も書かれていない白紙(タブラ・ラサ)』であるという信念を持っていました。物理学・化学といった自然科学や経験的な医学にも関心を寄せていたジョン・ロックは、生得的観念(知識)は存在せず、経験的な感性(知覚・感覚)と理性的な反省(思索・論理)によってのみ『確実な正しい知識』が得られると考えました。ロックの死因は腐った肉を食べた事による中毒死という事になっていますが、これも肉の冷凍保存期間を調べる科学研究の過程における事故でした。ジョン・ロックの自然状態の仮定とそこから導かれる自然法や社会契約の思想は、彼の科学的な思考形態や世界観と切り離して考えることが出来ません。

ジョン・ロックは、政治活動の普遍的な一般原理を抽出する為に、自然科学研究で用いられるような理想モデルを政治哲学に持ち込みました。ロックは、現実的な経験世界には普遍的な知識や絶対的な価値は存在せず、私たちが普遍性を認める対象とは、便宜的なフィクション(創作物)や都合の良い名目(記号)に過ぎないと主張しました。つまり、自然界に観察可能な実体として存在しない国家や社会、政治権力、身分制度は、人間が社会秩序や紛争解決といった効用を得る為に創作したフィクション(約束事・決まり)に過ぎないというのがロックの基本的な立場です。

『自然状態』とは、人工的なフィクション(創作物)としての国家権力や社会規範が存在しない仮想状態のことで、現実には存在しない状態ですが、経験論に基づく合理的推測としては有効な仮説です。『個別的な人間・個人』『人工的な国家・社会』を比較した場合に、どちらがより自然的実在であるかは明白であり、社会の構成単位であり権力の委譲者となる『人間・個人』のほうが『国家・社会』よりも自然的な実在であると言えます。

つまり、国家(社会)のない自然状態における人間(個人)を想像することは出来ても、人間(個人)のいない国家(社会)を想像することは端的に無意味であるということです。『自然状態の仮説モデル』の優れたところは、現実世界に付随する身分・地位・文化・歴史などの複雑な要因を捨象することで、『一般的な人間像』を抽出でき、どのようにして国家権力や社会システムが成立したのかを合理的(合目的的)に考えることが出来るところです。

国家権力や社会規範のない自然状態で、『自然的存在としての人間』をどのように定義するのかについては、大きく分けて二つの考え方があります。一つは、絶対王政を経験主義的に擁護する『リヴァイアサン』(1651)を執筆したトマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588-1679)が提起した性悪説の人間像で、『万人は万人にとっての狼である』というものです。但し、ホッブズの想定した自然状態はロックの自然状態と比較すると抽象化や一般化の度合いが低く、簡潔に言ってしまえば、ホッブズは本能的欲求に支配された人間が戦って奪い合う原始的社会を自然状態と呼んでいます。

ホッブズが『万人の万人に対する闘争』と呼んだ自然状態を形成する本能的で野蛮な人間は、絶えず他人からの攻撃や略奪を心配して『死の恐怖』に怯えることになります。その為、自然状態における個人は、無秩序な闘争を調停して安全を保障する『国家権力(絶対王政)』に自然権(生存と生活を保持する為に権力を行使する権利)を移譲する契約を結ぶことになると言います。ホッブズは、自然状態を猜疑心に駆られた人間相互の闘争・略奪の状態と考え、自然的存在としての人間は悪であると想像しました。ホッブズも個人相互の契約によって、絶対君主(国家権力)へ個人の権力が移譲され集積されると考えているので、ロックやジャン・ジャック・ルソーと同じ王権神授説を否定する社会契約論者だと言えます。

『自然的存在としての人間』をどう捉えるのかというもう一つの考えは、『統治二論(市民政府二論)』(1690)社会契約説を主張したジョン・ロックの性善説的な人間観に基づくものです。ロックは、人間は国家(社会)の成立していない自然状態において、自由で平等な独立した存在であったといいます。自由主義者でもあるロックは、『個人の自由・財産・健康の保持』を所有権としてこれらは自然権(自然状態で持つ自己保存の為の権利)の一つとしていますが、個人が権力を移譲して打ち立てる国家は所有権の調整と保護を行う責務を持ちます。自由主義者ロックは、個人の自由を最大限に尊重し、国家は他者の権利や自由を侵害する不正な犯罪行為に対してのみ、権力を行使して刑罰を与えることが出来ると説きます。ロックは国家権力の中心に『立法権=議会政治』を考え、『執行権(行政権)』『連合権(外交権)』は立法権を持つ議会の決定に従わなければならないとしました。

清教徒革命でクロムウェルに処刑されたイングランドの王チャールズ1世の家臣に、王権神授説を理論化したロバート・フィルマー(Robert Filmer, 1588-1653)という政治思想家がいました。ロックは『統治二論』の中で、王の政治権力(国家の統治権)は全知全能の神から授与されているものでそれを否定することは出来ないという『王権神授説(divine right of kings)』を反駁しました。王権神授説という神学的な政治理論の概念は、キリスト教のプロテスタンティズムを下敷きにしたものが多いのですが、フランスのブルボン王朝では太陽王ルイ14世(Louis ⅩⅣ, 在位1643-1715)の統治下でジャック・ボシュエ(Jaques Bossuet, 1627-1704)がカトリシズム(カトリック教学)に基づく王権神授説を提唱しました。

ジョン・ロックの社会契約説と立憲主義

トマス・ホッブズやジョン・ロックの社会契約説が中世から近代への突破口となった理由は、『国家権力(社会規範)が、神から王(権力者)へ授与される普遍的な権力(規範)ではなく、人民の相互的な契約によって人工的に創作されたものであり改変可能なこと』を自然状態の理論モデルを通して合理的に説明したからです。国家や社会の起源が、世界の創造主である神ではなく、自由で平等な自然状態に生きる自然人の契約にあることを示したのが社会契約説です。共通の権威を持たない自然人が、『自然権(自衛の為の個人の権力・暴力・制裁)』を放棄して国家(政府)にその権力を一時的に委譲することで政治権力が生成されるとロックは考えました。

国家権力の源泉は『個人の権力』にあり、『国家(社会)への権力の移譲』を了承する社会契約によってのみ国家権力が正当性を持つというのが、ロックの民主主義(主権在民)の政治思想なのです。その為、国家権力(政府・社会)は、『国民の生命・自由・財産』を保護する目的で行使されなければならず、国民は国民の権利や自由を不当に侵害する政治権力に対して抵抗権や革命権を行使する権利を持っていることになります。

ジョン・ロックの政治思想である社会契約説は、『統治権力(絶対王権や貴族階級)の正当性』は神の普遍的権威に基づくものだから、絶対に抵抗してはいけないという中世的な政治認識をコペルニクス的に転換しました。中世の政治認識の中心は、過去の慣習や身分をそのまま踏襲する事が正しいとする『伝統主義』や神から授与された統治権力に服従することが正しいとする『王権神授説』にあり、王でも貴族でもない一般人民は無条件に所与の政治体制に従わなければならないと考えられていました。伝統主義が貴族政治(封建主義)を正当化し、王権神授説が君主政治(専制主義・絶対王政)を根拠づけていたわけですが、ジョン・ロックは伝統主義にも王権神授説にも『自然状態からの権力生成』を経験的に説明する能力がないことを喝破したのです。

性悪説に基づく社会契約説を説いたトマス・ホッブズは、自然状態での『万人の万人に対する闘争』を解消して個人の安全と権利を保護する為に、個人は自然権(個人の生存を保持する為の自由や自衛の権利)を合理的な判断に基づき放棄すると語りました。即ち、利己的な自然人が、欲求充足の為の権力を自由に行使すれば、弱肉強食の危険な世界にならざるを得ないので、自然人は安全と権利を保護する為に社会契約を結び、その契約を強制的に履行する政治権力(国家)にそれぞれの権力を委譲すると考えたのです。

個人の上位にある共通の政治権力(公権力)として国家を承認することで、客観的な行為規範である法律が生まれ、各人の行動に公正な判断が下されることになるというのが社会契約説の国家観です。ホッブズは道徳の客観的根拠は、自然状態に存在する自然人間の理性的な合意である『自然法(laws of nature)』ではなく、個人の権力を国家(公権力)に移譲して形成される強制力(刑罰)を持つ『法律(laws)』にあると考えました。万人闘争の自然状態にある自然法では、相互的な約束(契約)を破る個人に対して決定的な制裁を与えることが出来ないので、結局、弱肉強食の論理に基づいて物事が決定されることになります。

しかし、多数の個人の権力の移譲と共通の権威(権力)を認める社会契約によって生まれる国家(政治権力)は、強制力のある法と刑罰を制定するので、他者の権利を侵害し社会の秩序を破壊する個人(集団)に対して、有効な制裁や懲罰を与えることが出来ます。社会秩序と安全保障を実現する公権力を肯定的に見たホッブズは、国民の信託を受けた絶対君主が国家を統治する専制君主制(絶対王政)を理想の政体としました。トマス・ホッブズは、個人の抵抗や暴力では到底太刀打ちできない圧倒的な力を持つ国家(公権力)を、旧約聖書のヨブ記に出てくる怪物になぞらえて『リヴァイアサン』と呼びました。

トマス・ホッブズとジョン・ロックは、キリスト教神学的な権力論を否定して社会契約説を主張したことでは共通していますが、その最大の違いは、ホッブズは公権力を擁護して絶対王政の正当性を主張したのに対して、ロックは公権力を危険視して民主主義立憲政治の正当性を主張したことにあります。ロックもホッブズと同じように、人間は自然状態におけるデメリット(非効率)や危険性(争い)を解決する為に、人民は個人の権力を放棄・移譲して、不正を訴えるべき公権力と全員が服従すべき権威(法)に同意すると主張します。

しかし、社会契約によって生まれる公権力(政府)は、個人の権利と自由を保護する為に仮構される名目的なものなので、もし公権力が圧制や搾取を行って個人の権利を侵害するのであれば、国民はこの権力を打倒する革命権(抵抗権)を行使することが出来るといいます。ロックは人間が人間の上位に立つ絶対君主制や個人の自由を抑圧するリヴァイアサンを容認せず、公権力を持つ国家は、飽くまで国民個人の福利と安全を実現する為に奉仕する便宜的なものに過ぎないことを強調します。

ホッブズは、個人が抵抗できない強大無比な権力を持つリヴァイアサンを賞賛しましたが、ロックは、個人や少数の集団では抵抗できない圧倒的な権力を持つからこそリヴァイアサンとしての国家は危険であると考えました。ジョン・ロックは、国家(政府)が権力を濫用して、個人の権利を不当に侵害しないように、国家の最高法規である憲法と国民の代表者が集う議会で国家権力の範囲と効力を制限しなければならないとする『立憲主義に基づく議会政治』の基礎を築いたと言えます。ジョン・ロックは、最高法規である憲法と国民参加の議会政治を用いて国家権力の濫用や暴走を制限することで、国民の自由と人権を最大限に保障することが出来ると考えました。その意味で、17世紀の政治思想家であるロックは、近代国家の民主的な統治(政治)に不可欠なものである『立憲主義・民主主義(議会制民主主義)・自由主義』の原点を呈示したと言うことが出来ます。

『国民主権(主権在民)・基本的人権の尊重・平和主義』を三本の柱とする日本国憲法の前文は、ジョン・ロックの理想とする立憲主義に基づく議会制民主主義の精神をそのまま体現した文章であると解釈することが出来ます。議会制民主主義とは、自由主義と民主主義を同時に実現する為に確立された政治の手続きであり手段ですが、ロックの言う抵抗権(革命権)を政治権力を信託する代表者(政治家)を選抜する公正な選挙によって、代理的に行使する制度でもあります。国民の自由を抑圧し権利を侵害する悪政を行う代表者(政治家)を立法府である議会から放逐し、国民の自由を尊重し権利を擁護する善政を行う政治家を選挙で選択するシステムが、抵抗権を代理的に行使する議会制民主主義であると言えます。

日本国憲法 前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

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