『歎異抄』の序言と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[書き下し文]

序言

窃(ひそか)に愚案を廻らして、粗(ほぼ)古今を勘うるに(かんがうるに)、先師の口伝の真信(しんしん)に異なることを歎き、後学相続(こうがくそうぞく)の疑惑有ることを思ふに、幸ひに有縁(うえん)の知識に依らずば、争か(いかでか)易行の一門に入ることを得ん哉(や)。

全く自見(じけん)の覚悟を以て他力の宗旨を乱るること莫れ(なかれ)。仍て(よって)、故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、聊(いささか)之(これ)を注す(しるす)。偏(ひとえ)に同心行者(どうしんぎょうじゃ)の不審を散ぜんが為也(ためなり)と云々(うんぬん)。

[現代語訳]

密かに愚かな私の考えを巡らして、大まかに親鸞聖人が生きていた昔と亡くなってしまった今を比べると、今は先師・親鸞聖人の口伝である本当の教え・信仰とは異なった教えが増えているのが嘆かわしい。これでは後から学ぼうとする者が先師の教えを引き継いでいく際に疑惑が生じてしまうが、幸い前世の縁で結ばれた学師の知識に拠らなかったら、どうして念仏易行の我が一門といえどもその一門に入ることができるだろうか。

すべて自分の力だけで悟ったような思い違いをして、我が他力本願の宗旨を乱すようなことがあってはならない。だから、亡くなられた親鸞聖人がお語りになられたことの趣旨、私の耳に留まって残っている親鸞聖人の言葉を、いささかなりとも書き記しておく。これはただ先師の教えを守る同じ心を持って、念仏をされている信徒たちの不審・疑いを晴らしたいからである。

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