アビダルマの煩悩を断つ実践:見道・修道・無学道

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原始仏教のアビダルマ(阿毘達磨)は、釈迦牟尼世尊(ブッダ,紀元前6~5世紀頃)の説いた教えであるアーガマ(阿含)を、釈迦の死後300~900年が経過してから弟子たちが教義体系としてまとめたものである。仏教の最終的な目標の一つは、人間の苦悩や迷いを生み出す煩悩(執着)を消尽して断ち切って『解脱(悟り)』に至ることであるから、釈迦の言行録を編集したアビダルマにも当然、解脱するため悟りを開くための実践法が記してある。

すべての煩悩を断ち尽くした時に、人は悟りを得て六道輪廻から解脱することができ、あらゆる苦しみと迷いが無い絶対的に静かで安楽な『涅槃(ねはん)』の境地に到達することができる。アビダルマでは煩悩を消尽する効果を持つ要素として『智恵(無漏の智恵)』『修行』が想定されており、その煩悩を断ち切るための実践法のプロセスは『見道(けんどう)』『修道(しゅどう)』と呼ばれている。見道と修道の先には、あらゆる煩悩を立ち尽くしてもう学ぶべきものもなくなったとされる『無学道(むがくどう)』の涅槃的な境地がある。

見道は『見所断(けんしょだん)』の煩悩を智恵で断ち切る実践のプロセスである。修道は『修所断(しゅしょだん)』の煩悩を修行で断ち切る実践のプロセスである。『見道・修道・無学道』の三道は、アビダルマを作成した説一切有部(せついっさいうぶ)の時代から成立していたと考えられている。仏教の悟り(解脱)の道を志す者は、世俗の衆人の中に交わって煩悩・欲望を刺激される生活を避けるために『出家』することが推奨され、出家して煩悩・欲望を抑制してダルマ(法)を学び始めた修行者(仏僧)は『法の器』としての修練を積み重ねていくことになる。

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悟りの道を進む修行者(仏僧)は、煩悩を制御して自律するための僧団(サンガ)の生活規範である『戒・戒律』を守らなければならない。戒律を守って節度のある正しい生活習慣を身に付け、煩悩を弱めた清らかな心を維持するように努力する。そして釈迦(ブッダ)の正しい教えに声聞(しょうもん)として耳を傾け、自分自身で正しい智恵を求めて思索しながら、雑念を排除してある心的境地に没頭する『三昧(さんまい)』の方法を修めていくのである。

本格的な見道に進む前の準備として、肉体的・性的な欲望を鎮めるための『不浄観(ふじょうかん)』や心の動揺を鎮めるための『持息念(じそくねん)』、すべてが不浄・苦に過ぎないと知るための『四念住(しねんじゅう)』がある。

不浄観というのは、人間が色香を感じて欲情する異性の身体というものの本質が『汚いもの(不浄なもの)』に過ぎないと観想(想像)する方法であり、具体的には人間(異性)もいつかは死んで腐敗して悪臭が漂う遺体となり遂には無機的な白骨になるというイメージを持つことである。生前にどんなに男好きのする美人であっても、腐臭のする死体、肉のない無機的なモノとしての白骨に性的に欲情する者はいないのであり、人が生きている時からいずれ死体・白骨となっていく無常を意識し、刹那の肉体的欲望を起こす無意味さを知るということでもある。

持息念というのは、精神的境地を高めるための呼吸法であり、心を自分の鼻の先端や眉間に留めて呼吸の出入りを静かに観想しながら行うものである。精神を自然に落ち着けていくための呼吸法、精神が清らかなものやこだわりのない状況をイメージすることによって高まっていく観想法を組み合わせたものが『持息念』と呼ばれるものである。

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『四念住(しねんじゅう)』という修行法では、『身体は不浄である・感受は苦である・心は無常である・すべての事物は無我である』という仏教の法印とも相関する4つの命題を観想するものである。身体・感受・心・すべての事物は『不浄・苦』であり、そこに煩悩を働かせて執着する意味や価値などないということを自分に教え込んでいくのである。

煩悩を引き起こさない無漏(むろ)の智恵を得るための修行法として『四善根(しぜんこん)』というものがあるが、四善根では『四諦(したい)』の苦・集・滅・道を分析的に繰り返し観察・思索することによって、煩悩を断ち切るための無漏の智恵に近づいていくことができるとされる。ここまでが『見道』に入っていく前の準備的段階の修行であるが、見道に入った修行者(僧侶)は既に凡夫(ぼんぷ・普通の人)ではなく『聖者』とされ、見道・修道・無学道の三道は基本的に『聖道・聖者の道』なのである。

苦・集・滅・道の四諦(したい)を繰り返し観想することで八十八の見所断(けんしょだん)の煩悩を断つのだが、『見道(けんどう)』というアビダルマの実践法は、無漏の智恵(真理の観察)によって煩悩を断ち切っていくプロセスになっている。見所断の煩悩というのは、『理知的な側面(間違った小賢しい知識)』によって生じている煩悩だから、四諦の観察によって生じる無漏の智恵(正しい真理の智恵)によって即座にたちどころに断ち切ることができる。

見道とはすなわち『真理を知ること=煩悩を断つこと』によって成り立つ即効性のある実践法なのである。見所断の煩悩は、正しい智恵を知ることによってすぐに断たれるということから、ハンマーで石(煩悩)を叩き割ることに喩えられることも多い。煩悩を断ち切る作用を持つ無漏の智恵には、『忍(にん)』『智(ち)』の二種類があるとされる。

見道における無漏の智恵の生起の順序は複雑だがそれを示すと、『苦法智忍(くほっちにん)→苦法智(くほっち)→苦類智忍(くるいちにん)→苦類智→集法智忍(じゅほっちにん)→集法智→集類智忍(じゅうるいちにん)→集類智→道類智忍(どうるいちにん)→道類智』の順に十六個(十六瞬間)の智恵が生起して見所断の八十八の煩悩を断ち切ることができるのである。

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最後の見所断の煩悩が断ち切られた瞬間に『修道(しゅどう)』に入ることになるが、修道の対象となる修所断(しゅしょだん)の煩悩というのは『情・意の側面の煩悩』である。この情・意の面における煩悩は、見道のような無漏の智恵による正しい認識だけでは断ち切ることができず、『知ること≠煩悩を断つこと』になってくる。修所断の煩悩は三界に分かれていて10種類あるが、その煩悩を消尽するためには『三昧(さんまい)』の境地に達して、更に『四諦(したい)』の真理を繰り返し観照して身につけていく必要がある。

修所断の情・意の煩悩はその一つ一つを厳密に分類することが困難なので、煩悩の力の強弱によって『九品(くほん)』に分けている。九品というのは『上上・上中・上下・中上・中中・中下・下上・下中・下下』の9つの煩悩の力の強弱の分類である。

三界(欲界・色界・無色界)の煩悩は、合計9段階の『九地(くじ)』に分けられるから、『九品・九地』によって修所断の煩悩は『合計81個』あるということになる。修道において煩悩を断ち切る順序は、欲界の上上の煩悩から始まり下下の煩悩に至り、欲界が終わると色界へ、色界が終わると無色界へと進み、最後は無色界の『非想非々想処地(ひそうひひそうしょじ)』の下下の煩悩を断ち切ることで修道は完成することになる。

修道の対象となる修所断の煩悩の種類と煩悩を断ち切る修行法・境地を整理すると以下のようになる。

欲界(貪・瞋・痴・慢)……九地の欲界地(九品)

色界(貪・痴・慢)……九地の初禅地(九品)・第二禅地(九品)・第三禅地(九品)・第四禅地(九品)

無色界(貪・痴・慢)……九地の空無辺処地(九品)・識無辺処地(九品)・無所有処地(九品)・非想非々想処地(九品)

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色界における『初禅地・第二禅地・第三禅地・第四禅地』の四つの段階的境地は『四禅(しぜん)』と言われ、無色界における『空無辺処地・識無辺処地・無所有処地・非想非々想処地』の四つの段階的境地は『四無色定(しむしきじょう)』と言われている。四禅も四無色定も、煩悩の雑念に紛らわされずに精神を集中して没頭する『三昧』の境地と関係した修行法である。

四無色定について簡単に説明すると、『空無辺処(くうむへんしょ)』というのは物質的存在がない空間の無限性における三昧の境地であり、『識無辺処(しきむへんしょ)』というのは認識の無限性における三昧の境地、『無所有処(むしょうしょ)』というのは何者もそこに存在しないことを認識した上での三昧の境地、『非想非々想処(ひそうひひそうしょ)』というのは観念があるのでもなく、観念がないのでもないという普遍的な三昧の境地のことである。

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