十無記と毒矢の比喩:ブッダが説かなかったこと

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仏教の創始者である釈迦牟尼世尊(ブッダ,紀元前6~5世紀頃)は、人間を『一切皆苦』の苦悩や不幸から救済することを目指し、個人の主体的な救済手段として『悟り・解脱』という成道の道筋を示した。原始仏教は元々、『理屈』よりは『実践』を重視していたが、釈迦の教えがアビダルマの理論体系としてまとめられていくにつれて『学問的な理屈』が優勢になることも増えた。

仏教は人間を苦しみや迷いから救うための『主体的な実践的認識』であると同時に、事象を正しく把握して理解するための『客観的な理論的認識』でもある。究極的には、苦しみを無くすために自分自身がどのように生きて決断するかという『主体的な実践的認識』と世界にある物事や他者の真実の姿・特徴がどのようなものであるかを(自分の状態とは無関係に)知ろうとする『客観的な理論的認識』とは両立しない。

釈迦(ブッダ)は『客観的な理論的認識』に対する『主体的な実践的認識』の優位性を『毒矢の比喩』によって説いている。

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毒矢の比喩という喩え話は、『北伝の漢訳仏典(中阿含・『箭喩経,ぜんゆきょう』)』『南伝のパーリ仏典(中部・63『小マールンクャ経』)』に記されている。『南伝大蔵経』にある毒矢の比喩というのは、以下のような話である。

釈迦(ブッダ)がコーサラー国の首都サーヴァッティー(舎衛城)郊外にある祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)に滞在していた時に、独りで座禅の修行をしていたマールンクャ尊者は『釈迦の教えと知識に対する疑問』を抱いた。釈迦(ブッダ)はこの世界の真理を悟ったような顔をしているが、次のような難しい問題については教えを説いていない、答えを知らないのではないかという疑問である。

『この世界は常住であるか無常であるか。この世界には限界があるのか限界がないのか。霊魂と肉体は同じものであるか異なったものであるか。死後にも精神は存続するのか存続しないのか。』

師である釈迦(ブッダ)は、これらの世界と存在、霊魂(精神)に関する根本的な問題について答えることができるのかできないのか、それをマールンクャ尊者は確かめたくて仕方なくなったのである。そして、釈迦がこれらの難問に答えることができれば、今後も釈迦を師としてその元で修行を続けたいと思い、答えられなければ、釈迦の元を去って修行を放棄し世俗の生活に戻りたいと思ったのである。

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マールンクャ尊者は、ブッダと対座して自らの疑問を伝えてその答えを教えてほしいと迫った。ブッダは『マールンクャよ、私はあなたに私の元で修行をすれば「この世界は常住であるか無常であるか。この世界には限界があるのか限界がないのか…」といった疑問について答えてあげようなどと言ったことがあるだろうか』と問いかけ、マールンクャは『いいえ、ありません』と答えた。

ブッダは『マールンクャよ、もしある人が「この世界は常住であるか無常であるか。この世界には限界があるのか限界がないのか…」といった疑問にブッダが答えてくれなければ、ブッダの元では修行をしないと言ったとしよう。私はそれらの疑問について答えるつもりが初めから無いので、そのある人は修行する機会を得ることもないまま苦に満ちた生涯を終えることになるだろう。』と語り、更に言葉を続けた。

『ある人が毒を塗った矢で射られたとしよう。その人の家族や友人たちは彼の生命を救うために医者を呼びに行くだろう。それなのに毒矢で射られた本人が、自分を射た者が王族かバラモンか庶民か奴隷かが分からない限り、この矢を抜き取ってはならないと言ったとしよう。あるいは、自分を射た者の背は高かったか低かったか、皮膚の色が黒かったか黄色かったか、都会育ちの人か田舎育ちの人か、弓は普通の弓か強弓か、弓矢の弦や矢羽根の材料は何かなどが分からない限り、この矢を抜き取ってはならないと言ったとしよう。それらの質問に答えるにはかなりの時間がかかるので、調べたり探したりしているうちに、毒矢で射られたある人は死んでしまうだろう。』

『マールンクャよ。この喩え話のように、ある人が私は「この世界は常住であるか無常であるか。この世界には限界があるのか限界がないのか…」の問題についてブッダに答えを教えてもらえない限り、ブッダの元では修行をしないと言ったとすれば、私はそれらの疑問について答えない方針なので、そのある人は修行する機会を得ることもないまま苦に満ちた生涯を終えることになるだろう。』

『毒矢の比喩』は、毒矢に射られた人間は、毒矢の種類・特徴や毒矢を射た人間の特徴などについて細かく調べて知ることよりも(毒矢で射られることになった原因・要因を細かく知ることよりも)、まずはすぐにその毒矢を抜き取って怪我の手当て(毒抜きの処置)をしなければならないということであり、『客観的知識に対する主体的実践の優位』を喩え話を通して説いているのである。

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一切皆苦の真理に拘束されて生の中で今まさに苦しんでいる人間は、『世界・精神(霊魂)・自我に関する答えのでない哲学的疑問』にいつまでもこだわっているべきではなく、今まさにここにある自分の苦しみと迷いから解放されるための主体的実践に没頭すべきとするのが、ブッダ(釈迦)が『毒矢の比喩』を通して伝えようとしていることである。ブッダは『説いたこと』と『説いていないこと』の区別を明確にして、自分が『説いたこと』は説いたままに受け容れて、『説いていないこと』は説いていないままに受け容れよと教えている。

ブッダは言う。『マールンクャよ、「この世界は常住であるか無常であるか。この世界には限界があるのか限界がないのか…」の問題に関する偏見を抱く限り、人間の苦悩と迷いは絶えることがない。私はその苦悩を脱却する道を説いているのだ。マールンクャよ、だから私によって説かれないことは説かれないままに受け容れ、私によって説かれたことは説かれたままに受け容れよ。私によって説かれないこととは、「この世界は常住であるか無常であるか。この世界には限界があるのか限界がないのか…」などの問題である。私がこれらの問題について説かない理由は、これらが利義をもたらさず修行の基礎とならず、「厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃」のために益するところがないからである。』

『私によって説かれたことというのは何か。それは「苦集滅道の四諦(苦しみを滅するための道の実践的な方法論)」なのである。これが私によって説かれた理由は、これらが利義をもたらし、修行の基礎となり、「厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃」のために益するところがあるからである。マールンクャよ、だから私によって説かれないことは説かれないままに受け容れ、私によって説かれたことは説かれたままに受け容れよ。ブッダがこのように説くと、マールンクャは歓喜してブッダの教えを信じて受け容れた。』

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ブッダ(釈迦)が説かなかった苦悩の滅尽と関係しない哲学的問題(客観的知識)は、『十無記(じゅうむき)』と呼ばれている。十無記は『この世界は常住であるか無常であるか。この世界には限界があるのか限界がないのか…』などの質問の形式を取る時には、『十問・十難(じゅうなん)』と呼ばれることもあるが、十無記は以下のようにA~Dの4つのカテゴリーに分類される。

A.世界の時間的持続に関するもの。 1.常住論(じょうじゅうろん)……世界は常住である。

2.無常論(むじょうろん)……世界は無常である。

B.世界の空間的な広がりに関するもの。

3.有辺論(うへんろん)……世界には限界がある。

4.無辺論(むへんろん)……世界には限界がない。

C.霊魂と肉体の関係に関するもの。

5.霊肉同一論(れいにくどういつろん)……霊魂と肉体は同一である。

6.霊肉相異論(れいにくそういろん)……霊魂と肉体は別物である。

D.精神の存続に関するもの。

7.死後存続論(しごそんぞくろん)……死後に精神は存続する。

8.死後非存続論(しごひそんぞくろん)……死後に精神は存続しない。

9.死後存且非存論(しごそんかつひそんろん)……死後に精神は存続しまた存続しない。

10.死後非存且非非存論(しごひそんかつひひそんろん)……死後に精神は存続することもなく存続しないこともない。

非仏教思想のことを『外道(げどう)』というが、外道にもブッダ(釈迦)が説かなかったとされる『十無記』と似た種々の浮説として『六十二見』というものがあった。

外道の六十二見は、以下のように『過去に関するもの(18個)』と『未来に関するもの(44個)』に分けられる。

A.過去に関するもの(18個)

常住論(4個)

一分常住論(4個)

辺無辺論(4個)

詭弁論(4個)

無因論(2個)

B.未来に関するもの(44個)

死後論(32個)

断滅論(7個)

現在涅槃論(5個)

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