ユダヤ教の『旧約聖書』とモーセの十戒

ユダヤ人達は、モーセの十戒の第2戒で『自分のために、あらゆる像を刻むことを禁じられた』ので、絵画・彫刻といった対象を写像にする芸術活動が発達しなかった。キリスト教徒達も偶像崇拝を禁止されてはいるが、教会にキリスト像や聖人像、マリア像、ステンドグラスの芸術作品が配置されているようにそれほど厳格に偶像崇拝の禁止を遵守しているわけではない。

絵画や芸術、造形物の創作といった芸術文化の伝統を持たないユダヤ民族(イスラエル民族)にとって、最高の精神的財産は神との契約や律法を示した『旧約聖書』なのである。ユダヤ民族の精神活動が生み出した民族文化の集大成が『旧約聖書』であり、紀元前8世紀からその編纂活動が行われ始め、紀元100年頃にユダヤ教の聖典『旧約聖書』の正典が確定した。

旧約聖書の世界観と内容の構成

『旧約聖書』とは、『新約聖書』を聖典とするキリスト教徒の立場からの呼び方であって、ユダヤ民族にとっては旧約と新約を区別する意義はなく、ユダヤ教の聖典はユダヤ教聖書(ヘブライ語聖書)ただ一つである。

キリスト教徒は、2世紀頃に、新約聖書の『コリントの信徒への手紙二』の部分にある「旧い契約」という言葉に着目して、ユダヤ教の聖書にあるモーセの神との律法契約を旧約と呼び、彼らの聖典を旧約聖書と呼んでキリスト教の聖典と区別するようになった。ユダヤ民族からすると、ユダヤ教聖書と呼ぶのが正しいが、ここでは日本で慣例的に使用されている旧約聖書の名称を使うことにする。

旧約聖書は、『律法(トーラー)・預言者の書(ネビーイーム)・諸書(ケスービーム)』に分類される。旧約聖書の内容は、イスラエル民族の神話伝説・神話時代以降の約1,500年の歴史・法律・祭祀・預言・詩歌・小説・歌劇といった文学芸術のあらゆるジャンルを含むものであり、全39巻の文書から成り立っている。

ユダヤ教の分類では、律法(トーラー)に『創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記』、前の預言書に『ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記』、後の預言書に『イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書』、諸書の真理(エメス)に『詩篇・ヨブ記・箴言』、諸書の巻物(メギロース)に『雅歌・ルツ記・哀歌・コヘレトの言葉・エステル記・ダニエル書・エズラ記とネヘミヤ記・歴代誌』が配列されることになる。更に、小預言者の書として『ホセア書・ヨエル書・アモス書・オバデヤ書・ヨナ書・ミカ書・ナホム書・ハバクク書・ゼファニア書・ハガイ書・ゼカリヤ書・マラキ書』というものがある。

一神教全体に通底する旧約聖書の世界観とは、世界と生命の創造者は帰依すべき唯一神であり、絶対的な存在である神が人間の歴史を最終地点にまで導いていくとするものである。イスラエルの民は、ユダヤ教の神によってこの世界に召還され、神との契約と神が預言者に授けた律法によってイスラエル民族(ユダヤ民族)は神に選ばれたのである。ユダヤ人が、自分達を神に特別に選ばれた民族と考え、来世における永遠の救済が約束された契約の民と自認する根拠は、『旧約聖書』に記されたモーセの律法契約にある。しかし、自分達だけが特権的に神から選択されたというユダヤ人の選民思想は、他の一神教との対立を深める一因にもなっていて排他的な要素を持つ。

イスラエル民族は、幾たびか神の定めた律法を破り契約に違背したが、神はそんなユダヤ人を見捨てることなく、歴史の最後には、『油を注がれたる救世主(メシア)』をユダヤ民族に派遣することを約束された。

モーセの十戒

キリスト教の創始者はイエス・キリストであるが、ユダヤ教には明確な宗教の始祖は存在しない。しかし、ユダヤ教の旧約聖書の中に記述された指導者や英雄の中で最も重要な人物は、預言者モーセである。モーセが、ユダヤ民族をエジプトのファラオの奴隷の身分から解放し、シナイ山での神との契約をもたらしたのである。

『出エジプト』を成功させたモーセだったが、エジプトの支配から離脱した宗教共同体のイスラエルは数多くの困難や苦痛に直面して、独立した自由よりも権力への隷属を懐かしむようになってしまう。また、現世的な安楽や繁栄を願って、金の仔羊の偶像を拝んだりして、神が禁止している偶像崇拝の戒律を破ったりもした。

神との契約関係を遵守しなければ、ユダヤ民族は歴史の過程の途上で信仰の道を踏み誤り、ユダヤ人としての統合的なアイデンティティも喪失してしまうだろうとモーセたち指導者は危惧した。そこで、モーセがシナイ山山頂で神から授与された10の戒律を再確認して、ユダヤの人々に公布しそれを厳守するように教え導いたのである。このモーセが神から授かった10個の戒律が、ユダヤ人の宗教規範の原理となっており『モーセの十戒』と呼ばれる。

モーセの十戒

1.私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。あなたは私のほかに、何者をも神としてはならない。

2.あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。

3.あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。

4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日の間、働いてあなたの全ての業をせよ。
あなたもあなたの息子、娘、僕、婢、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人々もそうである。
あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを忘れてはならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられたのである。

5.あなたの父と母とを敬え。これはあなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである。

6.あなたは殺してはならない。

7.あなたは姦淫してはならない。

8.あなたは盗んではならない。

9.あなたは隣人について偽証してはならない。

10.あなたは隣人の家をむさぼってはならない。

十戒は、紙媒体の聖書が一般的でなかった時代には、両手の手指を使って暗証し遵守できる規則であった。右手は『ユダヤ共同体と神との契約=第1戒~第5戒』を数え、左手は『神を信仰し団結すべきユダヤ共同体内部の規範=第6戒~第10戒』を数えるものであったという。

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