アトンは『夕日』を神格化した古い神であり、古代エジプトの新王国時代以前からテーベで信仰されていた。しかし、新王国時代前期にアモン=ラーの太陽神崇拝が盛んになってからは、明確な神話も神殿(神像)も持たないアトン信仰は廃れていき、夕日の太陽神でもあるアトンはラーと同一視されるようになっていった。
神としての性質や特徴も抽象的ではっきりしなかったアトンは、その後、ただの天体としての太陽そのものや太陽円盤の象形を指すようになったりもした。アトンはアテンと表記されることもある。
紀元前14世紀のアメンホテプ4世の統治下では、アトン信仰よりもアモン=ラー信仰が圧倒的に隆盛していたが、4世の父であるアメンホテプ3世の時代から、ファラオ(王)の王権をも凌駕するようになってきた『アモン=ラー神官(アモン=ラー神殿の聖職者階級)』に対する国王・王族の反感は強まっていた。
アモン=ラーの神官が構成する『アモン神団』の影響力を取り除くために、アメンホテプ4世は『遷都+改宗(宗教改革)』を計画することになる。アメンホテプ4世の妻のネフェルティティが元々アトンを信仰していたことから、“アモン神(アモン=ラー神)”から“アトン神(アテン神)”への大胆な宗教改革が計画されることになる。
紀元前1350年頃に、アメンホテプ4世はエジプト王国の都をテーベの北方にある『アマルナ(現在のエル・アマルナ)』に遷都して、自分の名前も『イクナートン(イク・ン・アトン)』へと改名し、アトン神こそが唯一最高神であると定めてアトン神殿を次々に建築していった。イクナートン(イク・ン・アトン)という名前には、『アトンの輝き,アトンに愛される者』という意味があるが、王の名前を改名してアトン神を唯一最高神と定め、アマルナへと遷都したこの一連のドラスティックな宗教改革を『アマルナ宗教改革(アマルナ革命)』と呼んでいる。
イクナートンが唯一神のアトンを礼拝している浮き彫り(レリーフ)が残されているが、アトン神の姿は元々は隼の頭を持つ神や太陽円盤を頭に頂いた人間の姿で描かれていたが、唯一絶対神としてイクナートンに定められてからは『太陽円盤から多数の手が差し出されている形態』や『輪つきの十字架を持った手の形態』で表されるようになった。
アトン神は『太陽神・平和と恵みの神』であるが、『動物の頭を持つ獣頭人身』の他のエジプトの神々とは違って、先端が手の形状をした太陽光線を無数に放つ形態、あるいは光線の一つに生命の象徴であるアンクを握らせた太陽円盤の形態で表現されていたのである。アトン神の本体である太陽光線は『ありのままの事実を照らし出す力』であり、イクナートンの時代の美術は具象的なリアルな表現が中心になった独特のもので『アマルナ様式』と呼ばれている。
アメンホテプ4世が狂信的とも言える信念と速度で断行したアマルナ宗教改革(アマルナ革命)の目的は、ファラオよりも強大になっていたアメン神団の影響力を抑圧して、ファラオの王権を再強化することであった。王家はアモン=ラー信仰をやめて、アモン神殿を破壊したりアモン=ラー神の文字を削ったりしたが、他の全ての神々の祭祀も同時に停止させたため、多神教国家であったエジプト王国の人々の反発や不満が急速に高まっていった。
アマルナ宗教改革は史上初の多神教から一神教への人工的な転換であったが、自分たちの神々の信仰を否定された民衆の不満・怒りが大きくなり、またファラオ(王)がアトン信仰に異常にのめり込んだためにエジプト王国の国力も低下してしまった。
過激で急速なアマルナ宗教改革は、アモン神団の抵抗と多神教を否定された民衆の不満によって失敗に終わり、イクナートン(アメンホテプ4世)の死後に、息子のツタンカーメンが王位を継ぐと、アトン信仰は否定されて再びアモン・ラーの信仰に戻っていった。アトンは唯一神・絶対神の地位を失って、単なる天体としての太陽と同一視されるようになった。
古代エジプトのアトン神は『唯一神の起源』と認識されることも多く、特に精神分析の始祖でエジプト神話にも関心を持っていたジークムント・フロイトは“イクナートンの治世の年代”と“ユダヤ人の出エジプトの推定年代”が重なっていることから、ユダヤ教の唯一神ヤーウェ(ヤーヴェ)の原型・起源はエジプトのアトン神にあるとする仮説を提唱している。
トップページ> Encyclopedia>
世界の神々>現在位置
プライバシーポリシー