中東で生まれたイスラム教は、アラビア語の原音に忠実に書くならば、“イスラーム”あるいは定冠詞を付けて“アル・イスラーム”と書かれるべき宗教であるが、ここでは日本の人口に膾炙しているイスラム教の表記を用いる。イスラム教生誕の土地であるマッカも、一般的に普及している欧米的な発音のメッカの表記を用いる。
“イスラーム”という言葉は、アラビア語で『唯一神への帰依』を表している。『唯一神へ帰依する者』を“ムスリム(Muslim)”といい、一般的にイスラム教徒のことをいう。イスラームという言葉は、唯一絶対神であるアッラー(アラビア語ではアッラーフ)に無条件に帰依する宗教体系(倫理規範・生活規則含む)そのものを指示する言葉である。
イスラームという言葉に元々宗教という意味が内在しているので、日本で慣習的に呼ばれているイスラム教の「教」という接尾語は本来必要ないものといえる。しかし、世界三大宗教である『キリスト教・イスラム教・仏教』を並べて表記する際のバランス(語呂)の良さや日本の学校教育による表記(イスラム教)の普及度を考えると、イスラム教という表記を用いることで共通理解を高められるというメリットがある。ただ、啓蒙的な知識として、イスラム教よりイスラームのほうが、原語であるアラビア語の発音や意味により近いという理解を持っておくことは必要だろう。
イスラム教(イスラーム, Islam)は、イスラム教信徒であるムスリム(Muslim, Moslem)が、『最高にして最後の預言者』であると信じるムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ(570頃-632)によって創始され世界宗教へと発展した宗教である。ムハンマド(Muhammad)は、過去には、トルコ語表記をヨーロッパ言語で読んだマホメット(Mahomet)と呼称され表記されることが多かったが、現在では、アラビア語読みのムハンマドと表記する書籍が増えている。
宗教学の専門書だけでなく高校の世界史の教科書でも、アラビア語表記であるムハンマドが正式な呼称・表記として採用されるようになっている。イスラム教徒がウイグル(回鶻)地区に多かった中国では、イスラームのことを回教・回回教(フイフイ教)と呼んでいたが、中国でもイスラームのことを回教と表記することは少なくなっている。
イスラム教は、現在のサウジアラビア領に属するアラビア半島中西部のオアシス都市メッカ(マッカ)に興ったが、7世紀当時のメッカは東西交易の中継地点として栄えた商業都市であった。現在、イスラム教の聖地となっているメッカのカーバ神殿は、イスラム教誕生以前から存在していて、多神教的な色彩を強く持つ部族神崇拝の宗教的聖地であった。
イスラム教は、砂漠気候の気候帯に属するアラビア半島の乾燥地帯に生まれたが、荒漠とした砂漠で狩猟採集をしながら生きる遊牧民の間で広まった『砂漠の宗教』というわけではない。当時のメッカが、世界各地の物資(財宝・食糧・書籍・稀少品・香辛料)が集積する商業都市であったこと、開祖のムハンマドが商人の家系の生まれであったことを考えると、砂漠気候の乾燥した風土で育まれた『都市の宗教』であるという認識が妥当であろう。
ムハンマドは40歳頃(西暦610年頃)のラマダン月(断食月)に、唯一神アッラー(アッラーフ)の意志を媒介する天使ガブリエル(アラビア語ではジブリール)によってメッカ郊外で啓示を受けてイスラム教を創唱した。ムハンマドによるイスラム教の誕生は紀元7世紀であり、イエス・キリストによる『キリスト教(紀元1世紀)』やガウタマ・シッダールタ(釈迦牟尼世尊)による『仏教(紀元前6世紀)』と比較するとその歴史は新しい。
世界宗教と比較すると確かにイスラームの歴史は新しいものだが、日本の歴史の時代区分に対応させると、645年の大化の改新よりも古く、奈良県の飛鳥の地に政治の中心地である都(宮)が置かれていた飛鳥時代に該当する。538年に朝鮮半島の仏教国であった百済の聖明王から仏教が伝えられた。イスラーム誕生の610年頃には、朝廷の階級秩序である冠位十二階や国の基本精神である十七条憲法(604)を制定した聖徳太子が統一国家建設のための大規模な国政改革を目指していた。聖徳太子以外にも、女性天皇である推古天皇、仏教導入に反対する物部守屋を打倒(587)した強盛な豪族の蘇我馬子が、中央集権的な国の基盤作りに活躍した時代である。
古代の日本と宗教の関係では、当時の新興宗教である仏教を『疫病・飢餓・内乱』を鎮撫する護国宗教として国が保護奨励しており、どちらかといえば政教一致の国家形態が志向されていた。推古天皇や聖徳太子、蘇我馬子は十七条憲法に定められているように仏法僧を敬い、蘇我馬子は飛鳥寺を、聖徳太子は四天王寺と法隆寺を建立した。
古代日本の仏教興隆の背景には、統一国家としての共同体や公共の秩序を強く意識することのなかった時代に、バラバラの地方の権力をまとめたいという朝廷周辺の意志があり、中国・朝鮮半島の国々に比肩する中央集権国家を建設したいという聖徳太子の悲願があったと言われる。即ち、護国安寧のご利益のある仏教の教えや倫理を布教することで、一般民衆に対して『公(国家)』を意識させたいという狙い、『公共心・規範意識・社会貢献』という社会秩序維持に役立つ宗教的心性を広めたいという朝廷権力の意図があったように思える。
イスラーム誕生の時期は、藤原不比等の支持を受けた女性天皇である元明天皇(在位707-715)が、奈良の藤原京から平城京に遷都する約100年前の時代である。中国由来の律令制に基づく(天皇中心の)中央集権国家の礎が固められつつあった時であり、日本の国としての起源を偲ばせる日本国の黎明の時期でもあった。
日本の歴史と宗教の話からイスラーム(イスラム教)誕生の歴史の話に戻りたいと思う。西暦610年頃に天使ガブリエル(ジブリール)の啓示を受けてイスラームの布教活動を始めたムハンマドは、『唯一神アッラーフ(Allah, アッラー)への無条件の帰依』と『神の前の平等主義』を主張して、アッラーフ(アッラー)に帰依するムスリムが敬虔な信仰心と相互扶助の精神で結合する理想の『ウンマ(イスラーム共同体)』を建設しようとした。
しかし、当時のメッカの権力者や富裕層にとって、ムハンマドの説くイスラームの教えは必ずしも彼らの利益にならないものだった。そればかりか、『唯一神アッラーフの前に万人が平等である』というイスラームの基本思想は、メッカの有力者層の既得権益や政治的な地位を脅かすものであったため、ムハンマドとイスラームの信徒達はメッカで厳しい迫害と不当な差別を受けるようになる。ムハンマドがガブリエルの啓示を受けて預言者になったばかりのイスラーム初期には、その信者はムハンマドの家族・親族や親密な友人知人だけに限られていたと言われる。しかし、この時期にイスラームの信者となった富裕な商人アブー・バクルは、ムハンマドの生涯の親友となり、長きにわたってその布教と政治を有能な知性と旺盛な行動力で支援する事になる。
日増しに激しくなっていくメッカ(マッカ)でのイスラーム迫害に耐え切れなくなった預言者ムハンマドと親友のアブー・バクルは、621年にメッカの北西400キロの火山台地にあるヤスリブ(メディナ)へと逃れることになる。この621年にムハンマドが行ったメッカからメディナへの拠点移動を、アラビア語の“移住”を意味する語を当てはめて『聖遷(ヒジュラ)』と呼ぶ。
宗教の開祖が、布教活動を始めた土地では受け容れられず、苛烈な迫害・弾圧を受けるという伝説。そして、その屈辱と差別に耐え忍ぶ臥薪嘗胆の時期を経て、弾劾を受けた土地へ捲土重来を果たすというのは、キリスト教やイスラム教を筆頭におよそ全ての大宗教に共通する元型(アーキタイプ)の物語といえる。
聖遷(ヒジュラ)によってヤスリブ(後のメディナ)に活動の拠点を移したムハンマドとアブー・バクルは、熱心な布教活動を行ってメディナで大勢のムスリム(イスラーム信徒)を獲得し、ムスリムの相互扶助と信仰心によって支えられる強力なウンマ(イスラーム共同体)の建設に成功する。ヤスリブのみならず周囲のアラブ人をムスリム化させることに成功したムハンマドは、自らの教義を否定しアッラーフ(アッラー)の啓示を無視したメッカに立ち戻り、630年にメッカの占領(圧倒的軍勢による無血征服)とイスラームの布教を果たす。
しかし、メッカ占領を達成した2年後の632年にムハンマドは死去し、生涯変わらぬ忠誠と信仰を誓ったアブー・バクルがウンマ(イスラーム共同体)の政治上(行政)の最高指導者であるカリフ(ハリーファ)に就任することとなる。イスラームの始祖ムハンマドの死後に、ウンマやイスラーム国家の最高権威を有する預言者の代理人のことをカリフ(ハリーファ)という。その名称の由来は、初代カリフに就任したアブー・バクルが『神の使徒の代理人(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)』を称したことによるという。
カリフを預言者ムハンマドの代理人としてその最高権威を認めるイスラーム宗派がスンナ派であり、カリフの権威を認める初期イスラーム共同体から分派したシーア派は、カリフの政治的指導者としての権威を認めない。カリフの中でも初期のイスラーム共同体(ウンマ)で、ムスリムの民主的な合議によって選出されたカリフを特に『正統カリフ』と呼び、スンナ派の信徒からは強い敬意と信頼を寄せられている。
しかし、イスラームではムハンマドやカリフは尊敬の対象にはなっても、宗教的崇拝や神聖性の象徴とはならないことに注意が必要である。キリスト教の教義では、イエス・キリストを神の子として『神・キリスト・聖霊』は三位一体の存在であると見なすのに対して、イスラームの教義では、開祖ムハンマドといえども神の言葉を預かる単なる人間に過ぎないのである。イスラームでは、モーセやイエス、ムハンマドなどの預言者や預言者の代理人(カリフ)に神聖性を認めることがなく、彼らを宗教的信仰や崇拝の対象とすることは禁じられている。
正統カリフは、『初代アブー・バクル(632-634年)、二代目ウマル(634-644)、三代目ウスマーン(644-656)、四代目アリー(656-661)』の4代まで続いた。四代目カリフのアリーとの戦いに勝利したシリア総督のムアーウィヤが、武力を用いてカリフの地位を奪取したことにより、ウンマから民主的に選出される正統カリフの時代は終わりを告げる事になった。
軍事的な実力行使によってカリフの座を得たムアーウィヤはムアーウィヤ1世として王になり、歴史上初のイスラーム王国となるウマイヤ朝(661-750年)を樹立した。ウマイア王朝建設以降、カリフの位は王家が世襲するようになり、正統カリフの時代のような合議による選出はなくなった。一方、ウマイヤ朝成立以後、広大な版図を領有するイスラーム王国(イスラーム帝国)の相次ぐ出現によって、イスラム教(イスラーム)が世界宗教として発展を遂げる地政学的な基盤が形成されることとなった。
ムハンマド存命中には、イスラームは世界宗教と呼べるほどの信者数と地理的版図を持っていなかったが、ウマイア朝やアッバース朝、セルジュク朝トルコ、オスマン朝トルコなどのイスラーム帝国の登場によって、アラビア半島だけでなく、中東全域、ヨーロッパ各部、中央アジア、インド周辺部、アフリカ北部、中国大陸西北部などに布教範囲を広げ世界宗教としての地歩を確実に進め始めたのである。
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