織田信長の天下統一の夢の瓦解:本能寺の変

織田信長の最盛期と中国侵攻・石山退去
織田信長の天下布武の崩壊・本能寺の変

織田信長の最盛期と中国侵攻・石山退去

『織田政権と石山合戦』の項目では、一向一揆との戦いや上杉謙信の西下について解説しましたが、謙信が大軍勢を集めながらも急死したことで信長軍の優勢がより一層強まります。中国攻め(毛利攻め)の総司令官となった羽柴秀吉(1537-1598)は、黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)別所長治(べっしょながはる)を道案内役にしながら但馬・播磨に進軍して、1577年に宇喜多直家(うきたなおいえ)の支配下にあった重要拠点の上月城(こうづきじょう)を落としました。

しかし翌1578年に予期していなかった別所長治の反乱が起き、長治は東播磨にある拠点の三木城(みきじょう)に篭城し、その周辺にある諸城の大名や国人も反信長の兵を起こしました。別所長治は毛利輝元の勧誘を受けて信長に謀反を起こしたとされますが、毛利輝元と石山本願寺・紀州の雑賀衆(さいかしゅう)も信長打倒で連携しており、本願寺の水軍が三木城に兵糧を運搬しました。

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小早川隆景・吉川元春・別所長治の毛利軍に対して、信長は嫡子・織田信忠を総大将にして、荒木村重・滝川一益・丹羽長秀・佐久間信盛を差し向けますが、戦況は毛利軍が優勢であり信長軍は播磨・上月城を奪還されてしまいます。更に驚くべきことに、信長が摂津の一職支配を委任して厚遇していた荒木村重(あらきむらしげ,1535-1586)までもが1578年10月に謀反を起こして、石山本願寺(顕如)と毛利輝元に忠誠を誓う誓紙と人質を差し出したのです。

摂津伊丹城(有岡城)に篭城する荒木村重に同調するかのように、キリシタン大名の高槻城城主・高山右近(たかやまうこん)と茨木城城主・中川清秀(なかがわきよひで)も信長に反旗を翻しました。謙信が死去して関東からの脅威が無くなった織田信長でしたが、甲斐では長篠の戦いで苦杯を飲んだ武田勝頼(たけだかつより)が再起を狙っており、摂津・播磨における毛利軍・石山本願寺軍との戦いの雲行きも怪しくなってきました。しかし、この戦況の不利を一変させるのが、信長方の九鬼水軍の毛利水軍(村上水軍)に対する勝利であり、信長は瀬戸内海の制海権を取り戻して毛利に対する攻勢を強めます。

志摩の九鬼嘉隆(くきよしたか,1542-1600)と伊勢北部の滝川一益(たきがわかずます,1525-1586)は水軍増強を信長に命令されており、1578年6月に鉄板の装甲と三門の大砲を装備した強力な大型艦船を7隻建造していました。信長はこの当時最新の大型艦船を自在に駆使して、本願寺方の雑賀衆の水軍を撃滅させ、それに続いて毛利氏が誇っていた強力な村上水軍を撃破します。九鬼水軍の勝利に勢いを得た信長は、ポルトガル人宣教師オルガンティーノを使節として派遣し高槻城の高山右近を降伏させました。

残る播磨・伊勢地方のターゲットは、有岡城(伊丹城)の荒木村重と三木城の別所長治に絞られましたが、1579年に長年にわたって西方への道を塞いでいた播磨の宇喜多直家が信長に味方するようになります。1579年は、徳川家康が正妻の築山殿(つきやまどの)と嫡子・徳川信康(のぶやす,)を自害させる命令を下しており、この事件の背景には甲斐の武田勝頼の動きが活発化していたこと(勝頼と築山殿が密通していたとの疑い)が関係していたのではないかとも言われています。徳川信康(信長の娘・徳姫と結婚)と築山殿の自害の理由は明らかになっていませんが、信長が家康に命令して自害させた痕跡はなく、あるいは単純に家康と信康の親子対立が原因なのではないかという見方もあります。

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明智光秀(あけちみつひで,1528-1582)は畿内と中国をつなぐ重要な交通路でもある丹波(たんば)を攻めていましたが、丹波を守っているのは八上城(やがみじょう)の波多野秀治(はたのひではる)を筆頭とする三兄弟でした。明智光秀は、苛烈な兵糧攻めと計略を用いて波多野三兄弟を打ち破り丹波を平定しました。『総見記(そうけんき)』のエピソードには波多野氏に計略を仕掛けるときに、信長の命令で光秀が自分の母を差し出したという話がありますがこれは史実ではないようです。

1579年9月には、荒木村重が有岡城(伊丹城)に女・子どもを残したままで尼崎城の荒木村次(村重の子)のもとに逃げ有岡城は落ちます。信長は裏切りに対する見せしめのために、有岡城に残っていた荒木氏・有力武将・下級武士の妻子を残虐な方法で処刑しますが、荒木村重だけは信長の死後にも生き残り堺の町で茶人としての余生を送りました。播磨の三木城に立てこもる別所長治も周囲から孤立して追い詰められ、羽柴秀吉の過酷極まりない二年以上にわたる兵糧攻め(三木の干殺し)によって陥落しました。別所長治とその一族は1580年1月に自害して、信長軍は丹波・摂津・播磨という西方の毛利氏に向かう重要拠点の制覇に成功します。

播磨の宇喜多直家が信長方についたことや丹波・播磨を完全に押さえられたことによって、毛利輝元の上洛は殆ど不可能になり、毛利氏と結んでいた本願寺も信長に抵抗することが困難になってきました。1580年に至って石山本願寺・毛利輝元を中核とする反信長勢力は腰砕けとなり、毛利氏の決起に期待していた足利義昭の将軍復位の夢も崩れ去ったのです。

1580年3月には、石山本願寺・顕如(けんにょ,1543-1592)との講和条件がまとまりますが、顕如の嫡子・教如(きょうにょ,)と雑賀衆の一部が信長軍との講和に反対して徹底抗戦を主張します。しかし、中世最大の宗教勢力・石山本願寺(浄土真宗の総本山)も、天下一統を目前にした織田信長の権力と軍事力には抵抗することが敵わず、1580年4月に顕如が紀州の鷺森御坊(さぎのもりごぼう,雑賀衆の拠点)に移り、8月には教如も顕如に続いて紀州・雑賀に落ちました。本願寺勢力が難攻不落の石山本願寺城(石山御坊)から自発的に撤去した出来事を『石山退去』と呼び、この後すぐに石山本願寺は全焼して跡形もなく焼け落ちてしまいました。

織田信長は貨幣経済と商品流通を活性化するために『楽市楽座・関所の廃止・交通網の整備・貨幣の撰銭令』などを行ったことでも知られますが、こういった経済政策・都市政策は限定的なものではあったものの、中世的な権威や慣習の衰退に大きく貢献し日本近世へと時代を進めました。石山退去によって絶対的な専制君主としての織田信長の権力基盤は更に拡大し、河内・大和の抵抗勢力の拠点をつぶすための『城割り(城砦の破壊)』を行い、年貢・税金を確実に徴収するために近江・大和・摂津などに対して、土地の面積や生産高を自己申告させる『指出し(さしだし)・検地』を実施しました。畿内全域に対する課税権を確保しつつあった信長は、統治のための軍事力だけではなく財務基盤も強化することになります。

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いよいよ絶頂に達しつつあった自らの権力と信長軍団の威勢を京都の貴族と町衆に植えつけるために、1581年2月28日、『京都大馬揃え(おおうまそろえ)』のセレモニーを断行します。

正親町天皇(おおぎまちてんのう)の観覧を仰いで、精強な信長軍団を総動員し開催された絢爛豪華な京都大馬揃えは、現代で言えば盛大な規模の軍事パレードに近いものであり、織田信長こそが天下の実質的な掌握者であることを喧伝する効果を持っていました。名馬に打ちまたがって華やかな衣裳に身を包んだ信長軍団の猛将たちが京都の町を疾走し、武力による天下布武(安定統治)を実現しつつあった信長軍団は、京都の公家・民衆から惜しげのない拍手喝采を浴びたのです。

この華やかで盛大な軍事デモンストレーションは、信長こそが天下の盟主であることを日本国中に広める作用を持ちましたが、信長が重用していた羽柴秀吉は中国攻めの途中で参加できませんでした。それ以外には滝川一益、細川藤孝、池田恒興が不参加でしたが、『織田信忠・織田信雄・織田信孝・明智光秀・柴田勝家・村井貞勝・前田利家』など信長軍団の代表的な武将のほとんどがこの京都大馬揃えに参加しました。

織田信長の天下布武の崩壊・本能寺の変

石山本願寺と東国(上杉謙信)の脅威を取り除いた織田信長に残された敵は、安芸を拠点とする毛利輝元であり、信長は羽柴秀吉に中国攻め(毛利攻め)の指揮を取らせます。秀吉は1581年10月に吉川経家の守る鳥取城を得意の兵糧攻めによって陥落させ、毛利方の重要拠点である備中・高松城の城攻めへと取り掛かります。東方の甲斐に残された最後の敵対勢力として武田勝頼(たけだかつより,1546-1582)がいましたが、勝頼は長篠の戦い(1575)で信長・家康に大敗してから1577年に北条氏政(ほうじょううじまさ)と同盟を結びます。

しかし、1579年に北条氏政のほうが武田勝頼との同盟を解消して氏政と徳川家康が連携するようになり、家康は遠江の高天神城(たかてんじんじょう)を守る武田方の岡部長教(おかべながのり)を倒して遠江を獲得します。武田勝頼は徳川家康と北条氏政に包囲されて軍事的な不利な情勢となり、甲斐の拠点を躑躅ヶ崎館から韮崎・新府城へと移して進軍よりも国防の構えを強めましたが、1582年に武田方の福島城城主・木曾義昌(きそよしまさ)が謀反を起こします。

甲斐・信濃の最大敵対勢力である武田勝頼を討伐する絶好のチャンスであると考えた信長は、織田信忠・河尻秀隆(かわじりひでたか)・森長可(もりながよし)を伊那口から攻め上らせ、信長自身も遠征に参加することを決めました。駿河から徳川家康、関東から北条氏政、飛騨から金森長近(かなもりながちか)、伊那から織田軍団が攻め寄せてくることになった信濃・甲斐は恐慌状態となり、武田方の江尻城城主(駿河方面)・穴山信君(あなやまのぶきみ,信玄の姉の子)は戦うことなく信長に降伏します。

武田勝頼は信濃の堅城で守りの要とされた高遠城(たかとおじょう)で敵の進軍を何とか食い止めたいと考えていましたが、織田信忠・河尻秀隆の激しい攻撃を受けて1582年3月2日に高遠城が陥落し城主の仁科盛信(にしなもりのぶ)は最後まで戦って戦死しました。高遠城落城の報告を受けた武田勝頼は新府城に火をつけて逃げ落ちますが、岩殿城の小山田信茂(おやまだのぶしげ)に受け入れを拒否され僅かな軍勢と共に田野へと落ちていきます。しかし、3月11日に信長軍・家康軍に追い詰められて進退窮まった武田勝頼・信勝父子は一族や近臣と共に自害し、ここに戦国大名の武田氏は滅亡しました。

関東に残っていた最後の宿敵・武田勝頼を滅ぼした信長は、甲斐・信濃を手に入れて更に版図を拡大し、武田攻めに北条氏政が加わったことで関東・北条氏も事実上、信長の勢力圏へと組み込まれていきます。甲斐侵攻の論功行賞によって、穴山信君は本領安堵され木曾義昌は信濃の二郡を与えられましたが、徳川家康には駿河一国がそのまま与えられ家康は東海地方最大の大名となります。

信長配下の武将に対しても、滝川一益には上野(こうずけ)と信濃二郡が、河尻秀隆には甲斐(かい)の大部分が、森長可には信濃四郡が与えられました。武田の旧領と富士山を見ながら安土への帰途についた信長でしたが、1582年4月23日に、勅使の勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)が安土へと下向して天皇からの祝いの品を届け、5月4日には、上臈局(じょうろうのつぼね)・大御父人(おおおちのひと,誠仁親王の使い)・勧修寺晴豊が安土に下向して織田信長に『太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに推挙する』と伝えました。

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中国地方の毛利氏を除く天下布武をほぼ成し遂げ天下の治安を安定させた織田信長に対して、朝廷の正親町天皇は『朝廷の最高位の官位(太政大臣・関白)』『幕府の最高位の役職(征夷大将軍)』を賜与したいと伝えてきたわけですが、信長の反応は冷淡であり確かな返事を何もしませんでした。清水宗治(しみずむねはる)が守る備中の高松城を羽柴秀吉が包囲しており毛利氏との戦いも着々と進展していましたが、信長は更に四国・中国の同時平定を計画して、三男の織田信孝(神戸信孝)を総大将として四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)征伐に向かわせようとします。

秀吉に包囲された高松城の清水宗治を救援するために毛利本軍が動き始めたと聞くと、信長自身も中国平定の軍事に参加することを決定し、5月17には明智光秀・細川忠興・高山右近・中川清秀らに出陣命令を下しました。5月15日~17日には、三河・駿河・遠江を統治する徳川家康が穴山信君を連れて安土城にお礼・祝賀のためにやってきており、明智光秀が家康の接待役を務めていましたが、中国侵攻への出陣を信長に命令された光秀は5月17日に近江・坂本城に入りました。

5月19日、20日にも信長が家康を摠見寺(そうけんじ)の幸若舞と丹波猿楽の能でもてなして、家康に京都・大坂・堺・大和などの観光に行ってはどうかと勧め、家康はその勧めに従って5月21日に上洛します。5月29日に中国侵攻に向かう準備を整えた信長は、安土城の留守役を蒲生賢秀(がもうかたひで)に命じ、上洛した信長は宿所にしている本能寺(ほんのうじ)に入ります。信長に謀反を起こす明智光秀のほうは、1582年5月26日に近江・坂本を出発して中国出陣の命令を待つために拠点の丹波亀山城に入っていました。

5月27日には、光秀は信長への反乱をほぼ決意していたようであり、丹波・山城国境沿いにある愛宕山(あたごやま)に赴いて何度か神意を問うための『神くじ』を引いており、28日には『ときは今、あめが下しる 五月哉』という意味深な連歌を里村紹巴(さとむらじょうは)と共に詠んでいます。6月1日の夜、中国進出のためと称して明智光秀は約1万3千人の軍勢を丹波亀山から動かし、丹波・山城国境にある『老ノ坂(おいのさか)』で光秀は明智一族や重臣たちに謀反の計画を打ち明け同意を取り付けたといいます。

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中国出陣に参加するための進軍であれば、光秀は老ノ坂から播磨への道をとるはずでしたが、光秀は西に向かわずに老ノ坂を京都へと進んでいきます。『蓮成院記録(れんじょういんきろく)』によれば、明智光秀は部下の兵士たちには『西国出陣の前に信長さまに軍勢を拝謁して頂く』と語っていたともいいます。光秀軍は老ノ坂を下った沓掛(京都市西京区)で朝食の休養を取った後に桂川を渡りますが、ここに至った6月2日の未明、光秀は全軍に向かって『敵は本能寺にあり』と命令を下し信長に対して総攻撃を開始しました。

本能寺に寄宿していた信長は外の激しい物音を聞きつけ、側近の小姓・森蘭丸に『これは謀反であるか。何者が謀反を企てたのか』と問いかけます。蘭丸が『明智勢のように見受けられます』と応えると、信長は『是非に及ばず』とだけ応えて少ない小姓衆・中間衆と共に抗戦に転じますが、1万3千の明智軍に対してわずか数十人の小姓衆では対抗することはできず、信長は本能寺の居所に火を放って殿中奥深くで切腹して果てました。この明智光秀の謀反による信長死去の事件を『本能寺の変(1582)』といいますが、本能寺の変を起こした明智光秀も信長の権力基盤の継承に失敗し、次世代の覇者となる羽柴秀吉によって滅ぼされることになります。

妙覚寺に寄宿していた嫡子の織田信忠も迅速な判断ができずに逃げ遅れ、京都・二条御所に入って防戦しましたが及ばず、26歳で自害することになります。天下布武の野望に駆り立てられた戦国の英雄・織田信長の夢は余りにもあっけなく瓦解することになり、西国支配(中国・四国の平定)を目前に控えながら享年49歳でこの世を去ります。

信長の天下布武の業績をそのまま継承するのは、信長を討った「明智光秀」でも織田家の重臣だった「柴田勝家」でも海道一の弓取りと呼ばれた「徳川家康」でもなく、中国侵攻の総指揮官として高松城を包囲していた農民出身の戦国大名「豊臣秀吉(羽柴秀吉)」でした。本能寺の変後に、信長の仇を討つ『山崎の戦い』で勝利した羽柴秀吉は天下人になるための快進撃をスタートさせ、農民出身の羽柴秀吉から人臣位を極めた太閤・豊臣秀吉となるのです。

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