豊臣秀吉の天下一統の完成
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)
『豊臣秀吉の天下一統』の項目では、関白太政大臣という朝廷の最高位に上り詰めた豊臣秀吉が、人心掌握の策略を用いて徳川家康を上手く懐柔し、四国・九州・関東(小田原)へと天下布武を進めていくプロセスを解説しました。1586年に越中国の佐々成政(さっさなりまさ)を威圧して簡単に降伏させた秀吉は、本格的に島津氏が覇権を拡大していた九州征伐に乗り出します。
九州征伐の前哨戦になったのは、天正14年12月12日(1586年)に行われた戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)であり、島津家久(しまづいえひさ,1547-1587)が率いる薩摩軍に豊臣方に帰属した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・長宗我部信親(のぶちか)父子が率いる軍勢がぶつかりました。島津家久は島津貴久の四男であり、戦国武将として著名な島津義久・義弘の弟です。家久は有馬晴信と組んで肥前の有力武将だった龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ, 1529-1584)を沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい,1584年)で破ったことでも知られています。
九州統一を目指した島津氏は豊後のキリシタン大名・大友宗麟(おおともそうりん,1530-1587)を攻めようとしましたが、大友氏は秀吉への服属の姿勢を明らかにしていたため、秀吉は大友氏を助けるための援軍を派遣しました。四国の覇者であった長宗我部元親・長宗我部信親が九州進軍の先方を務め、軍監として秀吉軍団の古参である仙石秀久(せんごくひでひさ,1552-1614)が付いていました。
三好長慶(みよしながよし)の弟・三好義賢(よしかた)の次男である十河存保(そごうまさやす, 1554-1587)も秀吉連合軍に従っていましたが、1586年の戸次川の戦いでは仙石秀久の独断専行の戦術が裏目にでて秀吉方が島津軍に大敗することになり、十河存保と長宗我部信親が戦死しました。戸次川の戦いでの敗戦の報告を受けた豊臣秀吉は激怒して仙石秀久を改易処分とし、翌1587年に豊臣秀吉と弟の豊臣秀長(ひでなが,1540-1591)で20万の大軍を編成して本格的な九州平定に乗り出します。豊臣方の大軍に圧倒された島津義久・義弘の兄弟は数ヶ月間にわたって抵抗しましたが、1587年4月に義久が降伏して九州征伐が達成され西日本が秀吉の版図に組み入れられました。
九州平定を終えた秀吉は1587年7月に、筑前箱崎(博多近辺)において、キリスト教の宣教と南蛮貿易を禁止するバテレン追放令(伴天連追放令)を出しますが、実際の取締りはそれほど厳しいものではなく、キリスト教信仰そのものが禁止されるのは江戸時代になってから(1614年のキリスト教禁止令以降)でした。しかし、秀吉のバテレン追放令の発布後に起きたキリスト教徒の迫害事件として、長宗我部氏が管轄する土佐に漂着したスペイン船の積荷を増田長盛(ましたながもり,五奉行の1人)が没収した『サン=フェリペ号事件(1596年)』があり、秀吉は『キリスト教宣教師を用いたスペインの武力侵攻計画』を懸念していたとも言われます。
そういったスペイン本国の植民地政策と宣教師によるキリスト教勢力の拡大(一向宗のような抵抗勢力の誕生)を恐れた秀吉は、1597年2月に『日本二十六聖人』を弾圧して処刑しています。九州征伐後に残ったのは東国(関東)の後北条氏と東北の伊達政宗でしたが、秀吉は天正18年(1590年)に関東に遠征することを決め、難攻不落と評された後北条氏の拠点・小田原城を大軍勢で包囲します。この時に、奥州の覇者となっていた伊達政宗(だてまさむね,1567-1636)に、小田原攻めに参加するように命令しますが、政宗はこの参軍命令に違背して遅れてしまいました。
幼少時に疱瘡(天然痘)で片目を失ったことから『独眼竜』と呼称された伊達政宗は、小田原攻め以前にも大坂に上洛して秀吉に恭順の意を示すようにという督促状を何度も受け取っていましたがそれを黙殺していました。政宗は北条氏政・北条氏直父子と書状を取り交わしており、秀吉に付くか後北条氏に付くか逡巡していたといいます。しかし、小田原城を包囲するために集結した秀吉連合軍の圧倒的な軍勢の多さを見て『秀吉に敵対することは得策ではない』と判断し、小田原城攻めに遅れながらも参加して秀吉に服属する意志を示しました。
天下の堅城と言われた小田原城も秀吉方の20万を超える大軍の包囲には抵抗を続けることができず、北条氏政(ほうじょううじまさ,1538-1590)・北条氏直(うじなお,1562-1591)父子は降伏しました。秀吉の命令により関東討伐の原因を招いた主戦論者の北条氏政とその弟・北条氏照(うじてる)は切腹させられ、ここに北条早雲以来5代にわたって関東に大きな勢力圏を築いていた『後北条氏』は滅亡しました。北条氏直ら北条一門の多くは高野山への流罪に処されました。後北条氏の小田原城を中核とする広大な関東地方の領土は、そのまま徳川家康が継承することになり、その後の江戸幕府開設の勢力基盤となります。
後北条氏の拠点であった関東地方を平定し、伊達政宗を従属させて政宗の会津の所領を没収する『奥州仕置(おうしゅうしおき, 1590年)』を行ったことで、豊臣秀吉の天下統一は完成しました。関東・奥州の征伐によって豊臣秀吉に敵対する勢力は日本国から消滅しましたが、今度は長い戦国時代を通して強化・増員されてきた『過剰な兵力の活用』と『兵士・武将の失業問題』が大きくなってきます。
天下布武の成立によって戦国時代が実質的に終焉したとしても、それまで戦争によって仕事と所領を得てきた軍隊と過剰な兵員を急速に削減することはできませんから、国内の政治秩序と治安状況を維持するためには適度な仕事(戦争)を軍隊に与えることが必要になります。豊臣秀吉は『刀狩りによる軍縮・兵農分離』と『公共事業的な海外遠征(朝鮮出兵)』によって、国内の軍事的秩序と治安状況を調整したという仮説もありますが、秀吉が晩年に朝鮮出兵を断行した理由は一つではなく『過剰な軍事力の利用』と合わせて『秀吉個人の中国大陸(明)征服への野心』があったと考えられます。
天正17年(1589年)に、秀吉と秀吉が寵愛していた側室・淀殿(茶々)との間に鶴松(つるまつ)が産まれ後継者に指名されますが、鶴松は1591年に2歳の若さで夭折してしまいます。浅井長政の長女で秀吉が寵愛した淀殿(茶々)は、戦国時代の美人三姉妹(浅井三姉妹)として有名であり、次女のお初(常高院)は京極高次の正室となり、三女のお江(おごう,江与:えよ,崇源院)は徳川二代将軍・徳川秀忠の正室になりました。
秀吉の最も有能な血縁者の側近には、大納言にまで進んだ弟の豊臣秀長(ひでなが)がいましたが、小田原攻めの頃から急速に体調を崩して1591年2月15日に郡山城で病没しました。その為、1591年に秀吉の姉・日秀(にっしゅう)の子である甥の豊臣秀次(ひでつぐ,1568-1595)を養嗣子に迎えて後継者に据えます。秀吉は秀次に関白の官職を譲って自らは『太閤(たいこう,前関白の尊称)』と呼ばれるようになりますが、政治・軍事の主導権は依然として秀吉が握っており、その後の朝鮮出兵も最高権力者の秀吉が決断して国内で指揮を執りました。
豊臣秀次が後継者に指名されてからは秀次が聚楽第で『内政』の指揮を執り、秀吉が『軍事・外征(唐入り)』の指揮を執るという『二元政治』の状態が続きます。しかし、文禄2年(1593年)に秀吉と淀殿の間に豊臣秀頼(ひでより,)が生まれると、実子の秀頼を後継者にしたい秀吉は秀次を邪魔に思うようになり、『無慈悲な乱行・暴政・辻斬り』などを理由に政治の表舞台から引退させた秀次を自害へと追い込みます。文禄4年(1595年)に、秀吉の命令を五奉行のうち4人が伝えに来て、突然、秀次は高野山へと追放されることになり聚楽第も破却されます。出家した秀次は『豊禅閤(ほうぜんこう)』と呼ばれますが、7月15日には切腹を命じられて青巌寺・柳の間にて自害しました。
通説では、豊臣秀次は能力の低い凡愚な武将とされ、刀の試し斬りなどの非道な殺人嗜好を持っていたために『殺生関白(せっしょうかんぱく)』と揶揄されたといわれていますが、その歴史的真偽は明らかではありません。いずれにせよ、関白・豊臣秀次が自害に追い込まれた最大の理由は、晩年にできた自分の実子である豊臣秀頼に後を継がせたかった秀吉の執念とも言える意志(秀頼への溺愛)であったと推測されます。1591年には、茶の湯(わび茶)の完成者とされる千利休(1522-1591)にも切腹を命じていますが、千利休と豊臣秀吉の関係や茶の湯の精神(おもてなしの心・平等思想)については『千利休の茶の湯(茶道)の精神と豊臣秀吉の勘気に潜むもの』を参考にしてみて下さい。
豊臣秀吉の『明征服の号令』により開始された文禄の役は1592年に始まったものの、戦況が膠着状態に陥った1593年には明との和平交渉に入って一時停戦となります。秀吉方は16万の連合軍を李氏朝鮮が統治する朝鮮半島に上陸させ、李氏朝鮮に対して『征明嚮導(せいみんきょうどう:日本軍の明征服の先導役を務めること)』を求めましたが、明の冊封国である李氏朝鮮はこれを拒絶して戦闘になりました。秀吉方は『征明嚮導』という征服を意図した呼びかけを『假途入明(かとにゅうみん:明への道を借りる)』という言い方に変えて、李氏朝鮮を懐柔し降伏させようとしました。
しかし、結局、明征服に際して道を貸すことに対する朝鮮の同意を取り付けることができずに交渉は決裂しました。文禄の役の前半は、戦慣れした秀吉軍が朝鮮軍を各個撃破することに成功し、漢城(現在のソウル)や平壌(現在のピョンヤン)などを占領しました。しかし、その後に各地で朝鮮民衆の義兵(義勇軍)が次々と決起して、明の援軍と連携したことで戦況は膠着状態に陥り、『慣れない気候・風土・地形・食糧』という悪条件に苦しんだ秀吉軍は多くの犠牲を出しました。特に、李氏朝鮮の李舜臣(りしゅんしん,1545-1598)率いる朝鮮水軍の活躍は目覚しく、海戦においては秀吉方の加藤嘉明や九鬼義隆が編成した水軍を打ち破りました。
秀次が失脚する前に秀吉の朝鮮出兵(1592年の文禄の役)は行われていますが、秀吉が朝鮮出兵を計画した要因としては以下のような事柄を考えることができます。
秀吉は明との和平交渉において朝鮮半島南部の割譲を求めていたが、明がこの要求を拒絶して和平が暗礁に乗り上げると、秀吉は1597年に再び14万の大軍を朝鮮半島に送り込み『慶長の役(けいちょうのえき)』が開始された。朝鮮水軍の指揮官は李舜臣から元均(げんきん)に変わっていましたが、日本水軍は朝鮮水軍を撃破して全羅道西岸にまで陸軍を進めたものの、甚大な被害を出しながら実際の利益が乏しい朝鮮出兵に対する厭戦気分が高まってきます。長期化した戦闘に嫌気と厭戦気分を感じていたのは明・朝鮮連合軍の方も同じであり、慶長3年(1598年)8月に、朝鮮出兵を主導した日本の最高権力者・太閤豊臣秀吉が病死すると苦難と損失の大きい『唐入り(からいり)』を目指す大義名分が失われました。秀吉が死去しても暫くはその事実が隠匿されていたので、朝鮮での戦闘は続きましたが島津義弘が『泗川の戦い』で明・朝鮮連合軍を破り、小西行長も拠点地である順点を守る『順天城の戦い』に勝利しました。
その後、1598年10月15日に秀吉の死を秘匿したままで秀吉政権の五大老が撤退命令を出して、日本軍は朝鮮半島から全面撤退しますが、李舜臣が海上封鎖した海域で危機に陥っていた小西行長を島津義弘らが救助する戦いの中で、朝鮮の英雄とされる李舜臣は戦死しました。豊臣秀吉の画策した『唐入り(明征服)』の構想は、秀吉自身が寧波(ニンポー)に拠点を置いて東アジア全域を統括する皇帝(天子)になろうとする壮大な政治構想であり、日本の天皇制を凌駕する『新中華体制』を確立しようとする計画の概略は『豊太閤三国処置大早計(ほうたいこうさんごくしょちだいそうけい)』に記されていました。
秀吉の東アジア構想では、明の征服後に首都・北京に後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を移して豊臣秀次を後陽成の関白にするという考えであり、日本の天皇には皇太子・良仁親王か後陽成の弟・智仁親王を即位させるとしていました。日本の関白には豊臣秀保か宇喜田秀家を任命する予定でしたが、秀吉は自らが日本国を包摂する中華帝国の君主(天子)となることで、『天皇の臣下』という日本の政治制度の枠組みの限界(伝統的権威の壁)を超えようとしたのかもしれません。しかし、気宇壮大で誇大的な秀吉の遠征計画は、明に実際に侵攻する前段階で朝鮮半島において無残に断絶させられる結果となり、秀吉の死去により日本は江戸幕府の鎖国体制へと大きく舵を切り替えることになるのです。
日本の最高権力者だった豊臣秀吉は『くれぐれも幼少の秀頼のことをよろしく頼む』という内容の遺言を五大老筆頭であった徳川家康に残しましたが、家康の権力の台頭が顕著になるにつれて、秀吉の後継者である豊臣秀頼の存在感は衰えていきます。主君である豊臣家の武力・財力を凌駕する力を蓄えたと確信した関ヶ原の戦い後の徳川家康は、次第に『徳川家こそが天下の主』であることを誇示するようになり、家康を飽くまで家臣と見なす気位の高い淀殿が率いる豊臣家と正面衝突する日が訪れるのです。戦国の覇者として絶対権力を掌握した豊臣秀吉でしたが、秀頼の後見人に『信頼できる有力な血縁者』を残せなかったこと、秀頼が可愛いばかりに豊臣秀次の一族を完全に粛清したことが、徳川家が豊臣家に取って代わる原因を生んだとも言えます。
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