関ヶ原の戦いと徳川家康の政権掌握

前田利家の死と五大老・五奉行の体制の崩壊
天下分け目の関ヶ原の戦いと戦後の論功行賞

前田利家の死と五大老・五奉行の体制の崩壊

『豊臣秀吉の朝鮮出兵』の項目では、豊臣秀吉の朝鮮出兵事業(唐入り事業)と晩年の秀吉について概略を示しましたが、秀吉は子の秀頼を支える豊臣政権を磐石のものとするために『五大老・五奉行制度』を確立していました。五大老(ごたいろう)・五奉行(ごぶぎょう)の制度は豊臣政権の中枢を担う合議制であり、秀吉は政治権力を『複数の有力大名』に分散させることによって、豊臣秀頼(とよとみひでより,1593-1615)に対抗する強大な勢力が登場するのを防ごうと考えていました。

秀吉が五大老の中でもっとも頼りにすると同時に最も恐れていたのは、言うまでも無く関東を中心として256万石の大俸を持つ徳川家康(とくがわいえやす,1543-1616)でした。秀吉は臨終の間際に五大老筆頭の家康を枕頭(ちんとう)に呼び寄せて『わしの死後は、秀頼の後見をくれぐれもよろしく頼む』といった内容の遺言をし、他の大老(家老)の前で秀頼への忠誠を誓約させました。

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豊臣政権後期に結成された五大老・五奉行には、以下のような武将(大老)と行政官僚(奉行)が顔をそろえていました。

豊臣政権の五大老と五奉行
五大老五奉行
徳川家康(1543-1616)……筆頭家老,関東・東海に256万石浅野長政(あさのながまさ,1547-1611)……筆頭奉行,甲斐甲府22万石
前田利家(まえだとしいえ,1539-1599)……北陸地方の加賀などに83万石石田三成(いしだみつなり,1560-1600)……近江佐和山19万石
宇喜多秀家(うきたひでいえ,1572-1655)……中国地方の吉備など57万石前田玄以(まえだげんい,1539-1602)……丹波亀岡5万石
毛利輝元(もうりてるもと,1553-1625)……中国地方の安芸など120万石長束正家(なつかまさいえ,1562-1600)……近江水口5万石
小早川隆景,上杉景勝(うえすぎかげかつ,1556-1623)……会津に120万石増田長盛(ましたながもり,1545-1615)……大和郡山22万石

秀吉が死去すると豊臣政権で最も強い影響力を持ったのは徳川家康前田利家でしたが、秀吉の遺言により家康は京都・伏見城に入城し、秀頼の傳役(ふやく,守り役)を務める利家が大坂城に入って秀頼を補佐しました。豊臣家への忠節が厚かった前田利家が徳川家康と同じくらいに長命であれば、豊臣家に家康が反旗を翻すことが難しくなっていた可能性がありますが、利家は秀吉が存命中の1598年から体調を大きく崩しており家康に対抗するための健康状態を維持することができませんでした。利家は1598年の時点で、前田家の家督も初代加賀藩藩主となる子の前田利長(としなが,1562-1614)に譲っています。それでも、『秀吉との誓約』を反故(ほご)にして勝手に婚姻政策を進める徳川家康に対して、前田利家は毅然とした態度を取り続けます。

家康は有力大名である伊達政宗・蜂須賀家政・黒田長政・加藤清正らと親族を介した婚姻関係を結んで更なる勢力拡大を図りましたが、これに利家が厳しい反対の態度を示したため、一時は、利家に上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老と石田三成が味方して家康と一触即発の雰囲気になりました。有力武将の多くが豊臣家に忠実な前田利家に味方していることを見た家康は、『ここで利家に逆らうのは不利』と判断して和解をするのですが、秀頼にとっては不運なことに『豊臣家の忠実な守護者』であった利家が1599年4月にあっけなく病死してしまいます。

秀吉亡き後に、唯一、徳川家康と真っ向勝負できるだけの人望と武略を持っていた前田利家が死んだことで、家康は前田家の本拠である加賀を討伐しようと計画します。利家の子の前田利長は不遜な家康と一戦交える覚悟でいましたが、母のまつ(芳春院)が家康に敵対することは無理と判断して自らが人質になることで家康と前田家の戦いを回避しました。諸将を糾合する人望と信任のあった前田利家であれば徳川家康と互角の戦いをすることが可能でしたが……石高だけを見れば家康は前田家の3倍以上の国力を持っており、子の利長では他の五大老や五奉行、勇将をとりまとめて家康に当たるだけの人望と戦略性が未だ備わっていなかったと考えられます。

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利家が死去すると伏見城に入った徳川家康の権勢はますます高まり、豊臣秀頼に形式的には臣従しながらも市井の人々からは『天下人(てんかびと)』としての評価を受けるようになり、奈良興福寺の僧侶・英俊(えいしゅん)も家康のことを『天下人に成られ候』と書き残しています。豊臣政権下では武断派と文治派の内部対立が強まっており、豊臣家に忠節を尽くしていた文治派の石田三成にまったく人望が無く有力な武将を秀頼方につなぎとめられなかったことも豊臣家の滅亡の一因となりました。

利家が亡くなった夜には、武断派の福島正則・黒田長政・加藤清正らが朝鮮半島の補給などの件で遺恨を抱えていた石田三成を襲撃するという事件が起こっており、驚嘆した三成は救助を求めて家康の守る伏見の邸宅に逃げ込みました。この時には、家康は三成を助けており、拠点の近江佐和山城まで三成を送り届けています。慶長5年(1600年)3月には、上杉謙信の後継者である会津の上杉景勝(かげかつ,1556-1623)が豊臣政権を簒奪しようとする家康に叛意を明らかにします。景勝の有力な智将・家老である直江兼続(なおえかねつぐ,1560-1620)が家康を挑発する内容の『直江状』を送りつけて、家康はこれに大激怒し上杉氏征討を決断します(1600年5月)。

家康が上杉景勝を討とうとした『会津征伐』は関ヶ原の戦いの遠因となりますが、その前段階において既に前田利長と細川忠興が家康の謀略に屈服して従属するようになっていました。上杉景勝が家康に敵意を持った背景には、家康が越後から会津へ転封したばかりの景勝の臣従を求めて何度も上洛を促していたことがあり、石田三成と懇意だった直江兼続の縁もあって景勝は関ヶ原の戦いでは西軍(三成方)に味方することになります。家康が会津征伐のために伏見城から江戸城に戻ると、家康を叩くチャンスが到来したと見た石田三成は、仲の良かった越前敦賀(えちぜんつるが)城主の大谷吉継(おおたによしつぐ,1559-1600)をまずは家康討伐に誘います。

大谷吉継は三成の家康征伐の計略を聞いて『三成に勝機無し』と判断するも、三成との友情と彼の熱意を取って西軍に参加し、西軍を裏切った小早川秀秋の1万5000人の軍勢と懸命に戦いますが(大谷吉継は秀秋の裏切りの可能性を事前に推測していたようです)、力及ばず関ヶ原で自害して果てました。三成と吉継の深い友情には、白装束で顔を覆っていた吉継が罹患していたとされる『ライ病(ハンセン氏病)』に対して、三成が一切の差別感情や嫌悪感を見せず対等の付き合いをしていたことが関係していたとも言われます。三成は更に五奉行の前田玄以・増田長盛・長束正家らと共に中国地方の盟主である毛利輝元(もうりてるもと,1553-1625)を総大将として擁立して家康方の『東軍』に対抗する『西軍』を結集しました。

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天下分け目の関ヶ原の戦いと戦後の論功行賞

石田三成らは家康の豊臣家に対する不忠など13か条の問題点を書き連ねた『内府(家康)ちかひの条々』を発布すると同時に、前田玄以・増田長盛・長束正家らは全国の武将に向けて家康を成敗すべしという檄文を送り付けました。7月17日に西軍の総大将に立った毛利輝元が豊臣秀頼の居る大坂城に入城します。1600年7月19日には、京都における家康方の拠点である伏見城を西軍の小早川秀秋(1582-1602)島津義弘(1535-1619)が攻め、伏見城を決死の覚悟で守る家康方の鳥居元忠(とりいもとただ, 1539-1600)を8月1日に漸く打ち破りました。

上杉景勝を討つ会津征伐に向かう途中であった家康は、三成らの『西軍』が決起したという報告を、7月24日に下野小山で受けます。会津征伐に従軍していた諸大名のを集めて小山評定(おやまひょうじょう)を行った家康は『主君の豊臣秀頼公に害を成す君側の奸臣である石田三成を討つ』と決意を伝えて、西軍が待ち受ける上方に反転することにします。福島正則(ふくしままさのり,1561-1624)らの武断派の大名に先鋒を言いつけた家康は、8月5日から一ヶ月近く江戸城に篭もりました。

この江戸城篭城には、上杉景勝の江戸攻めに備えたという理由と、福島正則・黒田長政(ながまさ,1568-1623)・浅野幸長(よしなが, 1576-1613)といった豊臣家に恩義のある武将が家康に忠誠を誓っていることを確かめるためという理由がありました。福島正則ら東軍の武将が、織田秀信(ひでのぶ,豊臣秀吉が一時期擁立した織田信長の嫡孫)が守る美濃の岐阜城を陥落させたことを確認した家康は、9月1日に江戸城を出発しました。徳川秀忠を総大将とする主力軍は宇都宮から中山道を通って上方を目指し、家康が率いる軍勢は東海道から上方に向かいましたが、秀忠の主力軍のほうはあろうことか関ヶ原の戦いに遅参してしまい、秀忠は家康の激昂を買います。

徳川家康の率いる約3万2000の軍勢は順調に東海道を進んで、9月13日に岐阜に到着、9月14日に東軍の諸将が結集する赤坂に着きました。秀吉死後の豊臣政権の主導者を決定することになる天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)は、翌日9月15日の朝8時頃に火蓋が切って落とされることになりますが、戦いの初期には三成率いる西軍のほうがやや優勢でした。西軍の総勢8万に対して、東軍の総勢は7万5000ほどであったとされますが、西軍の総大将である毛利輝元は大坂城で戦況を眺めるだけで動かず、西軍の内部には東軍の家康方と密通しているものが数多く含まれていました。

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太陽が中空に指しかかろうとする昼の午後0時頃、家康は戦況の劣勢を巻き返すために、鉄砲隊長の布施孫兵衛(ふせまごべえ)に命令して、松尾山に陣取る小早川秀秋に裏切りを促すための鉄砲を撃たせました。元々、東軍と西軍の秀秋の間には『協力の密約』があったとされますが、家康方の鉄砲に裏切りを急かされた秀秋は友軍である大谷吉継を攻撃し始めました。また、西軍は総勢8万と称していましたが、毛利輝元だけではなく毛利秀元(輝元の養子)や長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親(もりちか)といった武将たちも関ヶ原の戦いに参加せずに傍観しており、実際に戦闘に参加した西軍の軍勢は約3万程度であったと言われます。

小早川秀秋以外にも西軍の脇坂安治や朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らが裏切りを働いたことで西軍は総崩れとなり、東軍の勝利がほぼ確実な情勢へと移り変わりました。毛利輝元の家臣である吉川広家(きっかわひろいえ)も、毛利氏の本領安堵の条件と引き換えにして東軍と密通していました。関ヶ原の戦いの終盤に入ると、敵軍を強硬突破する力業の退却戦を断行した島津義弘の軍勢が、家康の本陣目前にまで攻め寄せてくるというアクシデントもありましたが……天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いは、ごく短時間のうちに徳川家康率いる東軍の勝利に終わり、家康は天下の実権を更にしっかりと掌握することになります。

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、9月18日には石田三成の居城である近江佐和山城を陥落させ、9月21日には逃亡していた三成を捕縛して10月1日に六条河原で斬首して晒しました。家康排除を狙った西軍の計画は水泡に帰すことになり、毛利輝元は家康に大坂城を明け渡して西軍に味方した大名・武将はことごとく処刑・改易・減封に処されて勢力を削ぎ落とされました。

家康は苛烈な論功行賞を行う中で、西軍の諸大名の預け入れ地が含まれていた太閤の蔵入地(豊臣家の直轄地)も減封して豊臣家の富裕な財政基盤を大きく減らしました。この家康の論功行賞によって徳川家は250万石の筆頭家老から400万石の天下の盟主となり、豊臣家は摂津・河内・和泉を領有する65万石の一大名の身分へと転落しますが、それでも形式的には家康は豊臣秀頼の臣下としての礼を取っていました。実質的な天下人に上り詰めた家康でしたが主家の豊臣秀頼を討伐する大義名分がないために、『形式的な主従関係』を本格的に解消し始めるのは家康が武家の棟梁である征夷大将軍に任命されてからのことになります。

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関ヶ原の戦いの段階では『豊臣家に害を与える奸臣の石田三成を征伐するため』という大義名分によって東軍の諸将を糾合しており、未だ豊臣家に恩顧を感じる勇猛な武将(福島正則・加藤清正・黒田長政など)が多かったことも、家康が秀頼に対する臣従の態度を急速に変えなかったことに影響していたでしょう。

関ヶ原の戦いで西軍に味方して領土を没収された代表的な武将には、宇喜多秀家(備前57万石)、石田三成(近江佐和山19万石)、増田長盛(大和郡山20万石)、長宗我部盛親(土佐22万石)、小西行長(肥後20万石)らがおり、領地を減封された代表的な武将には、毛利輝元(安芸広島120万石→周防・長門37万石)、上杉景勝(陸奥会津120万石→出羽米沢30万石)、佐竹義宣(さたけよしのぶ,常陸水戸54万石→出羽秋田20万石)らがいます。家康が関ヶ原の戦いで没収した領地は約415万石、減封した領地は約208万石であり、豊臣家からも膨大な蔵入地(直轄地)を取り上げているので、家康は日本全国の1850万石のうち780万石を自由な論功行賞の財源に充てることが可能となりました。

家康に逆らった西軍の武将たちが大幅に領地を減らされ、外様大名(とざまだいみょう)としての待遇を受けるようになったのに対して、黒田長政や池田輝政、福島正則、蒲生秀行、細川忠興、浅野幸長らは関ヶ原の戦いの勲功によって領地を大幅に加増されることになりました。徳川家の血縁一門や譜代大名(譜代の家臣)でも、結城秀康や松平忠吉(家康の四男)、井伊直政、鳥居忠政らが大幅に領地を加増され、徳川家を守る縁戚関係と財務基盤が更にいっそう強化されました。

関ヶ原で西軍についた外様大名で関東地方や東海地方にいた者は、江戸から離れた地域に移封されることになり、江戸と京都を結ぶ重要な幹線網には徳川家の一門・譜代大名が重点的に配備されるようになったのです。論功行賞で徳川家と譜代大名の財政基盤を大幅に強化して、徳川家に逆らう可能性がある外様大名を遠方に配置したことにより、豊臣家に対する徳川家の発言力はより一層強化されることになり、秀頼と家康の非常に危うい主従関係が完全に逆転する日(豊臣家が滅亡する日)が刻一刻と迫っていたのでした。

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