大坂冬の陣・夏の陣と豊臣家の滅亡

徳川家康の征夷大将軍就任と江戸幕府の開設
大坂冬の陣・夏の陣による豊臣秀頼の滅亡

徳川家康の征夷大将軍就任と江戸幕府の開設

『関ヶ原の戦いと徳川家康の台頭』の項目では、天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康(東軍)が石田三成(西軍)に勝利して政権の主導権を握ったことを書きましたが、家康は1603年(慶長8年)2月12日に朝廷から征夷大将軍に任命されて武家の棟梁となります。後陽成天皇の勅使・勧修寺光豊(かじゅうじみつとよ,1576-1612)が家康の居る伏見城に下って将軍宣下が行われましたが、正式な将軍宣下は3月27日でありこの日に江戸幕府が実質的に開府することになりました。

徳川家康(1543-1616)の苗字は『松平氏(松平元信→松平元康→徳川家康)』であり本姓は『藤原氏(自称)』でしたが、家康は関ヶ原の戦いの後から征夷大将軍になるために『清和源氏』を自称し始めたとされていました。最近の研究では、天正16年(1588年)に後陽成天皇が聚楽第行幸を行った時、家康が『大納言源家康』と誓紙に署名していることが分かっています。家康が秀吉政権下で既に源氏を名乗っていたことから、『清和源氏の血統でなければ征夷大将軍になれないという慣例』は正式な朝廷の慣習ではなく、江戸時代に作られた俗説であるという見方もあります。

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豊臣秀吉は藤原氏と対等以上の『豊臣』という姓を考案して関白・太政大臣に就任しましたが、家康は秀吉とは異なり武家の棟梁を意味する『征夷大将軍の官位』を得ることで武家政権の最高権力者の地位を固めようとしたのでした。1603年に家康が征夷大将軍になってからは、豊臣秀頼(1593-1615)と徳川家康との間にあった主従関係が微妙な変化を見せるようになり、家康は秀頼の家臣(五大老筆頭)としての立場を明確にしないような対応を取るようになります。

1603年の2月まで徳川家康は豊臣秀頼に『臣従の礼』を尽くしており、毎年元旦には諸大名と共に年頭の礼を行っていましたが、征夷大将軍に就任してからは秀頼への年頭の礼を取りやめています。征夷大将軍となった家康は豊臣政権の五大老としての立場を脱却して、武士全般を名実共に統率する『武家の棟梁』としての地位を確立しようとします。しかし、豊臣家の牙城である大坂城は難攻不落の拠点であり、豊臣家に忠節を誓う有力武将もまだ多くいたので、家康は期が熟すのをじっくりと待ちます。豊臣秀頼は1603年2月22日に正二位内大臣に任命されており、朝廷の位階では家康に継ぐ高位を得ており、7月には徳川秀忠の長女・千姫が秀頼に輿入れします。家康は徳川家と豊臣家の『表面上の友好関係』を演出することに心を砕いており、豊臣家を完全に壊滅させるにはまだ時期が早過ぎると見ていたようで、1604年8月には秀吉を祭ってある豊国社の臨時祭を開催しました。

京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ,1545-1624)と秀頼方の片桐且元(かたぎりかつもと,1556-1615)が準備した壮大な豊国社臨時祭には秀頼や豊臣家恩顧の大名は参加しておらず、豊臣秀頼に対する諸大名の忠誠心を高めることがないように家康の万全の配慮が為されていたとされます。豊国社臨時祭は一般民衆が大騒ぎして不満やストレスを解消するといった祭りの様相を呈しましたが、家康はその背後で新首都となる江戸城と江戸の城下町の設計に取り掛かりました。

広大な首府となる江戸の町の地盤を固めるために、家康は前田利長・伊達政宗・加藤清正・結城秀康・松平忠吉・本多忠勝らに命じて神田山を切り崩して豊島の洲を埋め立てさせました。1604年8月からは江戸城普請のための石垣工事が始まり、城作り(築城)の名人とされた藤堂高虎(とうどうたかとら,1556-1630)が基本設計を行い、福島正則・加藤清正・池田輝政・黒田長政・細川忠利といった西国・九州の大大名が動員されました。1606~1607年にかけて本丸・二の丸・三の丸・天守閣が造成されますが、江戸城が最終的に増築・改築を重ねて完成したのは1638年頃だと考えられています。

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征夷大将軍に就任して約2年が経過した1605年(慶長10年)、家康は三男の徳川秀忠(ひでただ,1579-1632)に将軍位を譲り、秀忠は約16万とも言われる大軍を率いて京都に上洛しました。大軍を率いて江戸を出発した徳川秀忠は3月21日に京都に到着しますが、京都の公家や民衆の驚嘆と注視を浴びながら伏見城に入城しました。1605年4月16日に、秀忠は伏見城で将軍宣下を受け、徳川家が将軍位を世襲していくことを天下に知らしめましたが、このことは豊臣秀頼が徳川家康の後継者になる可能性を否定するものであり、豊臣家に対する徳川家の優位性を喧伝するものでした。

家康は1605年5月に、高台院(秀吉正室のおね)を介在して豊臣秀頼に徳川秀忠の将軍就任を祝うために上洛せよと呼びかけますが、淀殿(秀吉側室の茶々)が豊臣家を徳川将軍家の家臣と見なすことに激昂して、『上洛を強制するならば秀頼と自害する』と脅してこの呼びかけを拒絶しました。大坂城で秀頼を補佐する淀殿は、徳川家の権力が強大化して実質的な天下の覇者となっても、飽くまで徳川家を豊臣家の家臣と見なす見方を変えませんでしたが、秀頼が家康に臣下としての礼を尽くさねばならぬ日は迫っていました。

駿河の駿府城に拠点を構えた1607年から、大御所の家康は上洛することが殆どなくなりましたが、1611年には後水尾天皇の即位に立ち会い、二条城で豊臣秀頼を謁見するために上洛しています。1611年3月17日に家康は京都の二条城に入りますが、翌日に武家伝奏(ぶけてんそう)の広橋兼勝(ひろはしかねかつ)勧修寺光豊が家康の上洛を祝い、家康からの要請を受けて徳川家の始祖・新田義重(にったよししげ)に鎮守府将軍が、父の松平広忠(まつだいらひろただ)に権大納言が贈られています。

3月27日に第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう,在位1586-1611)政仁親王(ことひとしんのう)に譲位し、4月12日に政仁親王は第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう,在位1611-1629)として即位しました。家康が上洛した大きな目的は、後水尾天皇の即位を拝観して豊臣秀頼を家臣として拝謁させることでしたが、後水尾帝が譲位した翌日3月28日に、家康の子である徳川義直(よしなお)徳川頼宣(よりのぶ)が鳥羽まで秀頼を迎えに出向きました。

大坂から京都に上洛した豊臣秀頼には、片桐且元・片桐貞隆(さだたか,且元の弟)・織田有楽(織田長益)、大野治長(おおのはるなが,1569-1615)などの重臣が連れ添いましたが、二条城に入城した秀頼は家康より格下の立場で家康に謁見することになりました。この1611年の二条城の会見によって、秀頼(豊臣家)が家康(徳川家)よりも格下であることが天下の下に知らしめられるところとなり、諸大名と公家衆は『太閤豊臣秀吉の威光』がもはや徳川政権に通用しないことを理解したのでした。

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初め家康から秀頼に上洛するようにという命令があった時に、淀殿と大野治長らは激昂して『主家である豊臣秀頼を京都に呼びつけるとは何事か、家康のほうこそ大坂に下ってくるのが道理であろう』と語ったといいますが、天下の軍事の形勢は家康に完全に傾いており、秀吉恩顧の加藤清正や浅野幸長の必死の諫言(当面は家康に従わなければ豊臣家の安泰は保てないという諫言)によって秀頼のほうが上洛することに同意しました。二条城の会見後も、公式に豊臣家が徳川家の家臣になったわけではありませんが、形式的に主君である豊臣家の権威は急速に失墜していき、大坂の陣の時に豊臣家に味方をする有力武将は殆どいなくなっていました。

大野治長は豊臣家と淀殿に最期まで付き従った摂津国大坂藩の武将として知られますが、治長は関ヶ原の戦いでは東軍の家康方に味方してとりあえず徳川家に叛意が無い姿勢を示しました。その後、大野治長は一貫して秀頼の側近として大坂城で外交・軍事の指揮を取りますが、主戦派である真田幸村(真田信繁)と対立して徳川家との和解を進めようとしましたが、江戸との交渉は断裂して大坂の陣(大坂の役)が始まることになります。

形式的には主君である豊臣秀頼が徳川家康・秀忠に敗れた理由は『単純に軍事力で劣っていたから』といえばそれまでですが、大坂の陣が始まるまでに秀頼に味方したであろう秀吉恩顧の有力武将の多くが死去してしまっていたことも大きく影響しています。秀吉の読みが一番大きく外れたのは、家康を強く牽制してくれると信じていた加賀100万石の前田利家(1539-1599)が家康よりもかなり早くに病死してしまったことであり、利家の後を継いだ前田利長や前田利常(利長の弟)では家康に全く敵対することが出来なかったということです。

更に、秀吉の子飼いの武将と言って良い加藤清正・浅野幸長・池田輝政らが大坂の陣よりも前に病死してしまったことも秀頼に不利に働きました。これらの大大名が存命でも、秀吉恩顧だった福島正則や加藤嘉明が大坂の秀頼に味方しなかったように、加藤清正たちも家康側についた可能性は否定できませんが、家康方に対する何らかの調停役を引き受けてくれたかもしれません。一方、加藤清正・浅野幸長・池田輝政が仮に秀頼に加勢していたとしても、家康が豊臣家を滅亡させる時期が少し遅くなっていただけで結果は変わらなかった可能性も高いと推測されます。大野治長と淀殿には密通の噂があり、豊臣秀頼が秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子であるとする説も江戸時代には流れていましたが、大野治長と淀殿が牛耳る大坂の政治に反発を持った武将が多かったことも家康方に有利な要因となりました。

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大坂冬の陣・夏の陣による豊臣秀頼の滅亡

秀頼との二条城会見を終えた家康は、同1611年4月12日に二条城で諸大名を集めて、徳川家康・秀忠の命令に違背しないという誓書(誓紙)を提出させて徳川政権の基盤を固めました。誓紙の原案である『三ヶ条の条々』は明経博士の船橋秀賢(ふなはしひでかた)と儒者・林羅山(はやしらざん)が起草しましたが、その三ヶ条とは『源頼朝公以降の将軍家の威光を尊重し将軍秀忠の法度を守ること・法度に違反した者や上意を無視した者を国隠してはならないこと・叛逆や謀反をした家臣を召し抱え続けてはならないこと』であり、これが発展して1615年の武家諸法度(ぶけしょはっと)へとつながっていきます。

駿府城を拠点に定めた家康は将軍に代わって幕政の実権を握る『大御所政治(おおごしょせいじ)』を行いながら、豊臣家攻略に備えて大坂城を包囲するかのように徳川一門と譜代大名を配置していきます。重臣の内藤信成(ないとうのぶなり)を近江長浜に(1606年)、家康の第9子・徳川義直(よしなお,1601-1650:御三家の尾張徳川家の始祖)を甲府から尾張名古屋へ、松平定勝(さだかつ,1560-1624)を伏見城の城番へと配置しました(1607年)。大坂城を攻撃できる位置に丹波の篠山城(ささやまじょう)と亀山城を普請したことも大坂攻めを想定したものだと言われますが、家康は大坂城に秀吉が蓄積した『莫大な財力・資産』を削減するために秀頼に大寺社の建立・修繕・供養を勧めました。

豊臣秀頼は家康の勧めに従って寺社建立に莫大な資産をつぎ込みますが、特に、秀吉が建造した京都東山の大仏が大地震で倒壊した後の『方広寺(ほうこうじ)の大仏再建』に力を注ぎました。秀頼は秀吉の木製の大仏に劣らない唐銅製の大仏再建に粘り強く着手し、1613年に方広寺大仏が完成して翌年に落慶供養を行う手はずとなっていました。この大仏再建には秀吉の遺産が使われ、金塊の千枚分銅13個、二千枚分銅15個が使われることになりましたが、秀頼の莫大な財力が寺社建立や大仏再建に浪費されたことも大坂方の不利になりました。豊臣秀頼が寺社建立に熱心だった理由には、家康の勧奨もありましたが低迷する豊臣家の権威と富裕を京都において保つためという名分もありました。

しかし、この方広寺の大仏開眼供養にまつわる『鍾銘(しょうめい)の文句』に家康が理不尽な難癖(なんくせ)をつけたことで、秀頼に大きな政治的危機が訪れ情勢は急速に緊迫します。方広寺大仏造営の担当奉行は片桐且元であり、且元は家康と協議して開眼供養の日を1614年(慶長19年)8月3日、堂供養を8月18日と決めました。ところが、開眼供養が間近に迫った7月末に、駿府の家康から『大仏鍾銘、関東不吉の語、上棟の日、吉日にあらず』という異議申し立てがあり、供養の延期と鍾銘文の届出が命令されました。

方広寺大仏殿の鍾銘の文句に対して異議・苦情が申し立てられたこの事件を『方広寺鍾銘事件』と呼びますが、問題とされた言葉は『国家安康・君臣豊楽・子孫殷昌(こっかあんこう・くんしんほうらく・しそんいんしょう)』という部分でした。この1,000文字近くにのぼる方広寺の鐘銘文は、秀頼が帰依した『洛陽無双の智者』と呼ばれた文英清韓(ぶんえいせいかん,1568-1621:臨済宗で南禅寺の僧侶)が書いたものでした。家康は『国家安康』が家・康の二文字を引き裂いて徳川家の没落を祈願する呪詛であると批判し、『君臣豊楽・子孫殷昌』が主君である豊臣家の繁栄を祈願して子孫の繁栄を楽しむという意味だと厳しく指弾しました。

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大仏開眼供養が中止されると京都・大坂は俄かに騒がしくなり、方広寺鐘銘事件の起こった1614年8月に、大仏造営奉行の片桐且元は鍾銘と棟札について『徳川家に叛意なし』と釈明するために家康の駿府に向かいました。方広寺鍾銘事件は家康の完全な言いがかりですが、且元は駿府で家康と会うことができずに家康側近の本多正純(ほんだまさずみ,1565-1637)金地院崇伝(こんちいんすうでん,1569-1633:黒衣の宰相と呼ばれ武家諸法度などの制定に関与する)から鍾銘と棟札、浪人の雇用について厳しく問い質されました。

家康は豊臣政権の分断工作を図り、穏健派の片桐且元には謁見せずに冷淡にあしらい、強硬派の大野治長の母・大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)が駿府に下向してくると丁重にもてなした。家康は且元に『大坂の秀頼に徳川家に対する叛意のない証拠を示せ』と迫り、その回答を大坂城に持ち帰った且元は『秀頼か淀殿が江戸に人質として行くか、秀頼が大坂城から出て他国に移るかしないと家康は納得しない』という意見を述べました。

しかしそこに大野治長の母・大蔵卿局が帰ってきて『家康には秀頼に対する害意はない』と語ったので、秀頼と淀殿・大野治長は且元が謀反を働いたと思い込み殺害計画を立てようとします。その城内の不穏な雰囲気を察知した片桐且元は、大坂城から出て摂津茨木城へと落ちていきましたが、この家康の分断工作により秀頼は忠良な重臣であった且元をむざむざ失ってしまいます。

且元殺害計画を京都所司代・板倉勝重から聞いた駿府城の家康は『大坂討伐』を即座に決断して、近江・伊勢・美濃・尾張・三河・遠江に出陣命令を出し、江戸の将軍秀忠も東国大名に大坂攻めを指示しました。家康はこの時点では『豊臣恩顧の武将たち』がぎりぎりで徳川家を裏切るかもしれないという懸念を持っており、大坂冬の陣には福島正則(1561-1624)・黒田長政(1568-1623)・加藤嘉明(1563-1631)を従軍させず江戸に駐留させました。しかし、これら豊臣恩顧の武将も翌1615年には大坂夏の陣に参戦しており、二代将軍・徳川秀忠に協力して豊臣秀頼滅亡に助力することになります。

徳川家康は1614年10月23日に二条城に入城しましたが、関ヶ原の戦いに遅参して家康から手厳しく叱責された将軍・徳川秀忠は10月23日に江戸を出発して、家臣の藤堂高虎に自分が到着するまでは大坂攻めを待って欲しいと家康に伝えさせました。大野治長らの意見を容れて籠城戦を取ることにした大坂城の豊臣軍には、西軍の敗将と金銭で雇われた膨大な浪人が集まっていましたが、豊臣方の有力武将としては関ヶ原で四国の領地を失った長宗我部盛親と関ヶ原で秀忠を上田城で押しとどめた智将の真田幸村(真田信繁,1567-1615)がおり、武勇無双とされた浪人の後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)などもいました。

徳川家と豊臣家が天下の盟主の座を掛けて雌雄を決する第一陣・大坂冬の陣は1614年11月15日に開始され、二条城を出陣した家康と伏見城を出た秀忠は、総勢20万とも言われる大軍で大坂城を取り巻く大包囲網を形勢します。大坂城の豊臣軍では、大坂城の防備を固めて徳川軍を迎え撃つ大野治長の『籠城派』と積極的に畿内に攻撃を仕掛けて周辺の大名を取り込もうとする真田信繁(幸村)の『積極派』とで意見が割れていましたが、結局、治長の消極的な籠城戦の戦術が選択されました。

幕府軍は大坂城の南に藤堂高虎・前田利常・松平忠直・井伊直孝・鍋島勝茂・蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)・浅野長晟(ながあきら,幸長の子)を配置し、大坂城の東に上杉景勝・佐竹義宣(よしのぶ)を配置、大坂城の北には加藤明成(嘉明の子)・池田利隆・池田忠雄・有馬豊氏などを置きました。この大軍勢の大坂城包囲網に、伊達政宗や毛利輝元が加わり幕府軍(徳川方)の士気をますます盛んになりましたが、秀吉が想定される防備の限りを尽くした難攻不落の大坂城は容易には落ちませんでした。

12月4日には、前田利常・松平忠直・井伊直隆らが真田信繁(幸村)が守る出丸(真田丸)を無防備に攻撃して手痛い損失を蒙りましたが、戦線は膠着して12月になると徳川軍の本多正純・後藤光次と豊臣軍の大野治長・織田有楽(長益)との間で講和条件が協議されるようになります。家康は『淀殿の江戸への下向と浪人への恩賞』という大坂方の講和条件を拒絶し、武家伝奏を遣わせてきた後水尾天皇からの講話案も蹴りましたが、12月16日に淀殿の居所である千畳敷が砲撃されたことで淀殿が弱気となり、徳川方に有利な条件で講和が結ばれることになります。

大坂冬の陣の講和条件は『秀頼・淀殿の安全の保障と大坂城居住,豊臣方の軍勢の罪の不問』と引き換えにするもので、『本丸を残して二の丸・三の丸を破壊して外堀を埋めること』『大野治長と織田有楽から人質を差し出すこと』という徳川方からの条件を受け容れました。この講和条件によって、難攻不落とされた大坂城はその防御能力を大幅に低下させることになり、次の籠城戦での優位を完全に失うことになってしまいます。

和解のために家康・秀忠と秀頼の誓紙の交換が終わると、家康は即座に『大坂城の外堀・内堀の埋め立て』を松平忠明・本多忠政(忠勝の子)・本多康紀(やすのり)に命じます。将軍・徳川秀忠の監督の下で1615年1月19日までに大坂城の堀の埋め立て工事が完成して、大坂城は軍事防衛的な観点からほぼ無力化されました。屈辱的な講和条件を呑まされた大坂城では『江戸幕府と家康・秀忠に対する不満怨恨』が強まっており、1615年3月になると秀頼・淀殿は不満を鬱積させる浪人衆にも押されて、家康の許可を得ずに大坂城の城壁の修理と埋め立てられた堀の掘削を行います。

豊臣軍は大坂城の防衛能力を回復させながら、残った城の財力を用いて再び大勢の浪人(兵力)を駆り集めて徳川軍との戦争に備えますが、この動きに対して家康は使者を派遣し、秀頼が大坂城を退去して大和か伊勢に移ること、もしくは集めた浪人の軍勢を解散・解雇することを命じました。しかし、幕府と家康に対する敵意を募らせる大坂城では、この命令を無視することに決めて更に軍勢を集めました。1615年4月4日に、家康は駿府城を出発して18日に京都二条城に入りますが、将軍秀忠も4月10日に江戸を出発して21日には伏見城に入りました。家康は豊臣秀頼が大坂城を退去して大和郡山に転封されるか、集めた浪人の軍勢を解散するかという最後通牒(さいごつうちょう)を突きつけますが、大坂城の豊臣軍はこの申し出を拒絶して大坂夏の陣が開始されます。

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大坂冬の陣の講和条件によって埋め立てられていた『大坂城の外堀・内堀』が完全に修復できていなかったので、豊臣軍は籠城戦を選択することができず、大和・住吉・堺などにおける城外の野戦に打って出ました。大坂夏の陣では徳川方は約15万5千の大軍勢を結集させ、豊臣方はそれに対して5万5千の軍勢しか集めることができず、開戦当初から豊臣方のほうが相当に不利な状況に置かれていました。5月5日に家康が二条城を出陣して翌6日に大規模な戦闘が行われ、大坂城南東の道明寺や藤井寺、若江などでは双方に大きな死傷者が出ました。

5月7日の午前中にも徳川方と豊臣方の双方が激しくぶつかり合う戦闘が行われ、午前中は豊臣方が何とか有利な戦況を作り上げて豊臣方の勇将である真田信繁(幸村)が家康が陣取る徳川本陣へと切り込んでいきました。真田信繁は後一歩で大御所・徳川家康を討ち取れるような場所にまで決死の覚悟で突入しましたが、衆寡敵せず越前の松平忠直の軍勢に討ち取られてしまいました。松平忠直の部隊は真田信繁を打ち倒した勢いを借りて、一気に大坂城へと攻め寄せていき本丸の占拠に成功します。徳川方にも大きな人的損失が出ましたが、松平忠直と前田利常の抜群の武功が目立ったこともあり、忠直の大坂城制圧によって大坂夏の陣も徳川軍の勝利に終わりました。

1615年(慶長20年)5月7日の夕方に内通者の放火によって大坂城は炎上し、深夜には秀吉が築城した天下の名城・大坂城は完全に陥落しました。豊臣秀頼の正室となっていた徳川秀忠の娘・千姫は大坂城炎上前に城を抜け出して徳川軍に下りましたが、千姫の秀頼・淀殿の助命嘆願も虚しく山里丸という蔵に追い詰められた秀頼と淀殿は5月8日正午過ぎに自害しました。千姫の大坂城脱出には大野治長が協力したとも言われますが、治長は千姫を救助する引き換え条件として家康に秀頼と淀殿の助命を願い出ていたようです。

しかしながら、深謀遠慮の計略家である家康が治長のそのような助命嘆願を受け容れるはずもなく、豊臣秀頼と淀殿は燃え落ちた大坂城において自害することになりました。秀頼の男児であった8歳の国松は大坂城から落ちて伏見に潜伏していましたが、徳川方に発見されて5月23日に京都六条河原で斬首されました。秀頼には女児も1人いましたが、この女児は鎌倉・東慶寺で出家させられました。大坂冬の陣・夏の陣によって徳川家康の主筋であった豊臣家は滅亡することになり、秀吉の威光を葬り去った徳川将軍家が幕藩体制の下に天下経営を行う江戸時代が本格的に始まります。家康はわずか二年で征夷大将軍を三男の秀忠に譲りましたが、幕府の政治的意志決定の権限は依然として駿府に居住する大御所の家康が握っており、この院政的な江戸幕府初期の政治形態を『大御所政治』と呼びます。

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