徳川家康の大御所政治と徳川秀忠の権力継承

徳川家康の大御所政治と江戸時代初期の幕政
二代将軍・徳川秀忠の政権と家光への譲位

徳川家康の大御所政治と江戸時代初期の幕政

『大坂冬の陣・夏の陣と豊臣家の滅亡』の項目では、徳川家康(1543-1616)の征夷大将軍宣下と大坂の役(冬の陣・夏の陣)について説明しましたが、家康は1605年(慶長10年)4月に秀忠に将軍位を譲位してからも幕政の実権を掌握して『大御所政治』と呼ばれる院政に近い形態の政治を行いました。

1606年には建造中だった江戸城がとりあえず完成して二代将軍・徳川秀忠が居住するようになりますが、家康は1607年に自らの拠点として駿河国に駿府城(すんぷじょう)を建造することを決め、前田利長・池田輝政・毛利輝元・蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)などの西国・北陸の有力大名に駿府城の普請を命令しました。1607年7月には急ピッチで進められた築城工事が完了して家康の居城は伏見城から駿府城へと変わることになり、天下の政治を駿府城で見る財力とするために家康は伏見城の金銀(財産)・緞子(どんす)・金襴(きんらん)などを移しました。

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初代・徳川家康が将軍を務めた時代の江戸幕府では、まだ幕政の行政官僚機構は整備されておらず、年寄(としより)・奉行(ぶぎょう)・代官頭(だいかんがしら)などがかなり漠然とした職掌の中で政務を執行していました。譜代大名の大久保忠隣(おおくぼただちか,1553-1628)や出頭人の本多正信(まさのぶ・正純の父,1538-1616)が年寄として将軍時代の家康に重用されて後の老中(ろうじゅう)のような役割も果たしていましたが、江戸の町奉行として働いた青山忠成や内藤清成も家康から目を掛けられていました。

朝廷政治の統制に当たった京都所司代・板倉勝重も家康時代からの奉行であり、代官頭として伊奈忠次(いなただつぐ)・彦坂元正(ひこさかもとまさ)・大久保長安(ながやす)らも役人を制御する重要な役割を果たしました。二代将軍・徳川秀忠(ひでただ,1579-1632)へと征夷大将軍が譲位されると、江戸城に入った秀忠は譜代大名と関東地域の支配に当たることになり、外様大名と西国大名に対しては駿府城の家康が睨み(にらみ)を効かせる格好になりました。

二代・徳川秀忠の下でも大久保忠隣本多正信が年寄(老中)の役割を果たすことになり、その二人に加えて、酒井忠世(さかいただよ,1572-1636)・土井利勝(どいとしかつ,1573-1644)・安藤重信・青山成重が新たに年寄のメンバーとなりました。将軍から退いた家康は、京都所司代の板倉勝重を活用して朝廷との政治的駆け引きを巧みに行い、本多正信の子の本多正純(まさずみ,1565-1637)を側近中の側近として重用しました。同じ本多家の氏族に当たる松平正綱(まつだいらまさつな)も勘定奉行として活用し、駿府城の財政業務の多くを任せました。

家康の居住する駿府では、大久保長安・成瀬正成・安藤直次・村越直吉が奉行衆として用いられ、大久保長安(おおくぼながやす,1545-1613)は美濃・大和を統治し、小堀政一(こぼりまさかず)は備中を管掌しました。家康は僧侶では金地院崇伝(こんちいんすうでん,1569-1633)南光坊天海(なんこうぼうてんかい, 1536-1643)を厚遇したが、江戸幕府の儒学的な道徳規範を強化するために儒者・林羅山(はやしらざん, 1583-1657)も重く用いました。家康は外国人の三浦按針(みうらあんじん,ウィリアム・アダムズ)ヤン・ヨーステンを雇い入れたことでも知られます。

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『黒衣の宰相』と呼ばれた金地院崇伝は臨済宗の僧侶ですが、死去した西笑承兌(さいしょうじょうたい)に代わって幕府の外交官・書記となり、法令の作成や編纂に携わりました。1618年(元和4年)に江戸に金地院を建立したことから金地院崇伝と呼ばれますが、金地院崇伝は江戸幕府の統治権力を根拠づける寺社法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の作成に関与したことで知られています。

比叡山延暦寺の天台宗の僧侶である南光坊天海も、金地院崇伝と並んで『黒衣の宰相』と呼ばれた人物であり、江戸幕府初期の政治的意思決定に大きな影響力を振るいました。1616年(元和2年)に家康が死去すると、『神号』を巡って金地院崇伝と天台宗の僧侶南・光坊天海、本多正純が争います。金地院崇伝は『明神(みょうじん)』として吉田神道で祭るべきだと主張し、南光坊天海は『権現(ごんげん)』として山王一実神道(さんのういちじつしんとう)で祭るべきだと主張しますが、豊国大明神という神号を得た豊臣家が滅亡したことから明神は不吉であるということになり、家康は『東照大権現(とうしょうだいごんげん)』として日光に祭られることになりました。

家康の遺体は駿河国・久能山から下野国・日光山に改葬される運びとなり、1617年(元和3年)には東照大権現として神格化された家康が祭られる日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)が建設されました。家康が将軍位を譲位する前から『徳川軍の軍事指揮権』は、『西国の家康』と『東国の秀忠』というように二分されており、1605年3月に秀忠が将軍宣下を受けるために上洛した時には、北国・東国大名の軍を中心にして総勢16万人とも言われる軍勢を秀忠が率いていました。

徳川秀忠上洛時の軍勢の編成は先陣9番・本陣・後陣7番というものでしたが、先陣1番には上野館林10万石の榊原康政・佐野信吉・仙石秀久・石川康長、先陣2番には陸奥仙石60万石の伊達政宗、3番に越後春日山30万石の堀秀治・溝口秀勝、4番に甲府6万石の平岩親吉、5番に出羽米沢30万石の上杉景勝、6番に陸奥会津60万石の蒲生秀行、7番に上総大多喜5万石の本多忠朝、8番に相模小田原6万5千石の大久保忠隣、9番に上野厩橋3万石の酒井忠世が付き従いました。

秀忠の軍団は関東・甲斐・信濃に所領を持つ親藩・譜代大名から成り立っており、それ以外にも陸奥・出羽・越後の外様大名がいましたが、東海地方を含む中国・九州などの西国大名は秀忠の軍勢にはいませんでした。東海・近畿・中国・九州などの大名を束ねたのは徳川家康であり、1611年の後水尾天皇即位で上洛した時には、西国の外様大名の膨大な軍勢を率いていました。

1611年の家康上洛時に付き従った有力な西国大名には、加賀金沢119万石の前田利常、播磨姫路52万石の池田輝政、筑前福岡52万石の黒田長政、肥後熊本52万石の加藤清正、薩摩鹿児島60万石の島津家久、安芸広島49万石の福島正則、豊後小倉39万石の細川忠興、紀伊和歌山37万石の浅野幸長、長門萩36万石の毛利秀就(ひでなり)などがいました。関ヶ原の戦い以後は家康は実質的な天下人となっており、江戸幕府は全国の大名への軍事指揮権をほぼ掌握しつつありましたが、家康は征夷大将軍になっても豊臣家の大老であることには変わりなく、外様大名への領知宛行状をなかなか発給できずにいました。

江戸幕府が外様大名を含めた全ての大名に対する領知宛行権(りょうちあてがいけん)を掌握して、領知朱印状を発給するようになるのは2代将軍・徳川秀忠の時代(1617年)になってからのことでした。しかし、領知朱印状を発給していない段階でも、家康は諸大名に郷帳・国絵図を提出させて各国の面積・地形・物成高(収穫高・石高)を把握しており、大御所時代の家康は実質的には領知宛行権を保有していたと解釈できます。

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二代将軍・徳川秀忠の政権と家光への譲位

2代将軍・徳川秀忠(在位1605-1623)に将軍位が譲位されてからも、幕政の意志決定の実権は大御所の父・家康が握り続けており、諸大名の本領を安堵したり石高を増加・減封したりできる領知宛行権も大御所が保有していました。駿府城の家康が実権を持つ大御所政治の時代には、側近の本多正信・正純父子が老中として非常に強い権限を振るっていましたが、江戸幕府内では文治派(本多正信・本多正純・土井利勝・酒井忠世ら)と武断派(大久保忠隣・大久保長安・本多忠勝ら)との権力闘争が激しくなってきました。1609年(慶長14年)~1612年(慶長17年)に起きた疑獄事件である岡本大八事件(おかもとだいはちじけん)のきっかけは、ポルトガル船のマードレ・デ・デウス号の船員にマカオで配下の水夫を殺害された有馬晴信(ありまはるのぶ,1567-1612:肥前のキリシタン大名)が行った報復攻撃でした。

この報復攻撃の後に、本多正純の家臣(与力)であった岡本大八が有馬晴信に『ポルトガル船(外国の黒船)を沈めた恩賞として家康さまが有馬の旧領(今の鍋島勝茂の所領)を復帰してくれるだろうから自分が取り次ぎをしてあげよう』と嘘をついて、有馬晴信から多額の口利き料の金子を受け取りました。しかし、いつまで経っても旧領回復の恩賞の沙汰がないことに痺れを切らした有馬晴信は、岡本大八の収賄(詐欺)のことを何も知らない主筋の本多正純に問い合わせて事件が発覚します。

これを正純から伝え聞いた家康は激怒して岡本大八を火刑に処し、晴信もまた長崎奉行・長谷川藤広(はせがわふじひろ)の殺害疑惑と贈賄の罪を問われることになり、甲斐国初鹿野に追放されて死罪に処されました。この岡本大八事件によって、大八の上司である本多正純が贈賄された金子の一部を受け取っていたのではないかという風聞が流れることになり、それまで幕政を牛耳っていた本多正信・正純親子(文治派)の影響力が低下して、大久保忠隣・大久保長安を中心とする武断派が幕政の中核を占めるようになります。

しかし、幕政における武断派の天下も長くは続かず、1613年(慶長18年)の大久保長安事件(おおくぼながやすじけん)によって武断派が失脚して、再び本多正純を筆頭とする文治派の支配力が強まりました。大久保長安事件というのは金山・銀山の奉行を歴任した大久保長安が死後に、本多正信・正純の謀略によって『不正蓄財の疑惑』をかけられた事件です。

長安が生前に派手で豪奢な生活をしており、死ぬ前に『金の棺を作るようにという遺言』を残していたことから、本多父子の策略であった『不正蓄財(公金横領)の疑惑』が家康に事実と受け取られることになり、長安の一族は激昂した家康の命令によって7人の男児と腹心を含めて悉く(ことごとく)処刑されました。この大久保長安事件に連座して大久保忠隣も失脚することになり、本多正信・正純父子は江戸幕府内で強大な実権を握って幕政を牛耳るようになりました。将軍秀忠の在位期間は大名統制政策が強まった時代ですが、1615年(慶長20年)には諸大名に対して『一国一城令』が出され、一つの国には藩主の居城以外の別の城を造ってはいけないという決まりが作られました。

1615年7月7日には、伏見城に集まった諸大名に対して秀忠の名で『武家諸法度(ぶけしょはっと)』が発布され、金地院崇伝が『武士の文武弓馬の道・叛逆者や殺害者の追放・城郭補修の届け出や新城の建設禁止・参勤交代の義務』などを読み上げました。1616年4月17日に、鯛の天ぷらを食べたことが元で体調を崩した徳川家康が死去すると、2代将軍・徳川秀忠が名実共に幕政の実権を掌握することになり、将軍の専制権力の強化と全国の大名に対する厳格な統制政策を行っていきます。

家康の死後に徳川秀忠は強力な政治的リーダーシップを発揮するようになり、徳川将軍家に反抗する可能性のある大名を親藩譜代・外様の区別なく次々と『改易(かいえき)』していきました。『改易』というのは大名・旗本など上級武士に与えられた最も重い刑罰であり、武士の身分を剥奪して所領・城屋敷を没収するというものですが、改易される原因としては『軍事的敵対・世嗣断絶・武家諸法度違反・乱交乱心・一揆発生など領内の悪政』がありました。

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秀忠が行った代表的な改易処分としては、外様大名の福島正則(ふくしままさのり)・忠勝の父子に対して幕府の許可なく広島城の普請を行ったという因縁をつけて、安芸・備後の改易と津軽への転封を命じた事例があります。将軍秀忠の権威を軽んじる傲慢な態度を示した家康時代の重臣・本多正純も改易され、親藩で最大の勢力を誇っていた越前福井67万石の松平忠直(ただなお,1595-1650:秀忠の兄の結城秀康の子)も乱心(参勤交代の怠慢と気狂)を理由に豊後へ配流されて改易されました。

また、秀忠は大坂の陣後に大坂を与えられていた松平忠明(ただあき,1583-1644:播磨姫路藩の初代藩主となる)を転封して大和郡山12万石に移転させ、大坂城を幕府の直轄地としています。徳川秀忠は1617年(元和3年)に、伊達政宗や上杉景勝、蜂須賀至鎮、本多正純など数万の軍勢を引き連れて上洛し『将軍の軍事指揮権の明示化・播磨姫路の池田光政の転封・大名公家や門跡寺社への領知朱印状の交付』という大きな目的を達成しました。秀忠には『尾張・紀伊・水戸』の徳川御三家を創設したという功績もあります。

秀忠は外様大名を含む全国の諸大名と公家・寺社に『領知朱印状(領知所有権の安堵と保証書)』を発行することで、徳川将軍家が日本全国の土地に対する領知宛行権(りょうちあてがいけん)を掌握していることを明らかにしました。2代将軍・徳川秀忠は家康と比較すると存在感が薄いイメージがありますが、この徳川幕府による領知宛行権の独占を実現したことによって、徳川将軍家の長期政権の礎石を築いたと言えます。1629年(寛永6年)の紫衣事件(しえじけん)では『朝廷が寺社の僧侶に紫衣・上人号を与える権威権限』が否定されることになり、江戸幕府の朝廷・寺社に対する統制が更に強化されることになりました。

1623年(元和9年)7月に、3代将軍・徳川家光(1604-1651)に譲位した秀忠は、家康と同じように二元政治(大御所政治)を行いましたが、この時期には既に西国に対する統治権力が強化されていたので、秀忠は駿府や京都には行かず江戸城に留まりました。二元政治は秀忠が江戸城の本丸を拠点とし、家光が江戸城の西の丸を拠点にすることで行われましたが、秀忠が1632年に死去すると、秀忠方の老中である『土井利勝・永井尚政(なおまさ)』と家光方の老中である『酒井忠世・酒井忠勝』が統合することでスムーズな幕政の政権移譲と将軍権力の磐石化が実現しました。

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