江戸幕府の朱印船貿易と外交政策
キリスト教の禁教の開始とポルトガルとの断交
『徳川家康の大御所政治』の項目では、江戸幕府の支配体制の確立と家康の秀忠への将軍位の委譲について解説しましたが、ここでは段階的に鎖国へと傾斜する江戸時代の外交政策を見ていきます。初代将軍・徳川家康(1543-1616)は豊臣秀吉の時代から行われていた『朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)』を引き継ぎ、西国大名や京都・大坂・堺・博多・長崎の大商人に朱印状(渡航許可証)を与えて東南アジアやヨーロッパの国々と貿易を行いました。
日本からは刀剣・銀・銅・硫黄(いおう)などが輸出され、外国からは生糸(きいと)・絹織物・綿布・錫(スズ)・皮革・特産物や稀少品(珍品)などが輸入されましたが、17世紀初頭には日本から商人・浪人・キリシタンが東南アジアの国々に移住して自治的な政治体制を持つ『日本町(にほんまち)』を海外に作りました。1587年(天正15)7月24日に、島津氏の九州征伐を成し遂げた豊臣秀吉(1537-1598)は筑前の箱崎(博多)において『バテレン追放令(伴天連追放令)』を出しますが、秀吉は南蛮貿易(朱印船貿易)の利益を重視していたため、宣教師による布教を禁止しても庶民レベルのキリスト教信仰が完全に弾圧されたわけではありませんでした。
秀吉の死後しばらくは家康も『朱印船貿易の利益』を『キリスト教布教の弊害(スペイン・ポルトガルの植民地政策への警戒やキリシタンの一揆勢力化)』よりも重視して、フランシスコ会に江戸界隈での限定的な布教の自由を認めていました。豊臣秀吉は1586年(天正14年)3月16日に大坂城でイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見していますが、徳川家康も1598年(慶長3)12月に、フランシスコ会宣教師ヘロニモ・デ・ヘスースを伏見城で引見して各種の貿易活性化のための要請をしています。家康がヘロニモ・デ・ヘスースに要請したのは、メキシコ貿易に携わるスペイン船の浦賀(相模国)への寄港であり、恒常的なメキシコ貿易を行なうためのフィリピン総督への取次ぎでした。
家康は当時先進国であったスペインの技術を輸入するために、フィリピン総督に航海士や鉱山技師の派遣も求めており、キリスト教布教の一時的容認と引き換えにスペイン貿易の利益と先端技術の導入を図ろうとしたのでした。1592年から秀吉が始めたとされる朱印船貿易(南蛮貿易)では、マニラ(フィリピン)・アユタヤ(タイ中部)・パタニ(タイ南部)などと貿易を行ないましたが、家康は1601年の段階で制度としての朱印船貿易を確立し、マカオ・ルソン・シャム・ジャワ・中国南部・インドシナ半島など東南アジア全域で活発に貿易を行いました。海禁政策を採っていた明(中国)とは朱印船貿易を行うことができず、李氏朝鮮との交易は対馬藩の宗氏に一任されている状態でした。1635年に、日本人の海外渡航禁止令が出されたことで朱印船貿易は終結を迎えます。
江戸幕府の鎖国体制下(海禁政策下)では、例外的にオランダと中国だけが『長崎の出島(でじま)』で貿易を行なうことが許されましたが、オランダ外交のきっかけを作ったのが『リーフデ号の漂着事件(1600年)』でした。1598年に、5艘の船団を組んでオランダのロッテルダムを出航したオランダ船・リーフデ号は、マゼラン海峡を越えて太平洋に入ったときに暴風雨に遭遇して船団が壊滅し、1600年(慶長5)3月にリーフデ号一隻が豊後・臼杵(うすき)の海岸に漂着しました。
110人いたとされるリーフデ号の乗組員は感染症やインディオの襲撃によって豊後に漂着した時には24人にまで減っており、リーフデ号のイギリス人の航海士長ウィリアム・アダムス(三浦按針,1564-1620)は家康から大坂城に呼び出されました。ウィリアム・アダムスは三浦按針(みうらあんじん)という日本名でも有名ですが、徳川家康に実直な人柄と優れた技術・見識を買われて日本初の外交顧問(外国人顧問)となり、大型船の建造や外国使節との翻訳・交渉などの任務に当たりました。家康に慰留されてイギリスへの帰国を許されなかった三浦按針(ウィリアム・アダムス)ですが、1602年には日本人妻のお雪(マリア)と結婚し、大型船建造の功績によって相模国逸見(へみ)に領知を与えられます。帯刀を許されたウィリアム・アダムス(三浦按針)は、250国の旗本の武士の身分を得ることになり、日本で上級武士・外交顧問としての人生を送ることになりました。
徳川家康は、後に清王朝を建国することになる北方の女真族(韃靼,だったん)の積極的な軍事行動を警戒しており、1599年12月に蝦夷地(北海道)を統治する松前慶広(まつまえよしひろ,1548-1616:松前藩初代藩主)に『北高麗(女真)』の動向について意見を述べています。家康は秀吉の朝鮮出兵によって悪化した中国(明)や朝鮮との外交関係も改善しようと考え、1600年1月に島津義弘(よしひろ,1535-1619)が派遣した明への使節に『国交回復の意志』を伝えますが、それに応えて明が送ってきた中国船が日本の海賊に焼き払われたため暫く国交の断絶状態が続くことになります。
ウィリアム・アダムスが乗ったリーフデ号が豊後に漂着する頃には、1588年に『スペインの無敵艦隊』がアルマダの海戦でイギリスに撃沈されたことにより、ヨーロッパにおける覇権がイスパニア(スペイン)・ポルトガルの旧教国(カトリックの国)からイギリス・オランダの新教国(プロテスタントの国)へと移りかけていました。日本におけるオランダ・イギリスの勢力拡大を恐れたポルトガル人の宣教師は、『オランダ人・イギリス人は略奪暴行を生業とする海賊である』として江戸幕府に処罰を要求しましたが、家康はオランダ・イギリスからの入国者を弾圧することはなく『新たな貿易国』として重視する方針を示しました。オランダの東インド会社は、1609年に長崎・平戸に商館を建設しています。
1601年(慶長6)10月に、家康は安南国(ベトナム)の阮黄(グエンホアン,正しい漢字はサンズイに黄)に返書を返して、朱印状を保持した日本と外国の商船を保護する姿勢を示し、朱印船以外の商船との交易を禁止する『朱印船貿易』を開始します。当時、ポルトガルは中国のマカオに、スペインはフィリピンのマニラに拠点を置いていましたが、1601年10月頃に家康はフィリピン総督のいるマニラに書状を送って『メキシコとの交易・朱印船貿易』を求めて『マニラ近海での海賊の鎮圧』を約束しました。
1600年には、ローマ教皇庁のクレメント8世の通達によって、日本におけるイエズス会以外の宗派の布教の自由化が行われましたが、この時期の江戸幕府はまだキリスト教の禁圧を厳格に行っていなかったので、フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスチノ会の宣教師が日本に来て、江戸・京都・大坂・駿府に布教の拠点となる教会・病院を建設しました。朱印船貿易の出港地・帰港地は長崎であり、長崎の出島で行われる貿易活動を統制するのは長崎奉行の役目でした。
家康は朱印船貿易の利益と外交関係の主導権を独占するために、秀吉に倣って長崎を幕府の直轄地にすることに決め、秀吉が1592年に長崎奉行に任命していた寺沢広高(てらさわひろたか,1563-1633)を、家康恩顧の武士・小笠原一庵(おがさわらいちあん)に代えました(1603年3月)。長崎奉行は関税免除で物品を購入して転売できる特権を持ち、中国・オランダ・日本の商人から献金を受けるといった利権があったので、旗本の多くが成りたいと願う特権・利権の多いポストになっていきます。
家康はマカオに拠点を持つポルトガル商人がもたらす『中国産の生糸』を公定価格で一括購入する『糸割符制(いとわっぷせい)』を導入して、生糸の価格と供給量の安定を図りました。家康は薩摩藩・島津氏の琉球出兵(1609年)を介して間接的に琉球王国を支配することになり、1604年には松前慶広に蝦夷地の支配権を認めて、江戸幕府の間接的な統治体制である幕藩体制の版図を現在の北海道から沖縄にまで広げていきました。
琉球出兵で琉球王国を侵略した島津氏(島津忠恒,ただつね)は国王・尚寧(しょうねい)を捕虜にして、駿府で家康に江戸で秀忠に尚寧を謁見させ形式的な主従関係と薩摩藩の琉球支配を確認しました。1605年(慶長10)に、家康はマニラのフィリピン総督に返書を送って『キリスト教の布教禁止・宣教師の追放・数年以上マニラに滞在した日本人の帰国禁止』を通達しますが、この時点では江戸から宣教師が追放されただけで京都・長崎ではまだフランシスコ会を中核とする布教活動が盛んに行われていました。
しかし、この頃から全国各地でキリスト教禁止の流れが強まっていき、1602年に加藤清正がアウグスチノ会の布教を禁じ、1605年にはキリスト教を棄教した大村喜前(おおむらよしさき)がイエズス会の宣教師追放とキリシタン弾圧を行いました。1600年代には、朱印船貿易の利益を得たいという幕府や各藩の意向があり、キリスト教布教の容認と禁止にはまだ曖昧な部分が残されていました。
キリスト教の禁制以前にポルトガルとの外交関係は、1609(慶長14)に肥前藩の有馬晴信(ありまはるのぶ,1567-1612)がポルトガル船のノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号(かつてはマードレ・デ・デウス号と思われていた)を攻撃して撃沈させた事件によって悪化していました。1608年に、季節風の影響でマカオに寄港した有馬晴信の朱印船の船員が暴動を起こし、マカオ総司令官のアンドレ・ペッソアに鎮圧されたことが事件のきっかけでした。
1609年、日本に来航したグラッサ号のペッソアは家康に事件の経緯を説明しようとしますが、有馬晴信と長崎奉行・長谷川藤広(はせがわふじひろ)に妨害され、ポルトガル側が不当に日本人を殺害したという間違った情報を幕府に伝えられてしまいます。家康は有馬晴信にペッソア討伐を命じることになり、グラッサ号は晴信の激しい攻撃を受けて沈没しました。このポルトガル船グラッサ号の襲撃の背景には『オランダ・スペインとの貿易の拡大によるポルトガルの交易上の重要性の低下』があり、一時的にポルトガル貿易が断絶しますが1611年にインド・ゴアにいるポルトガル副王の使節がやってきて、日本に有利な条件(長崎奉行の不処分・グラッサ号の損害賠償の無視)でポルトガルとの貿易が再会されました。
1609年9月には、上総国・岩和田に漂着したスペイン船サン・フランシス号のビベロ・イ・ベラスコとメキシコ貿易の開始について家康は協議していますが、メキシコ総督の使節として1611年にやってきたセバスチャン・ビスカイノとの交渉は上手くいきませんでした(帰国の船を家康に準備して貰えなかったビスカイノは、伊達政宗が派遣したローマへの使節・支倉常長の船でスペインに帰国しました)。
伊達政宗の家臣で仙台藩士の支倉常長(はせくらつねなが,1571-1622)は、1613年に少年を含む『慶長遣欧使節団』を率いて日本人として初めてヨーロッパまで渡航した人物であり、ローマでは貴族に列せられたという履歴を持ちます。家康は1605年にルソン総督への書状でキリスト教の布教禁止の姿勢を示していましたが、日本国内においてキリスト教の禁令を出したのは1612年3月です。キリスト教の禁止の契機になったのが、1609年(慶長14年)~1612年(慶長17年)に起きた疑獄事件である『岡本大八事件(おかもとだいはちじけん)』であり、これは上記したポルトガル船グラッサ号の沈没事件に絡んだ有馬晴信と岡本大八(本多正純の家臣)の間の贈収賄事件でした。
岡本大八は、有馬晴信にグラッサ号を撃沈した功績で『有馬氏の旧領・肥前三郡』を取り戻すことができると持ちかけ、江戸幕府へ斡旋(口利き)してやると言って賄賂を要請しましたが、晴信が恩賞の沙汰が遅いことを怪しんで大八の上司である本多正純に問い質すと『大八の旧領復帰』の話が嘘であることが露見します。
家臣間で領土を巡る身勝手な贈収賄が行われたことに激怒した家康は、岡本大八を火刑に処しますが、大八が処刑される前に『晴信が長崎奉行の長谷川藤広を暗殺しようとしていた』と告発したため、(本気で藤広を暗殺する意志や計画は無かったのですが)弁明に窮した有馬晴信は自害してしまいました。晴信と大八がキリシタンであったことから、1612年3月21日に家康は江戸・駿府・京都・長崎など幕府直轄地におけるキリスト教の禁止とキリスト教の教会の破壊を命令しました。
この段階では全ての大名にキリスト教の弾圧が命令されたわけではなく禁令の範囲は限定的でしたが、1612年6月にはメキシコ国王に『日本国内のキリスト教の禁止と朱印船貿易に限定した外交』を伝えており幕府がキリスト教を禁圧するという姿勢を強く打ち出し始めました。1613年(慶長18)12月には、金地院崇伝(こんちいんすうでん)に『バテレン追放令(伴天連追放之文)』を起草させており、板倉重昌(いたくらしげまさ)と大久保忠隣(おおくぼただちか,秀忠の重臣)を伴天連追放の総奉行に任命しています。
金地院崇伝が起草した『伴天連追放之文』は2代将軍・徳川秀忠の名で公布されましたが、宣教師とキリシタンを追放する理由として『日本が神国・仏国であり、キリシタンの徒党が邪法であるキリスト教を広めることは看過できない事態であること・キリシタンの増大と団結によって幕府転覆の患いになること』が掲げられました。1614年には京都に上洛した大久保忠隣が、キリスト教の教会を破壊して宣教師を長崎に追放し始め、キリシタンに『転び(改宗)』を迫ってそれに応じなければ陸奥津軽への流刑に処しました。
宣教師の長崎追放と信徒の改めは西国大名の領地でも行われ、大坂・京都・堺でも多くの宣教師が追放になりましたが、長崎に集められた宣教師と信徒は1614年9月24日に3隻のポルトガル船で国外追放(マカオ・マニラへの追放)になりました。この『大追放』が為された1614年の時期に、キリシタン大名として著名な高山右近(たかやまうこん,1552-1615)とその家族も加賀からマニラに追放されました。
1613年に、幕府は琉球王国を介して日明講和と貿易再開を求めていましたが、『勘合貿易(明の港での貿易)・出会い貿易(琉球の港での貿易)・琉球の進貢貿易の年一回への増加』という幕府からの要請は1615年にすべて否定されることになりました。しかし、正式なルートでの日明講和と貿易再開がスムーズに進まない一方で、日本に来航する中国船の数は増え続け自然発生的に日中貿易が活発になっていきました。中国では秀吉の朝鮮出兵で日本軍と戦った明が衰退し切っており、女真族(満洲族)を統一した英雄であるヌルハチ(1559-1626)が出て、1616年に後金を建国して1618年から明を滅ぼすための南進を開始します。
1621年には瀋陽・遼陽を陥落させて瀋陽を首都にし、1636年、ヌルハチの死後を継いだホンタイジ(1592-1643)が満州族・漢族・モンゴル族の三族を統治する皇帝となり国号を『大清(清)』と改めました。家康が死去すると2代将軍・徳川秀忠(1579-1632)はさらにキリスト教禁止の度合いを強めていき、1616年(元和2)8月8日には薩摩藩初代藩主・島津家久(いえひさ,島津忠常のこと:1576-1638)に老中奉書(幕府の命令を伝達する公式文書)を送って『キリシタン取締りの強化・ポルトガル船とイギリス船の平戸来航の禁止・中国船の貿易許可』を命じました。
江戸では、渡航朱印状を求めるイギリスの商館長リチャード・コックスに対して『イギリス人もキリスト教徒ではないか』という審問を行い、コックスはイギリスはローマ・カトリックを信仰しておらずスペインとも敵対関係にあると主張します。プロテスタンティズムの影響が強いイギリスは、スペインのように幕府にとって危険な存在ではないということを語りますが、コックスはすべての港で交易できる朱印状を貰うことはできず長崎・平戸一港のみの交易が許可されました。初代将軍・家康は善隣外交と貿易活動・技術導入をある程度重視しましたが、2代将軍・徳川秀忠になってくると貿易の利益よりもキリスト教の禁止・排除のほうに力点を置くようになってきます。
1609年には、オランダが長崎平戸に商館を開きますが、当初ポルトガル船や中国船から略奪した商品を東南アジアに転売していたオランダは、日本とは余り活発に貿易を行っていませんでした。オランダはヨーロッパの必需品であった香辛料(香料)を獲得するための東南アジア貿易に力を入れていましたが、1617年からマニラのスペイン勢力との対立が激しくなり、1619年にはオランダとイギリスが共同防御協定を結んでスペイン勢力の追い落としにかかります。
オランダやイギリスの船から攻撃・略奪を受けるようになったポルトガル船・スペイン船・中国船は、江戸幕府に対してオランダ船・イギリス船の取締り(駆逐)をするように懇請します。この懇請を聞いた幕府は平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)に命じて、略奪・攻撃の多かったイギリス・オランダの船を管轄するイギリス・オランダ商館長に次のような命令を伝えました。兵力として雇用する日本人の国外連れ出しの禁止、甲冑・刀剣・槍・鉄砲・火薬品など軍事物資の輸出禁止、日本近海における外国船(ポルトガル船・スペイン船・日本船・中国船)への海賊行為の禁止を松浦隆信は商館長に命じたのでした。
1616年頃から、キリシタンの宣教師の摘発・追放に加えて、一般民衆への禁教・摘発に力を入れるようになり、1617年には肥前の大村氏によって宣教師4人が処刑されています。1622年には、長崎に入港する外国船の監視体制が強化されます。長崎奉行・長谷川権六(はせがわごんろく)はキリシタン取締りを強化するようになり、1619年8月にはキリシタンの一般信徒への弾圧が現実味を帯びてきて、将軍秀忠が上洛している時に京都でキリシタン52名が火刑に処されました。1620年(元和6)7月には、イギリス・オランダの船によって宣教師2名を乗せた平山常陳(ひらやまじょうちん)の朱印船が拿捕され、平戸の松浦隆信に引き渡されますが、想像を絶する尋問と拷問を受けて二人は自らが宣教師であることを白状させられます。
松浦隆信と長崎奉行・長谷川権六によって1622年に白状させられた宣教師2名は、7月に平山常陳と共に火刑にされ、常陳の朱印船に同乗していた商人・水夫12人も斬首されました。キリシタン弾圧はより苛烈なものとなり、1623年8月には、それまでに捕縛された宣教師21人とその家族・宿主ら34人の合計55人が長崎西坂で処刑されました。このキリシタン禁制による大規模な処刑を『元和(げんな)の大殉教』と呼んでいますが、元和の大殉教の翌年1624年にも江戸でイエズス会の宣教師とキリシタンの原主水(はら・もんど)ら50人が処刑されています。1623年には、ポルトガル人の日本定住とポルトガル人が日本船の航海士になることが禁止され、日本人がフィリピンに渡航したりキリシタンになった外国にいる日本人が出国することも禁じられました。
1624年には、スペイン船の日本渡航が禁止されて、ポルトガル船にも乗員名簿の提出が義務付けられることになり、キリスト教(カトリック)を布教する恐れがある外国船が日本に来航しないようにし、日本人の海外渡航にも大幅な制限を加えました。キリシタンの本格的な弾圧は1626年から始まり、長崎奉行・水野守信(みずのもりのぶ)は長崎の住民に棄教令を出して、棄教しない民衆には雲仙地獄で厳しい弾圧・迫害を行いました。1629年にも長崎奉行・竹中重義(たけなかしげよし)が非常に厳しいキリシタン弾圧を行い、『転び(棄教・改宗)』をしないキリスト教の信徒に過酷な拷問や刑罰を加えました。
この段階になると、日本人とヨーロッパ人が接触する機会も激減し、信教の自由はほとんど無いという状態になります。1622年に、オランダ艦隊が『生糸の独占』を目的にしてポルトガルの中国南部の拠点・マカオを攻撃しますが失敗に終わります。オランダは中国と台湾の間にある澎湖島に要塞を築きますが、中国側の強い撤退要求によって要塞を放棄し、台湾南部のタイオワンに新たな城塞を築いて中国と出会う貿易を行います。中国とオランダとの出会い貿易を中継したのは、平戸に拠点を置いた中国商人の李旦(りたん)でしたが、1625年に李旦が死ぬと許心素(きょしんそ)が後を継ぎます。
アモイに拠点を置いて中国とオランダとの中継貿易で巨利を上げた許心素でしたが、急速に力を蓄えた海賊の頭領・鄭芝龍(ていしりゅう)に許心素は殺害されて、オランダは『中国産生糸の貿易利益』を失います。1628年には、オランダの台湾総督ピーテル・ノイツが台湾の領有・帰属と朱印船への関税を巡る問題で、長崎代官で朱印船貿易家の末次平蔵(すえつぐへいぞう)と船頭の浜田弥兵衛と対立する『タイオワン事件(浜田弥兵衛事件)』が起こります。
この事件で、日本人を人質にとる無法行為を行ったとされたオランダは、平戸オランダ商館を幕府の命令で閉鎖されて1632年までの5年近くの間貿易を停止されました。1628年には、シャムのアユタヤに向かった日本の朱印船がスペイン船に捕縛される事件も起こっており、その報復として幕府はスペイン統治下にあるポルトガル船を抑留し1630年までポルトガル貿易も停止しました。この時期から将軍が朱印状を出す『朱印船貿易』は、朱印状を奪われて将軍の権威が低下する危険を回避するために、長崎奉行に老中奉書を出して長崎奉行が朱印状を発行する『奉書船貿易』に変更されました。
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