島原の乱とキリシタン禁制:江戸幕府の鎖国体制の完成

3代将軍徳川家光の政治と鎖国体制の進展
島原の乱の鎮圧とキリシタン禁制・鎖国体制の完成

3代将軍徳川家光の政治と鎖国体制の進展

『朱印船貿易とキリシタン禁制』の項目では、初代将軍・徳川家康の朱印船貿易の重視策と2代将軍・徳川秀忠のキリシタン禁制の強化について説明しましたが、3代将軍・徳川家光(いえみつ)の御代になると更にキリシタン弾圧が厳しくなってきます。3代将軍となった徳川家光(1604-1651, 在位1623-1651)は幼名を竹千代といい、2代秀忠と崇源院(浅井長政の娘・お江)の間に次男として生まれ乳母の春日局(かすがのつぼね,お福)から大切に育てられました。

2代秀忠の後継者について、秀忠と崇源院の夫婦は家光の弟で聡明な人物として評判のあった徳川忠長(ただなが,1606-1634)のほうを推していたとも言われますが、大御所の家康の裁断によって次男の家光が3代将軍を襲名することになりました。徳川秀忠は1623年(元和9)に家光に征夷大将軍を譲位して、江戸城西丸を本拠とする『大御所政治(二元政治)』を行います。駿府城を与えられて駿河・遠江を統治した徳川忠長(家光の弟)が、家臣を殺害したり無法な辻斬りをするなどの狂気に駆られたという報告を受けると、秀忠は1631年(寛永8)に忠長を甲斐に幽閉せよという命令を出しました。

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徳川一門で改易(領知と官職の剥奪)の処分を受けた人物には、家康の六男・松平忠輝(ただてる,1592-1683)や結城秀康(家康の次男で福井藩初代藩主)の長男・松平忠直(ただなお,1595-1650)がいますが、秀忠が1632年に死去すると徳川忠長は3代家光から駿河・遠江の領地を没収されます。結局、1633年に改易を受けた徳川忠長は上野国の高崎城で自害しました。徳川将軍家の諸大名に対する専制支配を強化しようとする家光は、1632年5月に豊臣系の外様大名で最も有力だった肥後熊本52万石の加藤忠広(ただひろ,1601-1653:加藤清正の次男)を、嫡男の光広(みつひろ)が謀反を企んだという理由などで改易しました。

有力大名の加藤忠広を改易したことで、将軍家光の権勢と支配力が顕示されただけでなく、加藤氏の後に豊前小倉の細川忠利(ただとし)が移封され、豊前小倉には小笠原忠真が入ることになります。外様大名の比率が高かった九州地方に多くの譜代大名を送り込むことにより、幕府の九州地方に対する統治権力が更に強まりましたが、家光は更に諸大名・旗本を監視する『惣目付(そうめつけ)』の役職を作り水野守信(みずのもりのぶ)・柳生宗矩(やぎゅうむねのり)・秋山正重(あきやままさしげ)・井上政重(いのうえまさしげ)が惣目付に任じられました。

春日局に養育された徳川家光は、幼馴染み(乳母兄弟)で将軍附き小姓の稲葉正勝(いなばまさかつ,1597-1634)に強い信頼を抱いており、1632年5月に本丸年寄の末席にいた正勝を抜擢して、6月には加藤忠広改易による肥後熊本城受取りの上使に任命しています。稲葉正勝は相模小田原城8万5千石を与えられますが、家光は2代秀忠の大御所時代に幕政を牛耳っていた西の丸の年寄層である酒井忠世(さかいただよ)・土井利勝(どいとしかつ)・酒井忠勝(さかいただかつ)の影響力を低下させることを目論んでいました。

家光は二元政治(大御所政治)による幕府権力の分散を改める覚悟を示し、1633年3月に松平信綱(まつだいらのぶつな)・阿部忠秋(ただあき)・堀田正盛(ほったまさもり)・三浦正次(まさつぐ)・太田資宗(おおたすけむね)・阿部重次(しげつぐ)ら側近を老中同等の権限を持つ出頭人(しゅっとうにん:取り立てられた出世人)としての『六人衆』に任命しました。

幕府は諸大名を服従させて武家を統制するための法律である『武家諸法度(ぶけしょはっと)』を1615年の2代秀忠の時代から将軍の代替わりごとに発布していますが、その原点になったのは家康が諸大名に徳川家への臣従を誓約させた『3ヶ条の誓紙(1611年)』でした。初めての武家諸法度の草案は黒衣の宰相と呼ばれた禅僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)が書いたとされますが、2代将軍徳川秀忠の時代に伏見城で発布された『元和令(元和の武家諸法度)』は家康時代の3ヶ条の誓約に金地院崇伝が10ヶ条を書き加えた13条からなるものでした。元和(げんな)の武家諸法度に記された主な内容は、徳川将軍家への忠節と奉公を基盤において『文武両道の推進・新城の築城の禁止・城の修繕の制限・勝手な婚姻(政略結婚)の禁止・謀反人や犯罪者の処遇』などを定めたものでした。

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3代将軍徳川家光は1635年(寛永12年)に、儒者の林羅山(はやしらざん)に草案を書かせた『寛永令(寛永の武家諸法度)』を発布しますが、19ヶ条から成る寛永の武家諸法度によって参勤交代(さんきんこうたい)を始めとする幕府の大名統制政策の骨格が定まりました。

『参勤交代』とは大名を1年ごとに江戸に参勤させて在府(在住)させる制度であり、莫大な費用と手間をかけて江戸に参上する大名の江戸幕府(徳川将軍家)に対する忠誠心を確認する効果を持っていました。各大名は参勤交代が割り当てられた年の4月中に江戸に出向くことを義務付けられ、1年を領国で暮らし次の1年を江戸で過ごすという生活リズムを取るようになります。多くの従者を連れた大名行列や江戸在府にかかる費用によって大名の経済力を削減するという意味があり、参勤交代は江戸時代を通して幕府の有力な大名統制策として機能したのです。

1615年9月には、江戸幕府が朝廷の天皇及び公家を統制するための『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』が発布されています。禁中並公家諸法度では公家の主要な役割は『学問・和歌・技芸』とされ、『全国の政治(まつりごと)』を取り仕切る武家(徳川幕府)との職務管掌が明瞭化されましたが、この法度の規定によって朝廷・公家が政治の領域から法的にも完全に排除されることになりました。

1641年(寛永18)8月3日、3代家光に4代将軍・徳川家綱(1641-1680)となる竹千代が生まれ、1644年(正保元)12月に名を家綱と改めて、1645年4月に元服しました。1651年(慶安4)4月20日に、徳川家光が48歳で死去したあとに、徳川家綱は8月18日に江戸城において将軍宣下を受けて4代将軍と内大臣に就任します。3代家光は鎖国政策につながる貿易統制とキリシタン禁制に注力した将軍ですが、参勤交代や惣目付・諸国巡見使を導入した家光の代に江戸幕府の全国の大名に対する監視体制・統治権力は急速に強化されました。

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島原の乱の鎮圧とキリシタン禁制・鎖国体制の完成

長崎奉行という役職は各種の南蛮貿易の利権や商人からの献金を得られる美味しいポストでしたが、1629(寛永6)に長崎奉行に任じられた豊後府内藩主の竹中重義(たけなかしげよし)は、奉書船貿易で多くの不正をしたり贋銀を製造・流通させたことが発覚して1634年2月に幕府から切腹を命じられました。1633年に不正が発覚した竹中重義の後を継いで長崎奉行になったのは、下田奉行の今村正長(いまむらまさなが)と目付の曾我古祐(そがひさすけ)でしたが、将軍家光は1633年2月にかつて『第一次鎖国令』と呼ばれた長崎奉行の職務を書いた条目を送りました。

この条目は確かに鎖国政策を示す内容になっていますが、宛先が大名・一般民衆ではなく長崎奉行に限定されていることから、第一次鎖国令とまでは呼べないという意見も歴史学者の中ではあるようです。またこの条目が発表される以前から、1616年に明以外の外国船の入港を長崎・平戸に限定しており、1623年にイギリスが平戸商館を閉鎖し、1624年にはスペイン船(イスパニア船)の来航を禁止して国交を断絶しています。1631年からは、それまでの将軍が朱印状を交付する朱印船貿易に代わって、老中が発行する奉書を備えていないと貿易が許可されないという『奉書船貿易(ほうしょせんぼうえき)』が開始されます。

長崎奉行の職務について記された第一次鎖国令の内容をまとめると、『奉書船以外の日本人と船舶の海外渡航の禁止・(海外在住5年以内の者を除いて)異国に居住した日本人の帰国禁止・キリスト教の布教の禁止と取締り・糸割符制に基づく生糸貿易』などで、ポルトガル人の宣教師を取り締まって日本人の海外渡航を禁じる内容になっています。1634年(寛永11)5月18日には、今村正長と曾我古祐に代えて書院番組頭の榊原職直(さかきばらもとなお)と使番の神尾元勝(かんおもとかつ)が長崎奉行に任じられ、前回と同様に家光から長崎奉行の役目を記した条目『第二次鎖国令』が交付されました。

この条目の内容も『宣教師の追放・武器輸出の禁止・奉書船以外の日本人の海外渡航の禁止』といったものでしたが、長崎奉行だけではなく一般の民衆も読めるように長崎の町にこの禁制が掲げられました。1634年の第二次鎖国令は日本の鎖国体制の基本的性格である『キリスト教の布教と信仰の禁止・海外に日本製の武器を輸出することの禁止・日本人の海外渡航と外国に居住した日本人の帰国の禁止』が網羅されていますが、翌1635年には家光によって東南アジア貿易を活発に行っていた朱印船貿易が停止されます。

1635年(寛永12)5月には、長崎奉行の榊原職直と目付の千石久隆(せんごくひさたか)に『第三次鎖国令』が発布され、中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定すると共に、日本人の渡航と帰国を全面的に禁止しました。この第三次鎖国令によって、日本人の海外渡航と海外からの帰国の禁止が成立することになり、厳密な鎖国体制確立への布石が敷かれました。1630年代前半には、鎖国令を無視して日本に侵入した長崎のキリスト教宣教師(伴天連)の処刑が続きますが、1633年からは『伴天連の詮索(宣教師であるか否かの追及)』が正式に長崎奉行の職務とされました。

1635年8月には、キリシタン廃絶を目指す将軍家光は全国の大名に対して領国内のキリシタン改めを命令し、生命を助ける代わりにキリシタンを強制的に改宗させて自分がキリスト教徒ではないことを誓約する『南蛮誓紙』を書かせました。キリシタン改めが制度化されるにつれて、すべての日本人が仏教徒であることを確認するための『寺請制(檀那制度)』による宗門改めが普及していきます。幕府は1634年(寛永11)から『長崎の出島(当初は築島・つきしまと呼ばれた)』の建設を開始して、1636年に国内のポルトガル人を集める長崎の出島が完成しました。

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幕府はポルトガル人をすべて長崎の出島に移すことで『日本人とポルトガル人の接触』を遮断して、日本人のキリシタン(キリスト教徒)が増えることを抑制しようとしました。1636年(寛永13)に『第4次鎖国令』を出して、貿易に関係していないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児も含む)287人をポルトガル船に乗せてマカオに追放したので、長崎の出島に合法的に残れるのは貿易に従事するポルトガル人だけとなりました。

3代将軍・徳川家光がキリスト教の禁制を進める中で、近世(江戸時代)最大の一揆・内戦へと発展する『島原の乱(島原・天草の乱,1637年-1638年)』が勃発します。島原の乱はイエス・キリストの生まれ変わりとされた天草四郎時貞(1621頃-1638)を首領とする島原・天草の農民反乱軍が起こした『大規模な宗教戦争(キリシタン一揆)』とされます。しかし、島原の乱にはキリスト教の信仰を守るという『宗教戦争』の側面以上に、島原藩と唐津藩の藩主が百姓に苛酷な重税(過剰な年貢)とキリシタン弾圧を科し、それに耐え切れなくなった百姓(農民)と有馬・小西両氏の旧臣が一斉に反乱一揆を起こしたという側面があります。

島原の乱が起こった最も大きな原因は、島原藩藩主・松倉勝家(まつくらかついえ,1597-1638)と唐津藩藩主・寺沢堅高(てらさわかたたか,1609-1647)が行った『残虐なキリシタン弾圧』『苛酷な高率の年貢徴収(無理な重税の取立て)』であり、そこに不作による飢饉が重なることで、生活が困窮して苛酷な圧政に耐えられなくなった百姓・旧武士層が無慈悲な領主への反乱を決断したわけです。元々、島原藩はキリシタン大名の有馬晴信(ありまはるのぶ,1567-1612)の所領であり、肥後天草諸島もキリシタン大名の小西行長(こにしゆきなが,1555-1600)の所領だったので、島原と天草諸島では多くの百姓・庶民がキリシタン(キリスト教徒)になっていたという状況もあります。

1614年(慶長19)にキリスト教の禁制が強まる中、島原を領有する有馬氏に代わって大和五条から松倉重政(しげまさ)が領主として赴任してきますが、重政とその子・松倉勝家は農民を苦しめる苛烈な悪政を行いました。肥後・天草には、関ヶ原の戦いで西軍について処刑された小西行長に代わって長崎奉行を務めた寺沢広高が藩主に任命され、広高とその子・寺沢堅高が島原の乱の原因となるキリシタン弾圧と苛酷な搾取を行ったのです。

島原藩主・松倉勝家の苛酷な重税と圧政、キリシタン弾圧に耐えかねた島原の民衆は大規模な反乱を計画し、その求心力としてキリスト教の信仰と団結力を活用します。1637(寛永14)10月に、天草四郎時貞を救世主と仰ぐ三吉(さんきち)と角内(かくない)というキリシタンの農民が、反乱軍を結成するために島原・有馬村の周辺の地域でキリシタンを駆り集めますが、計画が途中で露見して三吉と角内は島原藩に捕縛されました。しかし、1637年10月25日に百姓一揆の軍勢は、有馬村の代官・林兵左衛門(はやしへいざえもん)を殺害して島原の乱を勃発させます。島原の百姓一揆の軍は、周辺の村々から軍勢と武器を集めながら島原城へと迫っていきますが、防御の固い島原城を落とすことはできずに島原半島南部の古城・原城(はらじょう)を修築して反乱の拠点としました。

島原の一揆に呼応して肥後天草でも大規模な一揆が起こり、カリスマティックな少年信徒・天草四郎時貞(益田四郎)を指揮官として擁立した天草の反乱軍は天草の重要拠点である富岡城を攻めますが、城主の三宅藤兵衛(三宅重利)を討ち取ったものの富岡城を攻略することができませんでした。その後、島原と天草の反乱軍は合流して総勢3万7千の大軍を結集させます。反乱軍は、松倉氏の居城・島原城を果敢に攻めますが陥落させることができず、松倉氏の蔵を襲って兵糧米・鉄砲・武器・弾薬などを奪い取り、修築した原城での籠城作戦を取ることにしました。

島原の乱が発生した時には、参勤交代の江戸出向によって九州地方には薩摩藩の島津家久ひとりしか残っておらず、当事者である松倉勝家と寺沢堅高も江戸に参勤していました。肥後天草の一揆軍が富岡城を攻撃した翌日の1637年10月27日に、島原藩の家老は反乱の発生を幕府の代官である豊後目付に報告しました。更に島原藩は、佐賀藩の鍋島氏と熊本藩の細川氏に反乱鎮圧のための援軍を要請しましたが、武家諸法度に幕府の許可なく勝手に領外の軍事活動を行ってはならないという規定があることを理由に鍋島氏と細川氏を援軍派遣を見送りました。

11月9日に、江戸幕府に島原の乱発生の報告が届きましたが、家光は板倉重昌(いたくらしげまさ, 1588-1638)石谷貞清(いしがやさだきよ, 1594-1672)を上使として島原に派遣することを決定し、松倉勝家・日根野吉明(豊後府内藩主)に即時の帰国と反乱の鎮圧を命じました。11月11日には、西国探題としての役割を果たしていた本多政朝(ほんだまさとも)や小笠原忠真(豊前小倉藩主)を帰国させ、一揆鎮圧の巡視役として使番の松平行隆(ゆきたか)も送り込みました。11月13日には、島原の乱の制圧に万全を期すため、寺沢・久留島・松浦・相良・伊東・秋月らの九州の大名に帰国を命じました。

11月25日に豊前小倉に着いた上使の板倉重昌と石谷貞清は、熊本藩に一揆鎮圧のための軍勢を出すように命じて、12月5日に島原城に入城して一揆軍が立て篭もる原城の攻略戦を始めます。11月27日に将軍・徳川家光は、板倉重昌と石谷貞清に加えて更に戦後処理のための上使を派遣することを決め、「知恵伊豆(ちえいず)」と称された老中・松平信綱(まつだいらのぶつな,1596-1662)と美濃大垣藩主・戸田氏鐵(とだうじかね,1576-1655)を九州に送り込みました。板倉重昌は1637年の12月10日と12月20日に、総勢5万の軍で原城を包囲して攻めますが、激しい反乱軍の攻撃を受けて多数の死傷者を出し退却します。

負け戦を続けた板倉重昌は、自分の後に松平信綱と戸田氏鐵の上使が江戸から派遣されたことを気にしていたようであり、信綱らが島原に入る前に何としてでも原城を陥落させて戦果を挙げたいと考えていました。1638年1月に、板倉重昌は島原藩・佐賀藩・久留米藩・柳川藩・熊本藩の軍勢を集めて原城総攻撃を行いますが、前線に指揮官自ら打って出た重昌は一揆軍の放った鉄砲の弾に額を打ち抜かれて戦死しました。江戸幕府から上使として派遣された板倉重昌と石谷貞清は原城攻略に失敗し、島原の乱の鎮圧は後から九州に上陸した松平信綱と戸田氏鐵に託されることになりました。

島原の乱の戦況が悪化していると見た将軍家光は、1638年1月3日に大目付の井上政重(いのうえまさしげ)を更に島原に上使として遣わしました。九州の諸大名の兵力を集めた松平信綱は、強力な大砲を持つオランダ海軍の援助を受けるという戦術を考えて、1月11日にオランダ商館長クーケバッケルに海上から原城を砲撃させました。

このオランダ軍の砲撃は、反乱軍から『外国勢の与力を得るとは武士の恥』と非難され幕府軍の中から反対が出たこともあり途中で取りやめられましたが、その後1月11日には、家光が『細川忠利・鍋島勝茂・立花宗茂・黒田忠之・木下延俊・有馬直純・有馬豊氏・稲葉一通・中川久盛』の九州諸大名に一揆討伐を命じて帰国させました。この九州大名の相次ぐ帰国により幕府側の一揆討伐軍は約12万の大軍となり兵力の上で圧倒的優位に立ちますが、反乱を起こした一揆軍は1月末から兵糧と弾薬が不足するようになって追い詰められてきます。城内の兵糧不足による一揆軍の窮乏を見抜いた松平信綱は総攻撃の日を2月26日と定めましたが、強い雨が降ったので28日に延期しました。

しかし、2月27日に一揆軍が二の丸の防備を弱めたのを見た佐賀藩の鍋島軍が『抜け駆けの攻撃』を開始し、それに続いて各藩の軍勢が一揆に島原城へと突入を始めました。阿鼻叫喚の激しい戦闘は、27日の夕方から28日の午前中まで続き、原城に籠城した一揆勢は女子どもまで含めて2万7千人が徹底的に殺害され、幕府側の領主軍のほうにも1万人に迫る甚大な被害が出ました。1637年10月25日から始まった大規模な宗教戦争・農民一揆(圧政を敷く領主への反乱)である島原の乱は、1638年2月28日に膨大な犠牲者を出して終結しました。

この島原の乱は農民・浪人が起こした反乱ということもあり、一揆鎮圧に軍勢を出した大名に特別な恩賞が与えられることはなく、一揆の原因を作った松倉勝家と寺沢堅高は改易されて領地を没収されました。松倉勝家に代わって浜松3万6500石の譜代大名・高力忠房(こうりきただふさ)が島原4万石に転封され、寺沢堅高に代えて備中成羽3万石の外様大名・山崎家治(やまざきいえはる)が天草4万石に転封されました。松平信綱の命令に従わずに勝手に抜け駆けの突入を始めた佐賀藩の鍋島勝茂にも『閉門(蟄居)』の処罰が与えられました。島原の乱後も江戸時代では『戦時の奉公と功績に対する恩賞』は見られなくなり、奉公は大名の幕府に対する当然の責務とされ、『幕府の要職』に就くことでしか石高加増の恩恵を得ることは出来なくなっていきます。

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キリシタンを中心とする島原の乱が起こったことで、更にキリシタン禁令と貿易の統制は厳しくなり、1639年(寛永16)に『第五次鎖国令』が出されて、ポルトガル人の追放とポルトガル船(かれうた船)の入港禁止が決定されます。具体的には1639年7月4日に、『かれうた御仕置之奉書(おしおきのほうしょ)』『浦々御仕置之奉書(うらうらおしおきのほうしょ)』『唐船ニ乗来族ヘ相伝覚書(からふねにのりきたるやからへあいつたえるかくしょ)』『阿蘭陀人ヘ相伝之覚書』が発布されました。この鎖国令の後に、中国の生糸・絹織物などを日本が輸入する海外貿易の相手はポルトガル人からオランダ人に変わりますが、1641年には平戸にあったオランダ商館が閉鎖され交易・交流の場所は『長崎の出島』のみに限定されます。

将軍家光はポルトガルに変わって日本の交易相手となったオランダもキリスト教国(プロテスタント国)であると認識しており、日本にバテレン(宣教師)やキリシタン(キリスト教信徒)が入り込まないように厳しい監視・管理体制を構築しました。1640年には、マカオから通商再開を求めて来航したポルトガル船の乗員61名を処刑して『ポルトガルとの断交』の意志を明確化し、ポルトガルの反撃に備えて九州の沿岸防備体制を強化します。日本の『キリシタン禁制・日本人の海外渡航と外国からの帰国禁止・幕府による貿易統制』を中核とする鎖国体制は、ポルトガル人を日本から追放してオランダ商館を長崎の出島に移した1641年(寛永18)に完成しました。1647年(正保4)にポルトガル船2隻が国交回復を求めて再び来航しますがこれを幕府が実力で追い返すと、江戸時代の期間にポルトガル船が日本に来航することは無くなりました。

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