大黒屋光太夫の漂流とロシア使節の根室来航
間宮林蔵のカラフト探検とロシア外交
『田沼意次の政治改革』の項目では商業資本の発展を重視した田沼の政治を見てきましたが、18世紀後半の蝦夷地(現在の北海道)に目を移すと急速にロシアとの政治的な距離が縮まろうとしていました。ロシア使節が蝦夷地の根室港に来航するきっかけを作ったのは、1782年(天明2年)に伊勢白子港を出港して江戸に向かう途中で暴風雨に襲われ漂流した廻船の船頭・大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう,1751-1828)でした。大黒屋光太夫ら17人を乗せた神昌丸(しんしょうまる)は1783年7月に、漸くロシア人が居住するアリューシャン列島のアムチトカ島に辿り着き、4年間ほどの時間をアムチトカ島で過ごしました。次いで、1787年にカムチャツカ島に移住して、1789年にはロシア本土に渡航してシベリアで最も栄えていた都市であるイルクーツクを訪問しました。
大黒屋光太夫がシベリアのイルクーツクに辿り着くまでに、慣れない風土・気候・疫病・食生活などに耐え切れず17人のうちの11人が既に死亡していましたが、イルクーツクには光太夫以前にロシアに漂流していた日本人が既に居住しており、当地には日本語学校までもが建設されていたのでした。ロシア人たちは光太夫らにイルクーツクの日本語教師になってはどうかと勧めますが、光太夫らは飽くまで日本への帰国を希望します。
光太夫は知遇を得たロシア帝国サンクトペテルブルク科学アカデミー会員のキリル・ラックスマン(1737-1796)に頼んで、女帝エカチェリーナ2世(1729-1796)に取り次いでもらい帰国願いを出そうとします。1791年6月に、大黒屋光太夫はロシア帝国の皇帝(女帝)であるエカチェリーナ2世に拝謁することが叶い、日本との通商貿易を求めるロシア外交使節に連れ添っていくという条件つきで帰国が許されました。日本に派遣される外交使節にはキリル・ラックスマンの次男であるアダム・ラックスマン(1766-1806)が選ばれます。アダム・ラックスマンと共に大黒屋光太夫・小市(こいち)・磯吉(いそきち)ら3人はエカチェリーナ号に乗り、1792年9月5日に根室港への帰還を果たしたのです。しかし、小市は1793年4月に根室で病死しました。
光太夫と同時代である1793年(寛政5年)に、ロシアに漂流した人物に若宮丸に乗っていた津太夫(つだゆう)がいますが、津太夫はロシア皇帝アレクサンドル1世(1777-1825)に拝謁して遣日使節レザノフと共に帰国を許されました。津太夫は世界一周航海を目的としていたクルーゼンシュテルンの船ナディシェダ号に乗り込んだ経験を持っており、バルト海を経由して大西洋へと渡り、マゼラン海峡を越えてハワイにも立ち寄っています。
大黒屋光太夫のロシアにおける経験は桂川甫周(かつらがわほしゅう)らの聞き取りによって『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』という書物にまとめられていますが、津太夫らの経験も大槻玄沢(おおつきげんたく)が聞き取って『環海異聞(かんかいいぶん)』としてまとめています。1792年に帰国した大黒屋光太夫は、町奉行の池田長惠(いけだながしげ)の取り調べを受け、11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)や老中・松平定信にも見聞体験の質疑を受けることになりました。結局、光太夫は故郷の伊勢国には1度しか帰国することができませんでしたが、江戸番町の薬草園で妻を娶って比較的自由な生涯を終えたようです。
ロシア使節のアダム・ラックスマンは、光太夫ら日本人の返還と通商(貿易)の要求を目的にして根室に来航していたのですが、江戸幕府の老中・松平定信らはロシアの国書は受け取らず江戸への来航も認めませんでした。しかし、1793年に目付の石川忠房(いしかわただふさ)らを遣わして日本の鎖国体制について説明させ、いったんは開港・通商を拒絶するもののロシアに強い通商の要求がある場合には長崎に出向くようにと伝えました。幕府の外交を担当していた宣諭使がラックスマンに対して長崎入港に用いる『信牌(しんぱい)』を渡したため、長崎入港が既に許可されたと判断したラックスマンは1793年7月に箱館(函館)からロシアに帰国しました。
ラックスマンを乗せたエカチェリーナ号が根室に来航したことで、幕府で北方の海防体制(沿岸防備体制)が問題となり、老中・松平定信は1792年12月に松前藩に蝦夷地の防備・支配の強化を命じる『蝦夷御取締建議(えぞおとりしまりけんぎ)』を発布しました。しかし、1796年(寛政8年)8月にイギリス人ブロウトンが乗ったプロビデンス号が、松前藩に近い内浦湾の中に停泊するという事件が起こり、松前藩一藩では蝦夷地防衛が無理だと判断した幕府は、東北地方の津軽藩・南部藩にも交代で蝦夷地の防衛に当たるように指示しました。
蝦夷地沿岸にイギリス船が何度か姿を現したことから、幕府は蝦夷地の警備体制を強化する必要性を切実に感じ、蝦夷地の沿岸の地理・風土を正確に把握するための大規模な探検調査を計画します。1798年4月には、目付・渡辺胤(わたなべつづく)、使者・大河内政壽(おおこうちまさこと)が率いる180人体制の大調査団を蝦夷地に送り込んで探検・調査を実施し、東蝦夷地(蝦夷地の南半分)調査隊に加わっていた近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)・最上徳内(もがみとくない)らは現在の北方領土に当たる国後島・択捉島にまで足を伸ばして簡単な調査を行っています。蝦夷地検分の結果、松前藩に蝦夷地支配を一任しておくことは国防的観点から危険であると幕府は判断して、蝦夷地の直轄支配に乗り出します。老中の戸田氏教(とだうじのり)が蝦夷地支配を統括する地位に立ち、書院番頭・松平忠明(まつだいらただあきら)ら5人が『蝦夷地取締御用掛(えぞちとりしまりごようがかり)』として蝦夷地の直接的な経営に当たることになりました。
1800年10月に松平忠明が幕府に対して全蝦夷地の永久上知(直轄領化)の意見が上申されましたが、11代将軍・徳川家斉は1802年(享和2年)に南半分に当たる東蝦夷地の永久上知の決断を下し、北部の西蝦夷地だけが松前藩の領地となりました。江戸幕府の蝦夷地直轄支配の拠点は箱館であり、蝦夷地取締御用掛の役職は蝦夷奉行となり更に1802年5月に箱館奉行(はこだてぶぎょう)へと改められました。1804年になると、西蝦夷地と松前藩の防備能力の視察を行った目付・遠山景晋(とおやまかげみち)は、松前藩に西蝦夷地(蝦夷地の北半分)を軽微する実力がないと判断し、西蝦夷地も幕府が上知(あげち,没収)することに決めます。1807年3月に、藩主・松前章広(まつまえあきひろ)は西蝦夷地を幕府に引き渡して、9000石となった松前藩の拠点は北陸地方の陸奥国伊達郡梁川(やながわ)に移されることになりました。この松前藩からの上知(領地没収)によって蝦夷地全域は幕府の直轄領となりますが、幕府は蝦夷地防備の拠点を箱館から福山に移し、奉行職も箱館奉行から松前奉行と名前を変えました。
幕府が東蝦夷地を直轄地にした時には松平定信の『寛政の改革』の影響もあり、蝦夷地の交易活動から不当に多額のマージンを得ている商人の利権を取り除こうとする政策が採用され、アイヌ地方の慣習的な交易方法であった『場所請負制度(ばしょうけおいせいど)』を廃止しようとしました。商人(場所請負人)に該当場所の交易を委託する代わりに、武士(知行主)に一定の税金である運上金を支払う制度を『場所請負制度』といいますが、その中核を担ったのが近江商人でした。
江戸幕府は『場所請負制度』を廃止して、幕府が直接的に交易を統括する『直捌制度(じきさばきせいど)』を導入しようとしました。しかし結局、商業活動に慣れていない幕府の直捌制度では経費が嵩むばかりで十分な利益を上げられず、1812年には東蝦夷地での直捌制度を廃止して再び商人にアイヌ交易を委任する場所請負制度に戻りました。幕府はアイヌ人の日本民族への『同化政策』や択捉島周辺の漁場開発、蝦夷地の交通網(道路・航路)の開発にも積極的でしたが、幕府財政の悪化が続いて蝦夷地経営の経費が不足したため、十分な蝦夷地の開発・統治を行うことはできませんでした。
1804年(文化元年)9月に、ロシアに漂流していた津太夫とロシア使節のニコライ・レザノフ(1764-1807)を乗せたナディシェダ号が長崎に通商を求めて入港します。1793年(寛政5年)に、アダム・ラックスマンが幕府から長崎入港を許可する信牌(しんぱい)を受け取りレザノフはその信牌を持参していたので、レザノフは日本がロシアへの開港・交易を認めたものとばかり思い込んでいました。
ロシア使節レザノフが長崎奉行に対して通商を求める国書を江戸に献上したいと申し出ると、長崎奉行は慌てて江戸幕府にその旨を伝えます。そして、幕府は目付・遠山景晋(とおやまかげみち)を遣わして国禁によりロシアと通商することはできないと返答しました。ロシア使節のレザノフは長崎に滞在中も軟禁に近い厳しい処遇を受けており、その屈辱的な対応に憤慨したレザノフは実力行使で日本に通商を求めるしかないという結論に行き着きます。レザノフは独断でロシア海軍大尉・フヴォストフに日本人が居住する役所・町の攻撃を命令し、千島・カラフト(樺太)にある日本人の番屋を急襲しました。
1806年9月11日に、フヴォストフはカラフト(樺太)のオフィトマリに上陸して、カラフトの領土と人民がロシア皇帝の所有であるという触書を掲示し、翌9月12日にカラフトの松前藩の拠点であるクシュンコタンを襲撃しました。フヴォストフは松前藩の陣地を襲撃して、米・塩・酒・タバコなどを略奪して建物を焼き討ちしましたが、この事件が幕府に伝わったのは1807年4月のことでした。更に、フヴォストフは択捉島(エトロフ島)に上陸して襲撃と略奪、番人の誘拐を繰り返し、礼文島や利尻島の沿岸部で商船・官船から物資を略奪する海賊行為を相次いで行いました。
1807年6月になると、フヴォストフらロシア海軍の襲撃行為や海賊行為は見られなくなりましたが、箱館奉行の羽太正養(はぶとまさやす)は蝦夷地の防備体制を増強することに決め、津軽藩・南部藩・庄内藩・秋田藩の4藩で3,000人体制の沿岸防備を固めました。そして、1811年5月にはロシア船のディアナ号に乗って国後島(クナシリ島)に上陸したゴローニン(1776-1831)ら8人のロシア人を、フヴォストフの襲撃事件の容疑で捕縛します(ゴローニン事件)。
ゴローニンは自分とフヴォストフが無関係であること、『フヴォストフの襲撃・略奪』はロシア政府の命令に拠るものではなくレザノフとフヴォストフが独断で行ったことを説明しますが、幕府はゴローニンを釈放せずに箱館で2年間にわたり幽閉しました。ディアナ号の副艦長・リコルドは日本に捕縛されたゴローニンの情報を得るために、1812年8月14日、箱館に向かっていた観世丸の高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)を捕縛してカムチャツカ島に連行しました。
高田屋嘉兵衛からゴローニンが捕縛される原因となった『フヴォストフの襲撃・略奪』について聞かされたリコルドは、幕府に対して公式に謝罪してゴローニン返還の交渉を行うことに同意します。1813年5月に高田屋嘉兵衛を国後島に送り届けたリコルドは、9月にイルクーツク民政長官の名前で書かれた謝罪文を松前奉行に手渡し、幽閉されていたゴローニンを返還してもらうことができました。ロシアに帰国したゴローニンは蝦夷地で幽閉された体験を『日本幽囚記(にほんゆうしゅうき)』としてまとめ、この書籍は日本でも馬場佐十郎が『遭厄日本紀事(そうやくにほんきじ)』として翻訳しています。
1807年に、幕府は松前章広から西蝦夷地を上知して直轄地化しますが、それ以前には樺太(カラフト)について十分な探査(検分)ができておらず、樺太の北部が大陸と続いているのかそれとも樺太が独立した大きな島なのかも分かっていませんでした。ロシアの探検家・クルーゼンシュテルンも1806年に樺太探検を行ったのですが、海峡を発見することができず樺太が島であることの確信を得ることはできませんでした。
そこで幕府は1808年に、松田伝十郎(まつだでんじゅうろう)と間宮林蔵(まみやりんぞう,1780-1844)を樺太探検に派遣することを決め、二人は宗谷岬から樺太に渡ることになります。松田伝十郎は樺太の西海岸を調査しますが、樺太北部が大陸に最も接近する地点まで踏破して、樺太が大陸から離れた『島』であることを確認して蝦夷地へと引き返しました。1808年7月に、間宮林蔵は単身で樺太の東海岸を北上する再調査を実施して、樺太北部にアイヌ語が通じないオロッコという原住民がいることを発見し、樺太島(カラフト島)が『島』であることを再度きちんと確認してそこで冬を越しました(間宮海峡の発見)。
1809年6月には、間宮林蔵は『デレン』という清国(中国)の暫時的な役所(徴税・進貢のための役所)を、朝貢するギリヤーク人の酋長と共に訪れましたが、中国大陸にある黒竜江(こくりゅうこう)を遡る探検をした日本人は間宮が初めてでした。デレンに一週間ほど滞在した間宮林蔵は、清国の役人と会って極東地域の政治情勢・文化風俗についての大まかな知見を得ることができました。そして、日本で考えられているよりも、ロシアの勢力圏が極東地域の内陸部(清国の領土付近)にまでは伸びてきていないことに気づきました。間宮林蔵は1806年にレザノフに煽動されたフヴォストフの襲撃事件を経験し、1811年には『ゴローニン事件』も見聞していますが、カラフト島に続いて黒竜江下流を調査した時の記録は『東韃地方紀行』としてまとめられています。
1818年(文政元年)に水野忠成(みずのただあきら)が老中になると『田沼時代』のような賄賂政治が復活するのですが、転封されていた松前氏は一橋家・徳川治済(とくがわはるさだ)を通して旧領への復帰運動を行い、1821年12月には旧領の蝦夷地・松前藩に復帰することができました。松前氏が蝦夷地の藩主に復帰できた背景には、ゴローニン事件以降にロシアの艦船が蝦夷地近辺に出没することがなくなったことがあり、幕府の海防体制に対する警戒感も急速に弱まっていきました。しかし、表面的な外交関係の静けさの裏で、徳川幕府の鎖国体制における天下泰平の眠り(国家外交の戦略性の無視)を覚ます『ペリーの黒船来航(西欧列強による開国要求)』の瞬間は刻一刻と迫っていたのです。
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