江戸末期の鎖国体制の揺らぎと海外情勢の変化

ジョン万次郎のアメリカ来訪と漂流民がもたらす情報
ジョセフ・ヒコとアジアを取り巻く世界情勢の変化

ジョン万次郎のアメリカ来訪と漂流民がもたらす情報

『島原の乱と鎖国』の項目では、江戸幕府の鎖国政策が固まっていくプロセスを説明しましたが、『鎖国』という言葉の歴史的由来は1801年(享和元年)に志筑忠雄(しづきただお,1760-1806)エンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)の著書を翻訳した『鎖国論』にあると言われます。ケンペルはオランダ船に乗って日本に来航したドイツの博物学者・医師であり、『日本誌』という書物を著してヨーロッパ世界に鎖国中の日本の政治体制(二重権力)・社会構造・文化習俗を紹介しました。長崎で通詞を勤めていた志筑忠雄がその『日本誌』の一部を翻訳したことがきっかけとなり、『鎖国』という言葉が普及していったのです。鎖国政策を採用した江戸時代に幕府と外交関係・通商関係があったのは、キリスト教布教と関係のない清(中国)とオランダだけでしたが、18世紀後半にはエカチェリーナ2世の命を受けて日本と外交関係を求めるロシアの接近(使節レザノフの来航,ゴローニン事件)がありました。清・オランダとの貿易活動・文化交流も長崎の出島に限定されていました。

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徳川幕府は清(中国)・オランダ、李氏朝鮮以外の外国との外交関係(通商関係)を拒絶して、日本国内に閉じた定常的な幕藩体制を『鎖国』によって実現していました。しかし、四囲を海に囲まれて『外国人の漂着・日本人の漂流』の可能性がある日本では、完全な鎖国というのはある種の幻想であり、薩摩藩が琉球を服属させ松前藩がアイヌと交易していたように『異民族との接触』が全く無いわけではありませんでした。対馬藩の宗氏も李氏朝鮮との交流があり、朝鮮からは徳川将軍家の将軍就任(代替わり)の時などに『朝鮮通信使』が送られていました。江戸時代に限定すると、1607年(慶長12年)の徳川秀忠の代に日朝国交回復のために朝鮮通信使が来日したのですが、1811年(文化8年)の徳川家斉の襲封祝賀で対馬に差し止められたのを最後にして朝鮮通信使の来日は途絶えました。

鎖国体制下の日本では『海外(外国)への日本人の渡航』『外国に滞在した日本人の帰還』は禁止されていましたが、江戸中期以降に廻船回りの海運が発達すると暴風雨・大波・天候悪化(時化)などによって『(外国船に救助される)漂流民』が多く生み出されました。漂流民はアメリカ・アラスカ・ロシア・清・台湾・東南アジアなどさまざまな地域に漂流したり外国船に乗せてもらって渡航したりしていますが、江戸時代後期にはこういった漂流民の外国見聞によって諸外国の異文化・政治情勢などの情報がもたらされました。漂流民が伝えてくる『諸外国の文化慣習・政治経済の見聞情報』は幕府・藩によって機密情報の扱いをされましたが、江戸時代が末期に近づくにつれてそういった異国の情報は国防上の必要性(ペリー来航後の恐慌状態)や支配層の関心の高まりもあって珍重されるようになります。激動する海外の情報・文化・学問を伝達した幕末の漂流民の代表として、アメリカに長期滞在した土佐藩出身のジョン万次郎(中浜万次郎,1827-1898)がいます。

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ジョン万次郎(中浜万次郎)は土佐藩中浜村の貧しい漁師の子として産まれ、幼少の頃から寺子屋の学問とも無縁だったため『日本語の読み書き』もできませんでしたが、14歳の時に漁に出て嵐で遭難したことでその運命が激変することになります。無学だった漁師の少年が10年以上のアメリカ滞在を経て、広範な分野の学問を学んだ幕末を代表する進歩的知識人の一人となるのです。1841年(天保12年)1月5日、14歳の時に大人の漁師に混じって5人で漁に出た万次郎は嵐で遭難することになり、5日半にわたって漂流した後に太平洋の無人島『鳥島』に漂着しました。中浜万次郎は143日間もの間、漂着した鳥島でサバイバル生活をしましたが、偶然通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号(船長はウィリアム・ホイットフィールド)に救助されて11月にハワイ・オアフ島に上陸しました。

船長のウィリアム・ホイットフィールド(1804-1886)に勤勉な性格や旺盛な好奇心を認められた万次郎は船員たちから『ジョン・マン(John Mung) 』と呼ばれていましたが、仲間たちをハワイに残してジョン・ハウランド号に乗ってアメリカ本国のマサチューセッツ州ニュー・ベッドフォードに行きました。ホイットフィールドの家族からも温かく受け容れられて養子となったジョン万次郎は、ジェームス・アレン宅に寄宿してオックスフォード・スクールに通学しました。勤勉で向学心の強かったジョン万次郎はバートレット・アカデミーにも進学して英語・数学・測量・航海術・造船技術などを習得します。これによってジョン万次郎は、当時の日本人では最も英語が堪能な人物となり、西洋の学問知識や民主主義・男女平等のイデオロギーにも明るい開明的な知識人となりました。

暫く捕鯨船に乗船して仕事をしていたジョン万次郎ですが、『日本への帰国』を決意するとカリフォルニア州サンフランシスコのゴールドラッシュに参加して帰国のための資金を集めます。1850年(嘉永3年)9月にエライシア号でハワイ・ホノルルに立ち寄った万次郎は、遭難した時の漁師仲間と再会して1851年(嘉永4年)1月に琉球国に上陸を果たします。アメリカに長期滞在していたジョン万次郎は、薩摩藩や長崎奉行所で厳しい取り調べを受けますが、彼らは既に日本語を忘れていたこともあり取調べは思うように進みませんでした。開明的なことで知られた薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)は、ジョン万次郎の流暢な英語や実用的な造船技術・航海術などに感嘆して薩摩藩の洋学校(開成所)の講師を依頼しますが、その後ペリー来航(1853年)の影響もあってジョン万次郎のような海外の事情や語学・学術に精通した人材の価値は極めて高くなっていきます。

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ジョセフ・ヒコとアジアを取り巻く世界情勢の変化

1853年(嘉永6年)に、ジョン万次郎は幕府に召聘されて直参の旗本に任命され『中浜の姓(生まれ故郷の中浜村にちなむ)』を授与されますが、幕臣のやっかみもあってアメリカ使節やペリー提督に対する通詞(通訳)の役割は十分に果たすことが出来ませんでした。日米修好通商条約の成立後の1860年(万延元年)には、『日米修好通商条約の批准書』を交換するために遣米使節団の一人になって咸臨丸でアメリカに渡りました。

ジョン万次郎に対して幕府が行った聴き取り調査の結果や海外の見聞情報は、1852年以降に『漂客談奇(ひょうきゃくだんき)』『漂流記』『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』『亜米利加漂流譚(アメリカひょうりゅうたん)』など無数の写本となって幅広く流布しました。中浜万次郎(ジョン万次郎)は日本と海外に非常に広範な人的ネットワークを持っていたことでも知られ、勝海舟・佐久間象山・吉田松陰・坂本竜馬・後藤象二郎・福沢諭吉・島津斉彬らをはじめ幕臣から各藩の藩主・志士まで幅広い階層にさまざまな影響を与えています。

大黒屋光太夫やジョン万次郎と並んで幕末の著名な漂流者とされる人物に、貿易商として成功し『新聞の父』と呼ばれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵,1837-1897)がいます。ジョセフ・ヒコ(幼名・彦太郎)というのはカトリックの洗礼名なのですが、播磨国に農民の子として生まれた彦太郎は1851年(嘉永4年)に江戸見物の帰りに暴風雨で遭難します。

南鳥島付近でアメリカ商船オークランド号に救助された彦太郎はサンフランシスコに上陸して、アメリカの帰国命令を受けていったんは香港経由でマカオまで引き返します。再びサンフランシスコへと戻りました。税関長サンダースに身元を引き取られた彦蔵は1853年8月5日に、日本人として初めてアメリカの14代大統領のフランクリン・ピアース(任期1853-1857)と会見します。その後にも、1857年に15代大統領ジェームズ・ブキャナン(任期1857-1861)と会って、1862年には『奴隷解放の父』とされる16代大統領エイブラハム・リンカーン(任期1861-1865)に拝謁しています。

1854年(安政元年)にカトリックの洗礼を受けて彦蔵の名前がジョセフ・ヒコとなり、1858年(安政5年)にはアメリカ市民権を獲得してアメリカに帰化しています。1859年6月に日本に帰国したジョセフ・ヒコは開港していた神奈川に入港して、日米修好通商条約を結んだ駐日公使タウンゼント・ハリス(1804-1878)の下で神奈川領事館通訳を勤めます。翌1860年2月には通訳の職を辞して貿易商館を開きますが、外国勢力を排斥しようとする尊王攘夷運動の高まりによって外国と貿易をしているジョセフ・ヒコは身の危険を感じて再び渡米します(1861年)。1862年にエイブラハム・リンカーンと米国で会見した後には、もう一度日本に戻って領事館通訳を勤めて貿易商社を開設しますが、1863年(文久3年)には海外の事情・文化を詳しく記した『漂流記』を上梓しています。

1864年(元治元年)6月28日に、岸田吟香の支援を受けて英字新聞の日本語訳である『海外新聞』を発刊しますが、幕府の禁止と摘発(ご法度)を恐れた民衆は海外のニュースを読みたいと思いながらも、海外新聞を購読することができなかったといいます。『海外新聞』は日本で最初に発行された日本語の新聞であり、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)は『新聞の父』とも言われますが、売上のほうは赤字でほとんど売れなかったために数ヵ月後には廃刊となりました。名誉革命とフランス革命に代表される『市民革命』を経験した19世紀後半の西欧世界(ヨーロッパ世界)とアメリカでは、急速に中央集権的な近代国家の建設・整備が進みました。

封建体制(絶対王政)を打破する『市民革命』によって政治の民主化と国民アイデンティティの形成が進む一方で、18世紀以降の『産業革命』によって資本主義経済の自由貿易が活発化して、大量生産された商品を売り込むための『市場』が世界各地に求められるようになります。西欧列強の帝国主義の最大の特徴は軍事力の弱い地域を次々と植民地化していく『コロニアリズム(植民地主義)』にありますが、コロニアリズムの背景には資本主義経済があり、商品を売り込む『市場』と原材料・労働力を安く調達する『植民地』を求めて西欧列強は海外に支配領域を拡張したのです。

徳川幕府が統治する『日本』と世界各地に市場・植民地を求めて恫喝外交(軍事侵略)をする『西欧列強』とでは、『工業生産力・兵器の技術力・政治体制の効率性・国家主義(ナショナリズムと徴兵制)』に圧倒的な差がありましたが、日本が積極的な攘夷の方針(1825年の異国船打払令)を取り下げて協調的な天保の薪水給与令を出したのは1842年でした。フランスでは『自由・平等・友愛』の自由民主主義の精神を掲げたフランス革命(1789年)の後に、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)の独裁的なボナパルティズム(英雄主義)の反動があり、1848年には労働者階級が武装蜂起する2月革命が起こってフランスは一時的に共和制になりました。2月革命の前にはカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが『共産党宣言』を発表しており、江戸幕府が大政奉還で政権を失った1867年には『資本論』が出ています。

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ブルジョア階級・富裕層中心の資本主義に対抗する労働者階級中心(プロレタリア独裁)の共産主義(マルキシズム)のイデオロギーがヨーロッパのインテリ層と労働者層に普及し始めたのもこの頃であり、1917年にはこの労働者階級・貧困層の熱狂がウラジーミル・レーニンのロシア革命へと結実します。しかし、ペリー来航前の幕末の日本にもっとも大きなショックを与えたのが、『アジアの眠れる獅子』と言われた清(中国)がイギリスの近代兵器の前にあっけなく敗れて植民地化のきっかけを作った『アヘン戦争(1839-1842)』でした。

イギリスはインドで生産した大量のアヘンを清(中国)に売りつけていましたが、国民の精神の荒廃と(アヘン購入のための)銀の過剰流出を嫌った清はアヘン輸入に反対して、イギリスとアヘン戦争を戦いましたがイギリスの軍事力には全く対抗できず屈辱的な南京条約を結ばされました。更に、1856年には『アロー号事件』が起こって、イギリスとフランスに攻撃された清は北京を占領される危機に陥り、アヘン戦争から始まる西欧列強の中国侵略を知った日本は『植民地化の危機』を切実なものとして感じるようになります。

アヘン戦争後の中国は内部分裂(軍閥の割拠)や太平天国の乱の民衆蜂起によって混乱して統一性を失いますが、幕末の日本は西欧列強に対抗できる統一国家を建設するために、薩長同盟が改革の機軸となり『尊皇攘夷』から『倒幕・近代化』へと大きな政治の転換をしていくことになるのです。将軍権力によって諸藩を統率する幕藩体制の有効性と実力が揺らいでいく中で、中央集権的な新政府を樹立しようとする西南雄藩の改革の機運が下級武士層を中心にして急速に高まっていきます。

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