マシュー・ペリーの黒船来航とアジア戦略
日本の開国と日米和親条約・日米修好通商条約の締結
『幕末の鎖国体制の揺らぎ』の項目では、ジョン万次郎をはじめとする日本人の漂流と海外情勢の知見の輸入について説明しましたが、江戸末期の幕藩体制崩壊のきっかけを作ったのはペリー率いる黒船艦隊の来航でした。マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)の黒船来航(1853年)以前にも、日本沿岸には無数の外国船が来航しており、日本国内では『攘夷論(外国船打ち払い)』と『開国論(国交樹立と自由通商)』が厳しい対立を見せていました。
フェートン号事件の後に江戸幕府は『異国船打払令(無二念打払令,1825年)』を出しましたが、アヘン戦争(1840年)で清(中国)がイギリスに敗北したことや何の罪も犯していない非武装のアメリカ船を砲撃したモリソン号事件(1837年)に対する非難などを受けて、実力で外国の海軍勢力を打払うことが不可能であることを悟ります。幕府は異国船打払令を改めて、寄港した外国船に必要な燃料・水・食糧を給付して引き返してもらう『薪水給与令(1842年)』へと切り替えます。
『黒船』はアメリカ・イギリスを中心とする外圧を象徴する大型外国艦船のことですが、船体が黒いタールで塗られていたことから黒船と呼ばれるようになりました。しかし、黒船自体の存在は安土桃山時代から確認されており、当時は黒いタールで船体を塗ったポルトガル船・スペイン船のことを黒船と呼んでいました。1852年に東インド艦隊司令長官に就任したマシュー・ペリーは『蒸気海軍の父』と言われますが、威嚇以外の直接の軍事力を用いない日本開国の指令を受けて、1852年(嘉永5年)11月24日にフィルモア大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークをミシシッピ号で出航しました。フリゲート艦のミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はノーフォークを出発して、カナリア諸島・セントヘレナ島・ケープタウン・モーリシャス島・セイロン島・シンガポール・香港・上海・琉球(沖縄)・小笠原諸島を経由して、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀に入港しました。
途中の上海で東インド艦隊と合流したのですが、そこからは旗艦サスケハナ号(蒸気船)、ミシシッピ号(蒸気船)、プリマス号(帆船)、サラトガ号(帆船)の4隻で神奈川の浦賀に向かいました。浦賀に来航したペリー艦隊は1853年7月14日(陰暦6月9日)に、幕府が指定した久里浜に上陸して浦賀奉行の戸田氏栄(とだうじよし)・井戸弘道(いどひろみち)にフィルモア大統領の親書を手渡しますが、開国を要求したのみで具体的な協議は行いませんでした。ペリーは来年もう一度、開国・通商の返事を聞くために来航するという旨を伝えて琉球に引き返したのです。翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に、ペリーは旗艦サスケハナ号をはじめとする7隻の艦隊を率いて再び浦賀に来航して開国と条約締結を求めます。幕府はその軍事力を背景とした強硬な要求に抵抗し切れず、1854年3月31日(旧暦3月3日)に神奈川で『日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)』に調印したのでした。
ペリーは幕府と日米和親条約を結んだ後に、琉球王国の那覇にも寄港して7月11日に『琉米修好条約(りゅうべいつうしょうじょうやく)』を締結しており、この琉球に対する関心の強さはそのままペリーのアジア戦略につながっていました。アメリカの日本来航の背景にあったのは、産業革命による自国産業(紡績業・綿織物業)の発展と捕鯨船の補給・寄港(休養)の必要性でしたが、ペリーは日本および中国に『新市場の開放(自由貿易の実現)』と『補給港・寄港地の獲得』を要求したのでした。
このアメリカ・イギリスのアジア進出によって、西欧列強の帝国主義と資本主義経済が東洋の封建主義体制を侵食していくことになり、幕末の日本は戊辰戦争の倒幕を断行して半植民地化の危機を何とか脱します。幕末には『佐幕派・公武合体』と『倒幕派・王政復古』とが分裂して、薩摩藩・長州藩・土佐藩など西南雄藩を中心にして緊迫の度合いを強めますが、結局、外圧と時代の変化に適応して自己変革できなかった江戸幕府(徳川幕府)は薩長同盟に打倒されることになり、明治維新という革命的な近代化のプロセスがもたらされたのでした。
マシュー・ペリーは清(中国)と日本を開国させてアジアに一大自由貿易圏を形成する壮大な構想を持っており、清と日本、それぞれの中継地点にある『台湾』と『琉球王国・小笠原諸島(父島,ピール島)』に艦隊・貿易船の寄港地を建設しようとしました。ペリーが日本に来航した直接の目的は『遭難したアメリカ船員の生命・財産の保護』『アメリカ船舶への燃料・水・物資の供与』『開国による自由貿易(通商活動)』の3つの要求を日本に受け容れさせることでしたが、密かに琉球王国占領や小笠原諸島の占領によるアメリカの交易中継地点の確保という野心も持っていました。しかし、アメリカ大統領が対アジア政策に積極的だったフィルモアからピアスに代わったため、琉球王国占領のための予算と軍事力を確保することが難しくなり、アジア中継地点の直接支配は断念されることになりました。
琉球王国は19世紀当時、清王朝(中国)と薩摩藩の双方に両属していましたが、相次いで進出してきた西欧列強とアメリカに対する警戒感は根強いものがあり、『異国人え返答之心得』という返答のマニュアル集を作成して琉球王国の内情や経済力がなるべくアメリカに伝わらないようにしていました。ペリーをはじめとする欧米の提督たちは、野蛮・未開のアジア諸国を『西欧文明の先進的な知識・技術・制度』によって啓蒙開化するといった姿勢を持っていたので、日本・中国・琉球王国を強制的に開国させて通商関係を結ぶことが結果として相手のためにもなるという考え方をしていました。植民地化を免れた日本の場合には、ペリー来航の外圧は『日本国の近代化・文明開化・殖産興業』のきっかけとなりましたが、他のアジア諸国は西欧列強に領土を分割されたり天然資源や労働力を搾取されたりしただけで西欧列強の帝国主義によって啓蒙教化の恩恵を受けることは殆どありませんでした。
江戸幕府はアメリカの『開国』を要求する外圧に対抗することができず、1854年(嘉永7年)3月3日に不平等条約の走りとなる『日米和親条約』を締結します。日本側全権は大学頭(だいがくのかみ)の林復斎(はやしふくさい)で、アメリカ側全権はマシュー・ペリーでしたが、この日米和親条約締結で『下田・箱館』が開港されたことによって幕府の鎖国体制は崩壊したのでした。日米和親条約の主な内容は以下のようなものであり、その後、ロシア・イギリス・オランダとも同様の和親条約が結ばれました。
アメリカ人が日本に滞在する休息所として了仙寺(りょうせんじ)・玉泉寺(ぎょくせんじ)が定められ、日本でアメリカ人が死去した場合には玉泉寺の米人墓所に葬られることが決まりました。初代駐日総領事のタウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804-1878)は1856年に下田に来航して下田の玉泉寺に領事館を構えますが、ハリスはフランクリン・ピアス大統領から修好通商条約締結のための全権を委任されていました。タウンゼント・ハリスは武力戦争を行うことなく日本を平和的に開国させることを至上命題として、日本に対する諸外国の軍事的介入も阻止する立場を取っていました。ハリスが政治的な目標としていたのは、アメリカのアジアにおける自由貿易の利権を確立することであり、その為に日米修好通商条約を結ぶことでした。ハリスは下田に来日した翌年の1857年に『下田条約』を結んで、幕府にアメリカ人居留権と領事裁判権(日本国内でもアメリカ人に対してはアメリカの裁判権が有効となる治外法権)を認めさせました。
江戸出府を求めていたハリスは江戸城への登城と将軍との謁見が許可されると、ヒュースケンらと共に1857年10月に下田を出発して江戸に入り、10月21日に13代将軍・徳川家定に謁見してピアス大統領の親書を手渡しています。
1858年(安政5年)には、大老・井伊直弼(いいなおすけ,1815-1860)が京都・朝廷の勅許を得ることなく通商条約の締結を断行します。1858年(安政5年)6月19日に神奈川沖のポウハタン号の船上で、日本側全権の下田奉行・井上清直(いのうえきよなお),目付・岩瀬忠震(いわせただなり)とアメリカ側全権のタウンゼント・ハリスとの間に『日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)』が締結されました。正確には、日米修好通商条約14か条と貿易章程7則について調印が行われ、その後に、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間でも同様の不平等条約としての性格を持つ修好通商条約が結ばされました。アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダとの間に結ばれた修好通商条約(不平等条約)をまとめて『安政5ヵ国条約』といいます。
タウンゼント・ハリスは日米修好通商条約を結ぶに当たって、清(中国)を半植民地化する契機となった『アロー号事件(アロー戦争・第二次アヘン戦争,1857~1860)』の途中の天津条約と英仏の帝国主義を引き合いに出しました。このまま自由貿易を認めずに市場を閉ざしていれば、アロー戦争で手痛い敗北を喫して不利な条約を結ばせられた清(中国)と同じように英米の侵略を受ける恐れがあると日本に脅しをかけ、自由貿易の要求を認めさせたのでした。
日米修好通商条約の締結によって、下田・箱館の2港だった開港場が『下田・函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫』の6港に拡大され、アメリカは日本の役人の規制を受けずに自由に商品を持ち込んで売買できるようになりました。更に、日本の金・銀の市場では『金1対銀4.65』の交換比率であり諸外国の『金1対銀15.3』よりも銀が高かったので、西欧諸国は日本に銀を『金との交換目的』で積極的に持ち込んで割安で金を手に入れ、日本から大量の金が外国に流出してインフレーションの経済的混乱が起こることになりました。不平等条約である日米修好通商条約の主な内容は以下のようなものであり、明治維新を成し遂げた近代日本は明治期の外交政策を通して『不平等条約の改正』に精力的に取り組むことになります。
トップページ> Encyclopedia>
日本史・世界史>現在位置
ブックストア, プライバシーポリシー