坂上田村麻呂の東北征討と平安時代の奥羽経略

坂上田村麻呂による蝦夷征討と東北経略
徳一の東国下向と陸奥の宗教文化

坂上田村麻呂による蝦夷征討と東北経略

『平安時代の歴史』の項目では、桓武天皇による長岡京・平安京の建都と平城天皇・嵯峨天皇による『二所朝廷』などを取り扱いましたが、ここでは桓武天皇の勅命を受けて陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)征伐を行った坂上田村麻呂を中心にして解説していきます。奈良時代末期から平安時代初期の武官・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ,758-811)は、東北地方の征討・経略(統治)に非常に大きな貢献をした人物であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝が信奉した第二代の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)としても有名です。

794年頃に征夷大将軍に任命された大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を初代の征夷大将軍と解釈する見方が有力ですが、当時は東国支配の長を征東大使や征夷使とも呼んでいました。坂上田村麻呂は、797年に桓武天皇によって征夷大将軍に任命されています。征夷大将軍という臨時の官職名(律令に規定のない令外官)の前提には中国の中華思想と律令政治があり、天命を拝受した天子(皇帝・天皇)が夷狄(いてき=野蛮な異民族)を征伐するという意味合いがあります。

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実際には、奈良時代から平安時代にかけての関東以北(坂東以北)の陸奥・出羽地方(奥羽地方)の原住民(蝦夷)が、必ずしも野蛮・凶暴だったわけではありませんが、大和朝廷(天皇)中心の日本国の内地拡大の正統性を示すために『蝦夷征討(未開の異民族の征伐)』という言い方が為されています。中華思想の華夷秩序によって、天皇の在所(朝廷)がある大和・山背(山城)など近畿地方周辺を『文明圏』と考え、その文明圏から遠く離れれば離れるほど『未開の異民族(蝦夷)』が支配する領土に入っていくという地理感覚が当時の貴族(公家)にはありました。

大和朝廷の軍事力による『奥羽地方の蝦夷攻略』というのは、飛鳥時代や奈良時代から続く『東国支配の延長上』にありました。律令制を整備しようとした聖徳太子の登場以降、中央集権的な日本国の領土を関東以北(奥羽地方)に広げようという政策が続いていました。壺の石碑(いしぶみ)によると、724年に東北支配の拠点となる多賀城(たがじょう)大野東人(おおののあずまんど)によって建設され、762年には藤原朝葛(ふじわらのあさかり,葛の字は正確には「けものへん」が必要)によって多賀城の補強工事が為されました。

朝廷は奥羽地方を統治する官職として按察使(あぜち,地方行政の監督官・令外官)を719年に制定し、780年には紀広純(きのひろずみ)が按察使を務めていましたが、夷俘(俘囚=朝廷に帰属した蝦夷)出身の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こしました。多賀城を襲撃した伊治呰麻呂は食糧・財物を収奪して放火しましたが、この反乱に対して平城京の朝廷は、征東大使・藤原継縄(ふじわらのつぐただ)、征東副使・大伴益立(おおとものますたち)・紀古佐美(きのこさみ)を陸奥の多賀城に派遣しました。

しかし、藤原継縄率いる蝦夷征伐のための官軍は伊治呰麻呂らの俘囚軍に圧倒されて敗戦し、光仁天皇は征東大使を藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)に置き換えて再度戦いを挑みますが反乱の鎮圧に失敗します。光仁天皇は781年に桓武天皇に譲位して、桓武天皇は長岡京遷都を間近に控えた784年(延暦3年)から本格的に陸奥地方(東北地方)の反乱の制圧に取り掛かり始めます。桓武天皇の二大業績は『長岡京・平安京の造都(中枢の強化)』『陸奥地方の征討・経略(周縁の拡大)』ですが、この二つは長岡京遷都のある784年以降同時並行的に進められていくことになります。古代の昔から明治時代に至るまで、日本は京都・江戸(東京)に中央政府を置いて南北に領土を拡大していきましたが、平安時代には南方にいた異民族の隼人(はやと)は大部分が既に朝廷の権威に服属していました。

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784年に、持節征東将軍・大伴家持(おおとものやかもち)、副将軍・文室与企(ふんやのよぎ)と大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らの兵力が陸奥の多賀城に向かいました。老齢の大伴家持が征東将軍に任命された背景には、前回の陸奥遠征で讒謗(ざんぼう)によって処分された大伴益立の汚名を雪ぐ(すすぐ)という本人(家持)の意志がありましたが、家持は目立った戦果を上げることができず785年8月に陸奥の地で客死(かくし)しました。大伴家持(718-785)というと『万葉集』の編纂に関与した歌人としての顔が有名ですが、大伴氏は元々軍事貴族であり大伴家持自身も朝廷の武門としての自負を持っていたようです。

桓武天皇の御世には合計して5回の蝦夷征討(東北征討)が実施されますが、1回目(大伴家持)と5回目(坂上田村麻呂)の蝦夷征討では実際の戦闘は行われず、5回目の征討(804年)の二年後(806年)に桓武天皇は崩御しました。桓武帝の蝦夷征討や蝦夷の指導者・アテルイ(阿弖流爲)については、『日本紀略』『続日本紀』などの史書に記述が残されています。第一次征討(788)では紀古佐美(きのこさみ)が征東大使、多治比浜成(たじひのはまなり)が副使となり5万2800余名の兵士を率いますが、胆沢(いさわ)に本拠を置く蝦夷の賊帥・アテルイ(阿弖流爲)に巣伏村の戦いで大敗を喫して撤退しました。

第二次征討(791-794)では、征東大使・大伴弟麻呂を副使の坂上田村麻呂が補佐して、初めて蝦夷軍に大勝利を収めることに成功します。また、793年にはそれまで『征東大使』と呼ばれていた東北討伐軍の長の官職が『征夷大使』と改められており、桓武天皇の蝦夷経略に対する意気込みの強さが表れています。794年には大伴弟麻呂が史上初の征夷大将軍となっていますが、蝦夷との実際の戦いを指揮して卓越した武勇を見せ付けたのは坂上田村麻呂でした。第三次征討(797-801)では、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されており、朝廷の陸奥地方における勢力圏を多賀城の北部へと拡大しました。

蝦夷との戦いに勝利した坂上田村麻呂は多賀城の北に陸奥統治の拠点となる胆沢城(いさわじょう)を造営し、その後、胆沢城は官衙(かんが=行政機関)としての役割を果たすようになっていきます。第三次征討の翌年に当たる802年には、蝦夷軍の指揮官であったアテルイ(阿弖流爲)モレ(母礼)が胆沢城に投降してきますが、平安京に移送されたアテルイとモレは坂上田村麻呂の助命も虚しく処刑されました。胆沢城の更に北には軍事的な前線基地としての役割を果たす志波城(しわじょう)が803年から造営され始めますが、天災被害を受けることの多かった志波城の機能はすぐに徳丹城(とくたんじょう)へと移されました。

蝦夷を平定した坂上田村麻呂の奥羽経略の拠点は多賀城・胆沢城・徳丹城(志波城)となりましたが、桓武天皇の深い信任を受けた田村麻呂は『征夷大将軍・近衛権中将・陸奥出羽按察使・従四位下・陸奥守鎮守将軍』という陸奥・出羽地方の全権大使としての肩書きを得るまでに昇進しました。蝦夷反乱を鎮圧して東北地方(奥州地方)を日本の領土に組み込んだ坂上田村麻呂は、その後、『武人の鑑』として神格化されていき胆沢の鎮守府八幡宮には田村麻呂の剣や弓矢が奉納されて武家の崇拝の対象となりました。東北地方各地にはさまざまなエピソードと共に田村麻呂伝説が残っていますが、京都・清水寺(きよみずでら)の開基にも坂上田村麻呂とその妻が関わっています。京都・清水寺の縁起によると、805年に桓武天皇から田村麻呂が清水寺の寺地を賜り、807年に田村麻呂の妻が寝殿造りの建物を壊して、仏像を安置する仏堂を造営したのが清水寺の創建となっています。

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第50代・桓武天皇と坂上田村麻呂による東北征討の後には、第51代・平城天皇が808年に藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)を陸奥按察使に任命し、810年には第52代・嵯峨天皇が文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を陸奥按察使・征夷大将軍(811)にしています。文室綿麻呂の蝦夷軍に対する決定的な勝利と対立的な蝦夷の日本各地への強制移住によって、蝦夷は次第に日本国へと同化していくことになります。907年に編纂された『延喜式(えんぎしき)』によると日本各地に『俘囚料』という行政支出が見られるので、『服属した俘囚の同化政策』の推進のために俘囚の人たちの強制移住が行われたことがわかります。

桓武天皇の陸奥地方経略以前の時代には、東北地方の先住民を『蝦夷(えぞ・えみし)』と呼んでいたのですが、坂上田村麻呂や文室綿麻呂の征伐によって朝廷に服属する蝦夷が増え、蝦夷は『俘囚(ふしゅう)』『夷俘(いふ)』と呼ばれることが多くなりました。『俘囚』には朝廷に完全に服属した異民族という意味合いがあり、『夷俘』という場合には中央政府への服属や同化の程度が弱い蝦夷という意味があります。しかし、蝦夷の人たちは朝廷の軍事力によって強制的に服属させられたわけですから、比較的安定した9世紀以降にも何度か俘囚による反乱蜂起が起こることになります。

『三代実録(さんだいじつろく)』という史書によると、出羽地方(秋田県)で878年に『元慶の乱(がんぎょうのらん)』という俘囚の反乱蜂起が勃発したといいますが、この反乱の原因は秋田城司・良岑近(よしみねのちかし)の俘囚に対する重税と抑圧・差別にありました。元慶の乱の平定には、備中国司の藤原保則(ふじわらのやすのり)と蝦夷の言語に精通していた鎮守将軍・小野春風(おののはるかぜ)が当たりました。

官吏側の苛烈な悪政に反乱の原因があると理解していた藤原保則は、俘囚(夷俘)の反乱に対して武力鎮圧を用いずに小野春風を起用した対話外交の懐柔策で臨み、俘囚たちを自発的に投降させることに成功しました。元慶の乱の後には暫く俘囚の大規模な反乱は影を潜めますが、11世紀には、俘囚長・安倍頼良が源頼義に反旗を翻す『前九年の役(1051-1062)』と俘囚の清原氏が滅亡する『後三年の役(1083-1087)』が起こっています。

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徳一の東国下向と陸奥の宗教文化

奥州・出羽の東北地方には、『軍神・毘沙門天の化身』ともされる征夷大将軍の田村麻呂伝説が数多く残っていますが、奈良(南都仏教)の興福寺の僧侶であった徳一(とくいつ,780頃-842頃)に関する伝承・寺社縁起も多く伝わっています。徳一は徳逸・徳溢とも表記しますが、『南都高僧伝』にその名前が載っているように元々は陸奥(奥州)地方の人間ではなく、奈良の興福寺(こうふくじ)修円(しゅうえん)に付いて学んだ法相宗の僧侶でした。修円の師は、唐招提寺の鑑真(がんじん)から直接授戒を受けた賢憬(けんけい)であり、藤原氏の氏寺である興福寺は戒律(具足戒)を重要視する法相宗の総本山です。そのため、興福寺の修円に学んだ徳一は、初め仏教界の中ではエリートに属する僧侶だったと考えられます。

血縁的には徳一(徳逸)は、称徳天皇(孝謙天皇)に厚遇された後に反乱を起こして失脚した藤原仲麻呂(恵美押勝,706-764)の子であるとされていますが、年齢的に若干の矛盾があり正確な出自には謎が残っています。奈良時代の平城京では、法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・華厳宗・律宗の南都六宗(奈良仏教)が隆盛していましたが、これらの仏教は皇室・貴族鎮護の学問仏教としての性格を濃厚に持っていました。

法相宗の開祖は道昭(どうしょう)、中心寺院は興福寺・薬師寺、三論宗の開祖は恵灌(えかん)、寺院は東大寺南院、倶舎宗の開祖は道昭、寺院は東大寺・興福寺、成実宗の開祖は道蔵(どうぞう)、寺院は元興寺・大安寺、華厳宗の開祖は良弁(ろうべん)、寺院は東大寺、律宗の開祖は鑑真、寺院は唐招提寺でした。藤原鎌足や藤原不比等との所縁が深い興福寺は藤原氏の氏寺であり、南都七大寺(東大寺・法隆寺・薬師寺・大安寺・元興寺・西大寺・興福寺)の一つとして数えられます。

興福寺の学僧であった徳一は20歳前後で平城京から東国へと下向しますが、なぜ文化・宗教の中心地である平城京を離れて、奥州会津の恵日寺(えにちでら)や常陸筑波山の中善寺に行ったのかの理由は定かではありません。一説には、平城京の仏教界の中の勢力争いに巻き込まれて東国に流刑されたという説もありますが、自分自身の決断で中央政府の喧騒を離れて奥州(福島県)や常陸(茨城県)に赴いた可能性も否定できません。徳一が活動の拠点にしたのは、奥州会津で磐梯山(ばんだいさん)を背景に望む恵日寺と常陸筑波山の中善寺でしたが、晩年には『筑波山徳一』と呼ばれていたように筑波山の中善寺の方に本拠を置いていたようです。徳一大師の事績と徳行を重視する『恵日寺縁起』では、筑波山で死去した徳一の首を弟子の金耀が掻き切って恵日寺に持ち帰ったという伝説が残されています。

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現在では、奥州会津の恵日寺と筑波山の中善寺のどちらをより重要な拠点としたのかは推測するしかありませんが、徳一が何処かの時点で会津から筑波山へと拠点を移したのは確かなようです。徳一は天台宗の開祖である最澄(767-822)と激しい論争を交わしたことでも知られていますが、『仏性抄(ぶっしょうしょう)』という書物を書いて天台教学を苛烈に非難しました。

最澄と徳一の論争を『三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん)』といいますが、これは、仏教の解脱・成仏の条件として『生まれながらの貴族的身分』が必要か否かといった問題を巡る論争で、修行によって万人が解脱(悔悟)できるとする最澄に徳一は強く反対しました。真言宗(真言密教)の開祖・空海(774-835)から『徳一菩薩』と呼ばれて敬われていた徳一(徳逸)ですが、徳一は空海の密教的な呪法・儀式にも批判的であり、奈良仏教(南都北嶺)の貴族主義的な伝統を重視していました。

奈良時代の南都六宗に代わって平安時代には最澄の天台宗と空海の真言宗が隆盛します。奈良仏教と平安仏教の違いは、平安仏教が万人の救済を説く大乗仏教の要素を取り入れたことにあり、教義研究よりも加持祈祷・呪術秘儀(密教)を重視し始めたところにあります。徳一はどちらかといえば平城京の貴族アイデンティティが強くエリート学僧としての側面を持っていましたが、東北地方の寺社の縁起にその名前が多く見られるように、奥羽の仏教文化の発展に大きな貢献をしました。東北地方には『田村麻呂伝説』『徳一の縁起』が数多く残されていますが、それは、征討した奥羽地方に多くの内地人が早くから移住したことの証左であり、段階的に蝦夷(俘囚)の人たちが平安京の文化・宗教に順応していったことを示しています。

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